複雑・ファジー小説

Re: 獣妖記伝録 ( No.5 )
日時: 2011/08/02 20:49
名前: コーダ (ID: LcKa6YM1)

 暗い海。波は穏やかで、荒れた様子は全くない。
 夜なのか、海の水温は昼間より温かい。手を入れてみると、お風呂を沸かせてから、20分くらい経った時のぬるさであった。
 水平線に浮かぶ星空は、とても綺麗に輝いており、見る者を感動させるくらいである。
 そんな海に、1隻の船が漂っていた。
 12人くらい乗れる、屋根のない手漕き型の、昔懐かしい船。
 せっせと、船乗員は船を漕いで、海の奥へ向かう。
 そして、広大な海のど真ん中で船が止まる。
 船乗員は、漕ぐのをやめて、船の中に置いてあった、大きな網みたいな物を海の中に投げる。
 見たところ男性しかおらず、褌(ふんどし)一丁と、とてもたくましい格好をしていた。
 なぜか、船乗員全員の頭の上には、ふさふさしたなんらかの動物みたいな2つの耳と、多種多様な尻尾がついていた。
 全ての網を海に投げ入れた、船乗員たちは、そこから黙って船の上に座っていた。
 この船は漁船である。
 30分くらい経った頃に、船乗員たちは海に投げ入れた網を、思いっきり引っ張り上げる。
 すると、その網には多種多様な魚が引っかかっていた。
 全ての網を引き上げて、船乗員たちは、目当ての魚と不要な魚を仕分けする。
 思ったよりも大量で、船に乗っていた獣男たちはとても、嬉しそうな表情をしていた。
 不要な魚を、海に投げ捨てる作業が終わる。
 海はまだ暗かった。いつもなら、朝日が昇るか、昇らないかくらい時間がかかるのに、今日だけは、とても早く仕事が終わった。
 船乗員たちは、沖へ戻るために、船を180度旋回させる。
 そして、力強く船を漕ぐ。仕事が終わった解放感に、身を任せながらひたすら漕ぐ。
 ——————しかし、突然海は、荒れ始めて、船を大きく揺らした。
 いや、荒れたというより、何かが海上から出てきて、その時に起こる波が、襲ってきたと言った方が分かりは良いだろう。
 船乗員たちは、漕ぐのをやめて、ふと左方向を見る。
 そこには、恐ろしい光景があった。
 海の中から、蛇のように長いからだが天をめがけて出てくる。
 さらに、長さだけでなく、太さもかなりある。
 そして、蛇のように長いからだは、船をまたぐように、海の中へ再び入っていく。
 船乗員の頭上には、長くて、太い体が大きな影を作りながら通る。
 とりあえず、おとなしくしていれば、危害がないと判断した男たちは、恐ろしい体が通り過ぎるのを待つ。
 だが、長くて、太い体が途絶えることはなかった——————
 とんでもなく、長い体なのか、ただ、同じルートをぐるぐる回って悪戯をしているのか、どちらもありえることである。
 すると、船の上に、何かが落ちてくる。
 長いからだが通った時に、体にこびりついた海の水が落ちたのだろうと、船乗員たちはすぐに考えがついた。
 しかし、落ちていく水の量はどんどん、増していく。
 さすがに、これ以上船の上に、水を溜めこんでしまうと、転覆する恐れがあると判断した船乗員たちは、水を海に捨てるために、タライみたいな物を持ってくる。
 そして、水をすくいあげようとした瞬間、違和感があった。
 ——————水は、ヌルヌルしていたのだ。
 すくいあげた瞬間、水とは思えない重さ。
 とても力強く持ち上げたのに、あまりの拍子のなさに、船乗員は、その場に仰向けへ豪快に倒れる。
 他の船乗員たちは、倒れた獣男を心配して近寄る。
 すると、倒れた船乗員が持っていたタライの中から、こぼれたヌルヌルした水が足に浸かる。

「なんだこれ!?」

 1人が叫ぶと、他の船乗員も叫ぶ。
 そして、その漁船の船長らしき人が、とても恐ろしい表情をしていた。

「なんで……油が……降ってくるんだよ!?」

 船長の手のひらには、ヌルヌルした油が乗っていた。
 その瞬間、船は右向きに傾く。
 なんと、蛇のような生き物が落とした油は、船を傾かせる程、溜まっていた。
 ——————だが、気付いた時にはもう遅かった。
 船は、船乗員もろとも、そのまま真っ逆さまにひっくり返って転覆する。
 それでも、蛇のような体からは、ずっと、油を落としていた——————

