複雑・ファジー小説
- 第三十二話『思い出せない、重要なこと』 ( No.141 )
- 日時: 2011/08/12 22:38
- 名前: 水瀬 うらら (ID: JNIclIHJ)
「——という訳だ」
水野さんは、疲れたとでも言うように、背伸びをした。
「そんな、壮絶な人生を送っていただなんて」
俺は、その場に立ち尽くした。うっかり、傘を落としてしまいそうだった。慌てて、手に力を込める。半ば、放心状態だった。
「なぁに。そんなに大したことじゃないぜ?シノっち」
水野さんはケラケラと乾いた笑い声をあげる。
「みっちょん。強いんだね」
何故か手にハンカチを持った、蓮が若干、涙ぐんでいる。演技かどうかは定かではない。
というか、そんなことはどうでもいいんだった。
兄から暴力を受けていること、この現状を『大したことじゃない』?
水野さんは、俺が俯いているのを見て、少し困ったような顔をした。
そんなんじゃ……。それじゃあ……。
俺は、水野さんに、ゆっくりと近づいた。きょとんとした瞳が、こちらを見つめている。
「シノっち、どうし——」
言葉が途切れた。
止むことのない雨。その雨に、打たれている、少女。
その少女を慰めるように、無言で、傘を差しだす。俺。
水野さんは、俺を凝視した。息を呑む音が聞こえる。
「こ、れは……な、んのジョーク、か、な?」
「これは、俺の気持ちです」
迷いはなんてものはない。
この学園の真意すら知らずに、入学した、俺。
世間を知らない、俺に、唯一、出来ること。それは。
誰かに、自分の気持ちを伝える、ことだ。
「俺は、水野さんが何を思って、今を生きているのか。詳しいことまでは分かりません。漫画の中で生きる、全知全能の主人公じゃないですから。」
「……」
「自分自身を未だに、嘲笑う君が。哀しいんです。」
目を細め、どこか遠くを見つめるように、水野さんを見た。
「君は強く、儚い人です。だからこそ、俺は放っておくことが出来ません。」
「……」
「辛いときは、辛いって、叫べばいいじゃないですか」
言葉に熱が入る。
————まるで、草太。お前に言っているみたいだよな。————
「なにか悲しいことがあったら、気軽に言ってくださいね。俺、相談に乗りますから」
水野さんは、しばらく黙っていたが、やがて。
「馬鹿だな、シノっちは。」
頭一つ半、違う俺を見上げ、苦笑した。
「良いんですよ、馬鹿で。俺には、これがベストです。」
漆黒に染まっている傘が、水野さんの手に渡る。
——————————「ほんと……馬鹿だよ。」
「はい?」
「いや、なんでもない」
俺は瞬きをした。水野さんは今、何といっていたのだろう。聞こえなかった。
気のせいか、水野さんは、前よりも、明るい笑顔を浮かべていた。
「柚子」
「——ん?」
水野さんは振り返る。そこには、雨の中、静かに俺たちの会話を見守っていた、霧島さんがいた。心なしか、柔和な笑顔である。
「私ね、心配しなくても、柚子は、きっと大丈夫だって。そう、思っているの。」
「ああ、分かってる。ありがとう、燈兎」
握手を交わす、二人。
その光景を、じっと見つめる。
「シノ」
「なんだ」
半目になりつつも、隣を見ると、そこには、
「なに、お前?なんで、みっちょんや燈兎さんと昼ドラを繰り広げてんだ!」
怒りで顔を引き攣らせた蓮が、拳を振り上げていた。
咄嗟に右に避けると、頬に擦れ擦れで、拳が通り過ぎた。顔から、血の気が失せる。
「ちょちょちょ、ちょっと待」
「問答無用!」
「理不尽だああああああああ!」
俺は、顔を真っ赤にさせて、追いかけてくる蓮から、全力で逃げ回る。
「水野、蓮を止めてくれ!」
くっ。よりによって、ここが屋上だなんて!運が無さすぎる!
「うわぉ、ついに、敬語が外れたね。あたし、嬉しいぜ?」
目を丸くさせながらも、どこか楽しそうな表情の水野。
既に他人事って、なんなんだよ……。
「み、見捨てられた!」
「死ねええええええええええええええええええええええええ」
「宮城君、非常に目障りです。」
俺が呼ばれたわけではないのに、びくっと肩が震えた。
「どうしたら、それほどまでに、ウザくなるのでしょうか」
寒い。
「はい!ブラック燈兎のとーじょー」
水野は、愉快だ愉快だと言わんばかりに、俺の傘で霧島さんを指し示した。
「燈兎さん、ブラック燈兎も、可愛いよ?」
「奈落へ堕ちろ」
蓮にとって、ブラック燈兎は、逆に興味をそそる人物だということが、判明した日であった。
いつしか、灰色の雲は、姿を消し、果てしなく広がっている青い空だけが残った。
「それにしても」
誰もいなくなった屋上で、俺はぽつりと呟く。
水野の話を聞いて、驚いたことが二つある。どちらも、水野の過去とは、関係のないものだが。
一つは、名前だ。
「あんなに珍しい名前なのに。」
俺は空を見上げた。
世の中、って、案外、狭いんだな。
二つ目は——なんだったか、思い出せない。
凄く重要なことだったんだが。
話を聞き終った時までは、覚えていたのに。健忘症?この歳で?
「篠原君、行きますよ?」
下の階へと繋がる階段から、声が聞こえる。
「あ、はい!今、行きます!」
俺は、屋上の扉のノブを掴んだ。
————二つ目の内容を、思い出せないまま。