複雑・ファジー小説

第二十八話『その柚子は、カレーライスの香りを纏う』 ( No.116 )
日時: 2011/08/13 18:08
名前: 水瀬 うらら (ID: JNIclIHJ)

 七夕の夜。母さんこと水野凌は、笑っていた。
「ゆずりん!今日は、どーだったかね!」
 好奇心旺盛なその瞳。別に染めたわけではない、赤みを帯びた髪。黒と白のコントラストがカッコいい、エプロン。今にも折れそうな古い蒼の眼鏡を軽くかけた母さんに、帰宅直後、思いっきり、ハグされた。
「うーん!いつ嗅いでも良い香りだぁ!」
 至福とでも言わんばかりに、目がとろんとしている。あたしは、麻薬じゃないぞ。
「……特になにもないけど、ていうか、それ、あたしのエプロン……」
「お母さんは、ただただ、心配なだけなんだよぉ?」
 純粋に見つめられ、思わず、目を逸らした。くっ、視線に弱い性格は、まだ治らないの?
「カレーライス、作ったお!ゆずりん!」
「えー」
「だったら食わせねえ」
「是非、いただきます」
 あたしは土下座する。額に触れるフローリングが、やけに冷たい。毎日思うが、このコントみたいな会話は一体、何なのだろう?心底、呆れた。
「さささ、じゃあ、食べよー!」
「はいはい」
 学校の鞄を置きに、自室の部屋に向かう、あたしの足取りは軽かった。


「美味しい!母さんにしては!」
「なによ、その言い方は!まるで私の料理が普段、不味いみたいじゃない!」
 あたしは、頬を膨らませる、母さんを横目にカレーを頬張った。
「普段、『勘』で料理しているから、時々、とんでもない味を作り出すじゃないか」
「確かに私は『勘』を頼りにしすぎて、先週、唐辛子を一瓶まるごと入れたわ!だけど美味しかった!凄いと思わない?」
 その自信に満ち溢れた眼差しに、半目になる。それは、単に手を滑らせただけとは言わないのだろうか?言い訳……。
 母さんは、テーブルに置かれた、ポットに手を伸ばした。傾け、水をコップに注ぐ。
「だからね、私の料理は……」

「うるせえ」

 母さんの言葉は、『侵略者』に阻まれた。あたしの前に座っている、『侵略者』は、母さんの手に持っているコップを奪い取り、ごくごくと飲み干した。
「ほら、水、入れろ」
 空になったコップを無理やり、渡される。あたしは、コップを見つめていた。
「早く入れろよ」
「……」
 命令される、毎日。脅される、毎日。
「……ふざけんな」
「あん?」
 あたしの手が震えた。歯を食いしばる。そして、叫んだ。

「黙ってりゃあ、好い気になりやがって!ふざけんじゃねえよ!」

 何かが叩かれる音が響く。見ると、『侵略者』が大きく拳を作って、テーブルを叩いていた。目が血走っている。床には、割れたコップの破片が散らばっていた。『侵略者』は立ち上がり、近付いてきた。あたしは、いつになく興奮状態で、普段は視線を合わせようとも思わない『侵略者』を睨みあげた。『侵略者』の左手が上がる。
 覚悟は、出来ていた。
 首の右辺りに、激しい痛みが走り、思わず、目を瞑った。
「ちょっと!柚子になにすんのよ!謝んなさい!」
 傍で母さんが激怒する。顔は真っ赤だ。
「俺、悪くねえもん!謝らねえよ、ぜってぇ」
 あたしを指さし、子供のように言う『侵略者』に、あたしは不快感を覚えた。首の痛みが消えることはない。
「コイツまで刃向ってきやがったよ!」
 俯いていると、『侵略者』は憎悪を燃やしながら、吐き捨てる。
「お前なんか、薬で死ね!カス!」
 気が付くと、あたしは、自分の部屋のドアノブを握っていた。わざと大きな音を立て、ドアを閉める。
 入った途端、辺りが真っ暗になる。さっきまで、明るかったのに。
きっと、『侵略者』に電気を消されたのだろう。
 ドアに背中を預け、しゃがみこむ。頭を膝につけた。
 ————『薬で死ね!カス』だって。
 あたしの頬を涙が伝う。どうしてなのかな……。瞬きをしてないのに、涙が止まらないや。
 本当に、『あの人』は……あたしの兄貴なんだよ?しゃくり上げそうになるが、あたしは口を手で押さえた。兄貴に聞こえたら……、駄目だ。聞こえちゃ、駄目だ。駄目なんだ。
 あたしは涙がこれ以上、溢れないよう、顔を上げた。
 見えるのは、闇だったが、やがて、ぼんやりと確認することが出来る、目の前に積み重なる、布団一式。ふと、そこに女の子が見えたような気がした。小さな……小さな……女の子の影。
 それにあたしは、語りかけた。

「……大好き大好き大好き。なぁ……あたしを、受け入れて、くれるかな?」

 理由は分からない。自分でも。今、思えば、もしかしかすると、このとき、既にあたしの心は壊れていたのかもしれない。
 女の子は、言葉の真意を掴めず、首を傾げたようだった。

「————謝って。」
「いやだ」
「あんたは知らないと思うけど、あの子、陰で、泣いてるのよ」

 母さんの声がする。
 その声は、あたしを守ってくれているようだった。 あたしのことを、理解してくれた、ただ一人。
 自然とあたしの顔がぐしゃぐしゃに歪む。

「は?あいつが泣く?なんで?意味わかんねえ」

 何気ない『侵略者』の一言が、深く心に突き刺さる。俯いた。
 そうだよな……。泣くとか、意味が分からないよな……。
 ぽたぽたと涙が落ち、やがてズボンはびしょ濡れになった。
 声を上げてはいけない。泣いていることが、バレてはならない。
 その志が、曲がることはなかった。

 数時間後、あたしはとうとう、自身の部屋の扉を開けた。重い足取りで、リビングに顔を出す。
「柚子!」
 そこには、目を見開いた、母さんの姿があった。肩を揺さぶられる。
「大丈夫?」
「……一応」
 嗚咽をこらえ、平静を装った。辺りを見回すが、『侵略者』の姿はない。あるのは、『侵略者』が投げたと思われる、物の残骸と、割れたコップの破片だけだった。
「!」
 突然、母さんに抱きしめられた。
 驚いて、母さんの顔を見ると、柔らかな表情を浮かべている。髪を優しく、撫でられた。

「…………泣くなよー」

 あたしは、声が出なかった。明るく、慰めようとする、母さんの姿。瞳の奥は、戸惑っているようだった。
 ……泣くな?意味が、分からない。
 でも、涙は止まらなかった。抑えようと必死に頑張っても、どうしても、泣いていることがバレてしまう。
 母さんの言った言葉の真意が掴めないまま、夜は更けていく。
臨夢のぞむはね、今日は機嫌が悪いんだよー」
 カレーライスは、既に冷め切っていた。
 七夕のカレーライスを思い出すことほど、嫌なことはない。
 だって、あたしにとって、一番情けなくて、一番辛かった。一日だから。