         〜船上の油狐〜

 外は、静かに雨を落としていた。
 小粒すぎて、雨と言うより霧雨と言った方が良いかもしれない。
 あの、雨が降っているときの独特な臭いが鼻を刺激する。
 そして、それになぜか、潮の香りが付加価値としてついてくる。
 どうやら、ここは海岸沿いの道である。
 無風だったため、海は静かな波を、音を立てずに、押したり、引いたりを繰り返していた。
 道には馬車が通ったのか、浅い轍(わだち)が残っていた。
 そこに溜まる雨水。そんなところを、歩く者は子供だけである。
 だから、自然と道の真ん中か、端を歩くハメになった。

「ふわぁ〜……」

 霧雨が降るこの場所で、なぜか聞こえるはずのない、雑音があった。
 この静かな雰囲気を、台無しにしたのは、赤い和傘をさしながら、道を歩いていた人物だった。
 黒くて、首くらいまでの長さがある髪の毛は、少々水気があった。
 前髪は、目にけっこうかかっている。
 頭には、ふさふさした2つの耳があり、瞳は黒紫色をしていた。
 男性用の和服を着て、輝くような黄色い2本の尻尾を、神々しく揺らす。しかし、和傘に入りきらないのか、一部は霧雨によって濡れていた。
 そして、首にはお札か、お守りか分からない物が、紐で繋がれている。
 極めつけに、眠そうな表情と、頼りなさそうな雰囲気を漂わせていた。

「釣りをするにはぁ……だめな天候だなぁ……」

 眉間にしわを寄せて、耳をピクピクさせながら、海を見て呟く。
 その表情は、とても残念そうな雰囲気を漂わせている。
 すると、獣男はなぜか、道からそれて、海岸へ向かう。
 霧雨によって濡れた砂浜は、とても固まっていて、草履でも問題なく歩けた。
 和傘をくるっと、1回転させ、水気を飛ばす。
 そして、その場に膝まつき、固い砂を指で削り、手のひらくらいの塊の砂を握る。
 手には、砂がたくさんついていた。獣男は、その手を鼻に近づかせる。
 霧雨の臭いと、潮の臭いが混ざったような不思議な臭い。
 獣男は、口元を少し上げて呼吸をする。
 砂で汚れた手を和傘の外へ出す。霧雨が、手のひらに当たり、砂を洗い流す。

「ん〜……」

 瞳を閉じながら、まるで、癒されたような口調で一言呟く。
 ——————ふと、誰かが居るような気配を感じる。
 獣男は、目を見開き、辺りを見回す。
 すると、砂浜にしゃがみこんでいる人が居たのだ。
 女性用の和服を着て、頭にはふさふさした2つの耳があり、髪の毛は灰色で、ショートカットのさっぱりとした髪。
 落ち込んでいるのか、尻尾は少し、垂れていた。
 女性と呼ぶには、いささか若く。少女と言った方が良かった。
 霧雨が降っているというのに、和傘をさしていなかった。
 獣男は、心配と好奇心の両方の気持ちを持ちながら、少女の方へ足を進める。
 一応、怪しまれないように、気配を消して距離を縮ませる。
 そして、少女の背後に来た獣男は、黙って自分の和傘を前に出す。
 少女が居る場所は、突然、霧雨がなくなる。その変化に気付いた少女は、ゆっくりと首だけで後ろを見る。
 涙目の瞳の中に、鋭い眼光が混ざった不思議な感じ。
 その目つきは、何かを訴えたいという思いがひしひしと伝わってきた。

「君ぃ……どうしたぁ……?」

 眠そうな表情で、少女に尋ねる獣男。
 霧雨で濡れた、男の髪の毛は非常に美しく、神々しかった。
 少女は、その姿に魅了されて、思わず目をトロンとさせる。
 獣男が大きなあくびをすると、その瞬間、少女は、はっとしたような表情をさせて、首を元の状態に戻す。
 一瞬でも、自分の心に隙が生まれたことが恥ずかしかったのか、少女の耳は、どんどん赤くなっていった。
 だが、獣男はずっと海を見ていたので、見られるということはなかった。
 それから、10分くらい経った頃に、また少女が首だけで後ろを見る。
 獣男は、非常に濡れていた。
 10分も、黙って自分に和傘を差し出していた行動に、ふと笑う。

