複雑・ファジー小説

Re: 獣妖記伝録 ( No.84 )
日時: 2011/09/08 06:51
名前: コーダ (ID: WI4WGDJb)

 とある時代。
 とても、綺麗な女性が居た。
 頭にはふさふさした2つの耳と、やや細めの2本の尻尾。
 着物を着用する姿は、正しく大和撫子を連想させる。
 だが、どこか活発そうな雰囲気も、漂わせていた。
 そう、綺麗な女性は猫だった。
 彼女は、村の人々を魅了させる。
 気が付くと、女性の周りにはたくさんの村人たち。
 毎日、毎日、楽しい会話をする。
 彼女が人気な理由。
 それは、誰にでも公平に接して、偏見がないのだ。
 犬、猫、狼、狐、兎、鼠、狸、鳥の老若男女、全てを同等の人と見ている。
 良く言えば、温厚篤実(おんこうとくじつ)。
 悪く言えば、八方美人。
 女性を恨む者は居ない。本当に、幸せな日常である。
 だが、ふと思う事がある。
 彼女は裏で何かを考えていないか、と。
 いくらなんでも、お人好しすぎる。
 一部の人々は、そういう疑問を持っていた。
 ある日、その女性は真夜中に村を歩いていた。
 その表情は、やはり優しそうで邪念を感じなかった。
 さすがは、村1番の人気者である。
 ふと、彼女の目には、不気味な鏡が“居る”ことを確認する。
 なぜか、それは宙に浮いていて、どんどん自分の元へ近づいてくる。
 そして、どこか禍々しい雰囲気も漂わせていた。
 もちろん、女性は尻尾と耳をびくっと動かして、この場から逃げようとする——————
 しかし、体は動かなかった。
 何かの術にかかったかのような感覚、石のように固まる体。
 気が付くと、不気味な鏡との距離は1mも満たなかった。
 ——————彼女は、鏡を見る。
 すると、そこに映っていたのは、なぜか恐ろしい猫だった。
 今にも、人を殺しそうな表情。
 それは、人ではなかった。言うなれば、妖(あやかし)の猫又(ねこまた)である。

「い、いやぁ————!」

 女性は、自分の恐ろしい姿を見て思わず叫ぶ。
 当然、それを聞きつけた村人は家から出てくる。

「どうした!?」
「誰かに襲われたか!?」

 なぜか、その時には不気味な鏡は姿を消していた。
 体の自由が聞いた女性は、この場から逃げる——————
 村人から避けるように、村人から見られないように、と。
 気が付くと、彼女は山奥に居た。
 だが、その表情はどこか悲しそうだった。
 もう、あの村には戻れない。
 そんな雰囲気を、漂わせていた。

「わっちは……わっちは……」

 女性は、目から大量の涙を流していた。
 そう、自分は妖の猫又である。
 だけど、人と接したかった。
 元から、綺麗で美人だったので、特に違和感なく人と溶け込むことができた。
 楽しい会話、楽しい食事、何を振り返っても楽しい思い出。
 そして、長年の歳月を経て、自分が妖だという自覚がなくなる。
 しかし、先程の出来事で改めて、自分が猫又だと自覚する。
 やっぱり、自分は人とすごせない——————
 この日以降、女性は村に現れることは2度となかった。


        〜鏡の兎と雌雄狐〜


 快晴の空。外はとても心地の良い、昼間だった。
 若干の風もあり、田畑の農作物が優雅に揺れていた。
 木で出来た家が並ぶ村。
 村人は、のんびりと暮していた。
 日向ぼっこする人。人と会話する人。食品を買う人。涼菓子を食べる人。
 見ているこっちも、心がのんびりしてしまう雰囲気。
 どこかの家に吊るされている、風鈴の音が、また心を涼しくさせる。
 そんな村に、1人の美人で綺麗な女性が歩いていた。
 髪の毛は艶やかで黒く、肩につくくらい長い。前髪も目にかかるくらい長かった。
 頭には、兎のように長い2つの耳があり、瞳は快晴の空をイメージさせるくらい蒼かった。
 菊の柄の浴衣を綺麗に着こなし、その姿は正に大和撫子と言っても過言ではなかった。
 とても優しい雰囲気とおしとやかな、お姉さんを想像させる。
 こんな人が歩いていたら、誰か彼か声をかけるはず。
 案の定、どこからともかく、声をかけられる。
 女性は、満面の笑みで声が聞こえた方向へ、体ごと振り向かせる。
 そこには、犬、猫、鳥の老婆がにこやかに、お店の中で和菓子を売っていた。
 大昔に作られた雰囲気を漂わせる老舗(しにせ)。
 葛餅(くずもち)、葛切り、わらび餅、水ようかんなどの和菓子が、丁寧に陳列されていた。

