複雑・ファジー小説

第三十五話『現実逃避はしたことありますか?』 ( No.169 )
日時: 2011/08/21 13:39
名前: 水瀬 うらら (ID: JNIclIHJ)

「こちらが見学者の、吾妻或さんと吾妻廻君です」
「……」
 只今、俺は絶望的な機会に遭遇している。白いクーラーが俺の体を芯まで冷たくさせていた。
「改めまして、初めまして、篠原先輩」
「あっ、この人、前に上級学校訪問の下見で会った人じゃね?」
「廻、口を慎んでください」
 廻君達は、以前と同様の服装をしていた。
 そして、開口一番、親しげな口調で、指を差されるが、今は正直、それどころではない。
 なにせ、目の前には、或君ではなく或さんがいるのである。
 男子と思っていたら、女の子でした。
 滅茶苦茶、失礼なことを考えたのだ。一時にせよ。
「篠原慎君、挨拶を」
 しかも。
 俺は馬鹿みたいに広い、図書室の窓を見つめた。
 女の子である或さんに、告白されたのである。
 これは、もう、本気としかとれない。
 なるべく、或さんと目を合わないようにと、努める、俺。
「篠原慎君、挨拶を」
「しししし篠原慎です。宜しくお願い致します」
 忍先生の訝しげな視線に気づき、はっと正気に戻った。視線を戻す。
 先生は、一瞬、不安そうな顔を浮かべたが、直ぐに気を取り直したようだ。咳払いをし、緊張感を出そうとしていた。
「本校は、数年前、建設されました。そのため、歴史と呼べるものは、ほとんどございません」
 俺は目を見開いた。
 忍先生、この学園のイメージダウンは、いけないのでは!?
ツッコみたいが、状況が状況なので、堪える。
「ですが、本校は、他では類をみない、特徴的な学校です」
 忍先生の話によると、一番印象的な部分は、一年生には、行事参加資格がもらえないということ。何故か。
 それは、一年生独自の、学園の楽しみ方を見出すため。
 そういうことは、二、三年生にさせるべきでしょう、と思うのだが、この学園の校長は一味違った。
 それじゃあ、『個性』というもんが出んじゃろぅ。
 二、三年生は一人一人の個性を、自身が自覚したことで、行事を盛り上げていく。
 言わば、一年生は、その準備期間であるらしい。
 なんて、ふざけた趣旨だろうか。
 そう思ったが、内心、校長先生に対する思いが変わった気がする。
 ふざけているようで、その目的の芯は、純粋なのだ。
 どこかバランスのとれた、性格。

 ————俺はその『個性』に惹かれつつ、あるのかもしれない。

「説明は、以上です。何か質問はございますか?」
 忍先生は、ようやく、口を閉じた。
 廻君が、手を上げる。その眼は、好奇心で満ち溢れていた。
「はいっ! 校長先生のこと、どう思っているんですか!」
「……そうですね」
 先生は、ふわりと微笑んだ。

「とても、優しい人です」

「っ! そそそうですか!」
 廻君は、そんな忍先生に見惚れたのか、顔を真っ赤にさせて、勢いよく、席に着いた。
 俺も少し、顔が熱くなっている気がする。
 普段、冷めた感じの忍先生が見せた、俺の知らない一面。
 卒業までの道のりは、大変そうだ。
「…………」
「? どうかしましたか?」
 忍先生の笑顔は消え失せ、冷めた口調に戻る。
 先生の視線の先には、無表情だけど、どこか仏頂面の或さんの姿が。
「何でもありません」
 一体、どうしたのだろうか?
「そうですか、では、これにて、終了とさせていただきます。有難うございました」
 忍先生は、起立した。俺も習う。
 結局、何も説明しなかったな。俺。
 そう思いながら、頭を下げた。
「こちらこそ、有難うございました。では、失礼させていただきます」
「ありがとうございましたっ!」
 或さんたちは、足早に図書室を後にした。

「篠原慎君、ご苦労様でした」
「いえ、俺はなにも……」
 俺は口ごもった。実際、俺はなにもしていない。
「それでも、です」
 忍先生は、俺に手を差し出してきた。
 意味を察し、握手する。
 温かい。
「では、私も失礼しますね」
 眼鏡の位置を直しながら、忍先生は、図書室の出入り口に向かっていった。
 俺は、その姿を、ただ見つめていた。
 あれが、ギャップというものなのだろうか。