「ん〜……?」

 少女の突然の頬笑みに、獣男は頭の中に疑問符を思い浮かべる。
 すると、少女はその場から立ちあがり、和傘を男の手から取る。

「ありがとう。おかげで、ちょっと楽になったよ。」

 どこか、犬っぽく、可愛い頬笑みでお礼を言う少女。
 獣男は、その言葉の意味がわからなかったが、とりあえず、深々と頭をさげた。

「この近くに、私の家があるんだ。良かったら、上がっていく?」

 この言葉を言い終わった瞬間、獣男のお腹から、とても大きな音が鳴る。

「お腹すいたなぁ……」

 右手をお腹に置いて、摩りながら、言葉を言う。
 少女は、また笑う。


            ○


 少女に案内された場所は、とても生臭い町だった。
 その理由として、大量の魚が、褌一丁の男たちに捌かれていたからだ。
 どうやら、ここは漁などで、生活をしている人々が多いのだろうと、獣男は一瞬で考えがついた。
 辺りを見回すと、海へ行って魚を何回も取ってきたと、思わせる漁船が、何隻もあった。
 捌かれた魚は、市場で売り出されているのだろうか、たくさんの店構えと売り子さんが居る。
 刺身、干物などが、大量に陳列されている光景は、とても活気があるように見える。
 地面の轍が、市場に向かっているのを見ると、どこか遠くから来た人が、わざわざここで、大量に買い込んでいく人が居るのだろうと、判断できる。

「ほぉ……」

 獣男は、濡れた和服で拱手をしながら、一言呟く。
 少女は、獣男の濡れた袖を右手でひっぱり、左手でどこかを指す。
 そこには、木でできた家があった。
 おそらく、少女が住んでいる家なのだろう。
 2人は、その家へ向かう。
 ——————獣男は、ふと後ろを振り向く。
 そこには、見るも無残に破壊された船が、眼中に入った——————


            ○


 家の中に入ると、玄関に女性が立っていた。
 目元は、少女と瓜二つで、髪の毛も非常にさっぱりしている。

「おかえりなさい。所で、この人は誰?」

 女性は、少女に笑顔でそう言った瞬間、獣男を見て警戒しながらそう呟く。
 獣男は、そんな女性の眼光を、見ないように目をそらす。
 これにより、女性はもっと警戒するように、睨む。
 すると、和傘を持っていた少女は、笑顔で女性にそれを渡す。

「はい?」

 当然、女性は頭に疑問符を浮かべて、少女に尋ねる。

「この人はね。私に、和傘を貸してくれた優しいお狐さんだよ」

 にっこりと、少女は言う。
 その瞬間、獣男のお腹が大きく鳴る。
 右手でお腹をさすりながら、左手でこめかみを触って、思わずこう呟く。

「お腹すいたなぁ……」

 この言葉に、女性は一気に警戒心を解き、笑う。
 そして、少女と獣男は家に入れた。


            ○


 女性、少女、獣男は家の中にあった丸机に足を入れて食事をしていた。
 ふっくらしたご飯はやや固めで、醤油をベースにしたヒラメの温かい煮付けは、非常に美味しそうな雰囲気を漂わせていた。味噌汁には、シジミが大量に入っており、1つ1つの身は大きい。しかし、この町の特色として仕方ないのか、野菜類は漬物しかなかった。
 しかし、獣男にそんなの関係ない。非常にお腹がすいていたのか、目の前の御馳走をがっついて食べる。
 それを見た、女性と少女の箸は止まっていた。

「おかわり……良いかねぇ?」

 獣男は、女性に右手で茶碗を差し出す。
 しかし、もうないと言った表情をする女性。
 これには、獣男は耳と尻尾を落として、ご飯が無い状態で、ヒラメを食べ進める。

「所で……あなたは狐なんだよね?」

 女性は、ふと獣男に尋ねる。
 すると、口にご飯粒をつけながら、一言呟く。

「我は……詐狐 妖天(さぎつね ようてん)……放浪する狐さぁ……」

 妖天と名乗る獣男。非常に神々しい響きだったが、口についたご飯粒のせいで、それは台無しになっていた。
 少女は、笑いながら妖天を見る。

「お狐さん。ご飯粒ついてるよ?」

 この言葉を聞いた妖天は、右手で口についたご飯粒を取る。
 そして、それを口に放り込み。また、ヒラメを食べ進めていった。
 箸でヒラメの身をつまんだ瞬間、妖天は、はっとした表情で女性を見つめる。

