複雑・ファジー小説
- 第三十話『その柚子に、祝福の虹が架かる』 ( No.128 )
- 日時: 2011/08/04 10:27
- 名前: 水瀬 うらら (ID: JNIclIHJ)
どれくらいの時間が経ったのだろう。相変わらず、烈風が体を打ち付けている。
「————柚子!」
どこからか、声が聞こえた。
「——————柚子!」
あたしだけを、呼ぶ声が。
朦朧とする中、重たい瞼を開けると……。
あたしのよく知っている、人だった。
どうやら、落ちた瞬間、腕を掴まれ、今のところ、助かっているらしい。といっても、今、体を支えているのは、折れそうな細い、アイツの腕、一本なのだが。
「柚、子」
目を見開く。大量の雨粒に打たれ、目が痛いが、それどころではない。
ここに、いるはずのない、人だった。
————燈兎が、いた。
唇を白くさせるほど、噛みしめながら、右手であたしを掴んでいる、燈兎だった。雨に濡れ、チャームポイントのポニーテールは、ぐっしょりとしていて、力がない。
「な、なんで、お前がここに……」
あたしは足の感覚が麻痺するのを感じながら、そう口から漏らした。
虐められているのに。あたしよりも、遥かに辛いはずなのに。
あたしを、救う余裕なんて、ないはずなのに。
自分のことなんて、放り出して、誰かを、助けるなんて……。
「——————嫌なの。」
あたしの頬になにか雨とは違う、温かいものが当たる。
「え……」
「————嫌だよぉ」
顔を涙で、ぐしゃぐしゃに歪め、泣いていた。
誰かのために。人のために。
あたしの、ために。
「お前」
「——死なないで。」
弱弱しく、絞り出した、燈兎の、想い。
言葉が、出なかった。
「生きるのを……諦めないで。」
燈兎の手に力が籠るのを、感じる。
あたしは……そんなアイツに……。
「——馬鹿だなあ、お前は……」
笑って見せた。その場の雰囲気にそぐわず。
自分も泣いてしまいそうになって、必死に堪えた。
息が、出来ない。苦しい。
泣くのを堪えるのって、こんなに、辛かったっけ。
そう思いながら、もう一度、笑う。
これは、あたしの、精一杯の、強がりだ。
「あたしは、まだ死なないよ」
雨の冷たさで感覚が失われた片手を、必死に伸ばし、屋上の床に手をかける。手は、ぶるぶると震えていた。
歯を食いしばる、あたしの意図を察したのか、燈兎も意を決したようだ。全力で引き上げる。
鈍い音がした後、ようやく、あたしは屋上にまた、戻ることが出来た。
ほっと安堵する、燈兎。
「良かった……」
彼女の頬に、また涙が伝う。あたしは申し訳ない気持ちで、一杯だった、
そして、
「ごめん」
気持ちを口にした。
あの時、助けられなくて、ごめん。
「助けてくれて、ありがとな」
絶望から、救い出してくれて。
それでも泣き止まない燈兎に戸惑う。どうしたら……。
「……泣くなって」
あたしは、燈兎の頭を優しく撫でた。
「泣く必要なんて、ないんだぞ?」
どこか、聞いたことのある言葉を口ずさむ。
「だから、泣くなよ」
これは……母さんの、言葉だ。
「——うん」
燈兎が涙を拭うのを見つめながら、あたしは悟る。
母さん……。なんで、あの言葉を言ってくれたのか、やっと分かったよ。母さんは、あたしのことを、心配、していてくれていたんだな。
言葉で表せない、感謝の気持ちが、心を満たした。
いつのまにか、雨は、止んでいた。
「柚子」
「ん?」
あたしは、笑いかける。助けてくれた、彼女のことを、母さんがあたしにしてくれたように。優しさで、包み込むように。
「私……。何度でも、助けるから。私は、柚子と、一緒にまた、笑い合いたいの」
彼女の瞳に、迷いはなかった。
手を差し出される。握手をしよう、と言うのだろう。
お前……、どれだけ良いヤツなんだよ。
そう内心、苦笑する。
「あたし、もう、心配かけたりしないから」
握手する。ほんのりと、温かい、
「約束、な」
燈兎は、一瞬、驚いたが、その後、「私も、約束だよ?」と微笑んだ。
二人で空を見上げる。嵐が去って、空は蒼く、澄んでいた。
「あれ、見て!虹!」
燈兎が目を輝かせて、指さす方向を見ると、色鮮やかな、虹が現れている。
まるで、あたしたちの進んでいく未来を、祝福するかのように。