「ど、どうかした?」
「いやぁ……夫さんは……まだぁ、帰ってきてないのかねぇ〜?」

 妖天の何気ない疑問。
 そう、この家には女性と少女が居る。しかし、その家主である夫が居なかった。
 ちなみに、この2人が親子だということは、家に入った瞬間、見破っていた。
 たぶん、仕事が長引いているのだろうな、と予想するが、女性と少女は箸を止めて顔を下に向けた。
 眉をピクリと動かし、妖天はこめかみを触る。

「あぁ……もしかして……?」

 深い溜息をして、妖天は女性にそう言う。
 すると、抑揚のない言葉が家の中に響く。

「私の夫は……1週間前、海の上で死んだ。突然、海の中から現れた長い蛇のような生き物に……船を転覆させられた」

 この悲しい出来事に、妖天は箸を机の上へ置く。
 そして、その場で立ち上がり、黙って玄関に向かう。

「お狐さん?」

 少女がそう言うと、妖天は首だけを振り向かせて、

「我は……用事を思い出した……」

 と、一言呟き、この家から出て行く。


            ○


 未だ、霧雨が降る外。
 妖天は、和傘をささずに、町を徘徊していた。
 眠そうな表情と、頼りなさそうな雰囲気を出しながら。
 市場で商品を売っている売り子さんを横目で見て、ある所へ向かう。
 そして、妖天の眼中には、ある物が映った。
 ——————見るも無残に破壊された船。
 よく観察すると、12人くらい乗れそうな、中型の船という事が分かった。
 妖天は、眉を動かしながらそれをじっと、見つめる。
 だが、見つめるだけでは、何の手がかりも発見できない。
 そう思った妖天は、壊れた船の木材に手を触れる。
 違和感があった——————
 なぜか、木材はヌルヌルしていた。
 眉間にしわを寄せて、木材から手を離す。そして、ヌルヌルした手を霧雨で洗い流そうとする。
 しかし、ヌルヌルはそう簡単に落ちなかった。

「むぅ……」

 思わず、声を出してしまう妖天。
 そして、何を思ったのか、ヌルヌルした手を顔に近づかせて、臭いを嗅ぐ。
 気分が悪くなりそうな臭い、だが、決して危ない物ではないと判断はできた。
 そう思わせたのは簡単で、どこかで嗅いだことのあるものだったからだ。
 すると、妖天は何を思ったのか、手のひらを舐める。

「むっ?」

 頭の中に疑問符を浮かべる。
 どうやら、どこかで味わったことがあると判断する。
 しかし、あまり口の中で味わいたくない味で、少し、気持ち悪くもなった。
 妖天は何か閃いたような表情をする。
 後ろに180度振り向き、拱手をしながら、黙ってその場を後にした。


            ○


 霧雨も上がり、時間はもう、真夜中であった。
 妖天は、町の一角で、褌一丁の姿が印象的な男たちの姿を見つける。
 気になった妖天は、拱手をしながら男たちの所まで近づく。
 神々しい狐の姿を見たのは、褌一丁の1人の男だった。
 それにつられ、男たち全員は、狐が居る方向へ体を向ける。
 妖天は、眠そうな表情と、頼りなさそうな雰囲気を出して、急いでそちらへ向かった。
 褌姿の男たちの輪に、1人だけ和服を着ていた妖天は、とても浮いていた。

「ん〜……我も、褌になった方が良いかなぁ……」

 と、真剣そうに男たちへ呟く。
 しかし、男たちは尻尾を大きく振りながら、それはやめてくれ。と訴える。
 どうやら、狐はとても縁起が良い種族で、狐が現れた場所では、奇奇怪怪(ききかいかい)な現象がなくなると言い伝えられていたのだ。
 褌姿の男たちは、その言い伝えを信じていたため、妖天にそんな恥ずかしい格好は、しないでほしいという思いで、断ったのだ。

「まぁ……良いかぁ……所でぇ……君たちは、一体……?」

 妖天は、眠そうな表情をしながら男たちへ質問をする。
 すると、男たちを束ねるリーダー的な人が出てくる。

「これから俺たちは、漁に出ようと思っている……だが、1週間前の出来事のせいで、迷っているんだ」

 1週間前という言葉に、妖天の耳と眉は動く。
 確か、女性も同じ言葉を言っていたなと、こめかみを触りながら心の中で呟く。
 すると、妖天はあるところを見ながら言う。

「その出来事はぁ……あの、壊れた船と関係あるかなぁ?」

 妖天の瞳には、見るも無残に破壊された船が映っていた。
 男たちも、同じところを見つめる。すると、大抵の人たちが口を閉じて黙っていた。
 この様子を見て、浅い溜息をする。

「面倒なことに……なってきたなぁ……」

 どうやら、妖天の予感が的中したようで、思わずこんな言葉を呟く。
 リーダーは、目を見開いてこんなことを言う。

「お前さんは……何か知っているのか!?」

 獣のような眼光と威圧感。だが、そんなものに屈することなく、妖天は大きなあくびをする。

「知っているか、知らないかと言えば……知っているなぁ……」

 この衝撃的な言葉に、男たちは大声を出す。
 すると、この場に居た男たちは一斉に頭を下げ始めた。
 妖天は、当然驚く。どうして、こんなことになったのだろうかと、頭に疑問符を浮かべながら。

「頼む!俺たちは、ここ1週間漁に出てないんだ!貯蓄していた魚の在庫がそろそろ危なくなってきた……もし、なくなれば俺たちの生活が苦しくなる……だから……海に出てくるバケモノをなんとかしてくれ……」

 リーダーの切実な願い。
 勇ましい褌姿の男たちは、妖天に深々と頭を下げ続ける。
 だが妖天は、こめかみを触りながら、非常に困った表情をしていた。

「ん〜……我は、面倒ごとに巻き込まれるのは非常に嫌いだぁ……」

 ゆったりとした口調で、男たちにそういう妖天。
 この言葉を呟いた途端、空気はかなり重くなる。
 最後の命綱と思っていた狐から見放され、絶望に陥る男たちの姿。
 すると、妖天は眉を動かして深い溜息をする。

「はぁ……まぁ、この町にはお世話になったしなぁ……よかろう。我が海の様子を見よう……早く、船を出してくれぇ」

 頼りなさそうな口調で、呟く妖天。
 それでも、男たちは尻尾を振りながら喜んでいた。
 そして、漁船に案内される。
 この時、妖天はずっと何かを考えていた——————


            ○


 暗い海の中を、静かに進んでいく漁船。
 霧雨が降った後だったので、海の水は非常に冷たかった。
 褌姿の男たちは、懸命に船を漕ぐ。その姿は非常にたくましい。
 そんな漁船の先頭に、拱手をしながら立っていた妖天が居た。
 黒い髪の毛と、神々しい2本の尻尾を風で揺らす。 その姿は、非常に美しく、思わず頭を下げないとだめな雰囲気を漂わせていた。
 狐の耳がピクリと動く、そしてその場で体ごと振り向き、男たちに呟く。

「船を止めてくれないかねぇ?」

 あの、のんびりした口調ではなく、どこか威圧感がこもった口調で妖天は言う。
 もちろん、男たちの手はピタリと止まる。
 いや、あまりの威圧感に、止められたと言った方が分かりは良いだろう。
 ——————すると、突然海は、荒れ始めて、船を大きく揺らした。
 いや、荒れたというより、何かが海上から出てきて、その時に起こる波が、襲ってきたと言った方が分かりは良いだろう。
 そこには、恐ろしい光景があった。
 海の中から、蛇のように長いからだが天をめがけて出てくる。
 さらに、長さだけでなく、太さもかなりある。
 そして、蛇のように長いからだは、船をまたぐように、海の中へ再び入っていく。
 船乗員の頭上には、長くて、太い体が大きな影を作りながら通る。
 妖天は、その光景を見ながらこめかみを触る。
 すると、顔に水がポタリと落ちてきた。
 咄嗟(とっさ)に、右手でその水を拭こうとすると、不思議な感触があった。
 ——————水は、ヌルヌルしていたのだ。
 だが、妖天は慌てる様子はなく、むしろ、予想通りと言った表情をする。
 船乗員は、黙ってそれを見つめていた。
 気がつくと、船の上には大量の油が溜まっていた。
 早くしないと、重さで転覆してしまいそうだった。
 妖天は、眠そうな表情から一気に凛々しい表情になる。
 そして、威圧感たっぷりに言葉を呟く。

「やめんか……アヤカシ……」

 低く、威圧感を持った声は海の上で響き渡る。
 すると、蛇のように大きいからだは、ピタリと動きを止める。
 ヌルヌルした水も、落ちてくることはなく、船乗員は目を見開いてその光景を見ていた。

「全く……一体、何を興奮しているだぁ?我たちは、ただの漁師……君に、危害を与える者ではない」

 拱手をしながら、諭すように言葉をスラスラ言う。
 あの、頼りなさそうな狐とは思えない雰囲気。男たちは、なぜか恐怖を感じていた。

「油を落として……船を沈めさせることもないだろう?我たちは、ただ生活するためにこの海へ来ているだけだ……」

 狐目の妖天。
 アヤカシと呼ばれた蛇のように長い体をした生き物は、ゆっくり、海の中へ入っていく。

「アヤカシ……いや、イクチよ……もう、こんなことはしないでねぇ……」

 気がつくと、妖天は眠そうな表情をしていた。
 そして、最後に船乗員にこう呟く。

「イクチはぁ……ただ、自分の縄張りを守りたかっただけなのさぁ……だけど、ちゃんと……我たちは危害を加えないと説得したから、もう、大丈夫さぁ……」

 暗い海で起こった一瞬の出来事、男たちは、誰も喋ることなく、黙って船を漕ぐ。
 妖天は、疲れたのか船の先頭でずっと立っていた。
 ——————右手についた、イクチの油を舐めながら。


            ○


 3日後。
 朝霧によって視界が遮られてしまう時間帯。
 町で歩く者は1人も居なかった。
 だが、釣りをする者は1人居た。
 静かに、押し引きする海を目の前に、黙って竿を持つ。
 その正体は、神々しい2本の尻尾が特徴的な、妖天である。
 口には、この町の市場で買ってきたのだろうか、鮭とばが咥えられていた。
 ——————竿が突然、大きく反れる。
 どうやら、何かが引っかかったらしい。妖天は目を見開き、ぐっと、足と手に力を入れる。
 海から出てきたのは、星のような形をした生き物である。
 ——————ヒトデだ。
 少々グロテスクな色合いに、妖天は非常に嫌そうな表情をする。
 そして、勿体ないと思いながら、釣り糸ごと切って、ヒトデを海に逃がす。
 これにより、釣りを楽しむことができなくなった妖天は、深い溜息をしてその場から離れる。
 ——————すると、目の前には犬のような少女が居た。
 その姿を見た妖天は、眉を動かして少女の方へ近づく。
 同時に、少女も妖天の方へ近づく。

「お狐さん?お狐さんのおかげで、海は元通りになったの?」

 少女は無邪気な表情で答える。
 妖天は、眉を動かして、こめかみを触りながら。

「ん〜……我は、そんなに良いことをしたかぁ……?」

 大きなあくびをして、眠そうな表情で呟く。
 すると、少女は頬笑みながら

「うん。だって、この町の人たちがお狐さんのおかげで、漁が再開できたって喜んでいたよ?」

 この言葉に、妖天は顔を空へ向ける。
 そして、小さく、

「我は……ヒラメのために……海をなんとかしただけさぁ……」

 と言う。
 少女は、また無邪気な表情をする。

「ヒラメ美味しいもんね」

 鼻で笑う妖天。
 首を正面に向けて、右手で少女の頭をなぜか撫でる。
 ふさふさした2つの耳と、艶やかな髪の毛が手に触れる。

「我は……詐狐 妖天……名前だけでも、覚えてくれたら嬉しいねぇ……」

 頭から手を離し、左手に持っていた竿を、少女の右手に握らせる。
 そして、妖天は拱手をしながら、その場を後にした。
 この場に残った少女は、少々顔を赤面させていた。
 右手に持っていた竿を大切そうに持ち、ふと呟く。

 ——————「ありがとう。妖天」