「乘亞(のあ)ちゃん。ちょっとこっちで休んで行かない?」

 猫の老婆は、女性の事を乘亞と呼ぶ。
 もちろん、彼女は笑顔で、

「では、お言葉に甘えて……」

 店の中に入っていく。

「乘亞ちゃん、こっち、こっち」

 犬の老婆は、木で出来た四角形の机に、4つ椅子が置かれた場所へ、女性を手招きする。
 乘亞は、ゆっくりそこへ向かい、椅子に座る。
 1つの1つの行動が、本当に清楚で美しく、見る者を魅了させた。

「はい、乘亞ちゃんの大好きなわらび餅だよ」

 鳥の老婆は、慣れた手つきでわらび餅を女性の机の上に置く。
 きな粉と黒蜜がかかっており、非常に美味しそうだった。

「ありがとうございます」

 乘亞がお礼を言うと、鳥の老婆はにこやかに相槌(あいづち)をうち、この場を後にする。
 わらび餅の傍に置かれた、黒文字楊枝(くろもじようじ)を使い、丁寧に一口サイズに切る。
 そして、それをゆっくり自分の口へ運ぶ。
 口の中に広がる、黒蜜ときな粉の甘さ。わらび餅は非常にのど越しが爽やかで、気分がさっぱりする。
 そして、どこか歴史を感じる味も口の中で感じ取れた。

「やはり、ここの和菓子は美味しいですね」

 この言葉に、老婆たちは嬉しそうに尻尾と翼を動かしていた。

「お——!今日も元気そうだな!」

 突然、店の中に入ってきた狼男たち。
 思わず耳を塞いでしまうくらいの大声に、女性は手を口に当てて笑った。

「相変わらず、そちらもお元気ですね」

 狼男たちは、乘亞の近くにある椅子へ豪快に座る。

「収穫間近だからな!ちょっと、気合いが入ってんだよ!お〜い、葛切りくれ!」

 どうやら、狼男たちは田畑の方からわざわざ、ここまで一休みしにきた。
 それほど、ここの和菓子は美味しいのだろう。

「まぁ、収穫されたら早速、お米を買わないといけないですね」

 乘亞がそう言うと、狼男たちは豪快に笑う。
 この女性は、村人から好かれている。
 外を出歩けば、このようにたくさんの人々が声をかけてくれる。
 彼女が人気の理由は。
 それは、誰にでも公平に接して、偏見がないのだ。
 犬、猫、狼、狐、兎、鼠、狸、鳥の老若男女、全てを同等の人と見ている。
 良く言えば、温厚篤実。
 悪く言えば、八方美人。
 女性を恨む者は居ない。本当に、幸せな日常である。
 だが、ふと思う事がある。
 彼女は裏で何かを考えていないか、と。
 いくらなんでも、お人好しすぎる。
 一部の人々は、そういう疑問を持っていた。
 しばらく、この店で楽しい会話が、繰り広げられていた。


            ○


 一方、村から少し離れて、田畑が左右に映る街道。
 そこには、2人の狐の男女が歩いていた。
 黒くて、首くらいまでの長さがある髪の毛は、とても艶やかであり、前髪は、目にけっこうかかっている。
 頭には、ふさふさした2つの耳があり、瞳は黒紫色をしていた。
 男性用の和服を、微妙に崩して着用していた。
 輝くような黄色い2本の尻尾を、神々しく揺らす。
 そして、首にはお札か、お守りか分からない物が、紐で繋がれている。
 極めつけに、眠そうな表情と、頼りなさそうな雰囲気を漂わせていた狐男。
 金髪で、腰まで長い艶やかな髪。頭には、ふさふさした2つの耳がある。
 瞳は金色で、見つめられたら、思わず魅了されてしまうような眼光の中に、なぜか力強い威圧感もあった。
 肌は、けっこう白く、すべすべしていそうな雰囲気を漂わせていた。
 女性用の和服を上に着用して、下半身には、よく巫女がつけていそうな袴を着ていた。
 狐男と同じく、和服の上を微妙に崩して着用していたので、胸のサラシが若干見えていた。
 そして、輝くような黄色い1本の尻尾を、神々しく揺らす。
 もっと言ってしまえば、立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花という言葉が非常に似合っていた狐女。

「ふわぁ〜……この村はぁ、平和だなぁ〜……」

 狐男は、大きなあくびをしながら、風で優雅に揺れる農作物を見て、のんびり言葉を呟く。
 その表情は、どこか幸せそうだった。

「最近、疲れることが多いからねぇ……たまには、英気を養うのも良いかなぁ……」

 目の端に、涙を溜めながら、2本の尻尾を揺らす。
 すると、後ろに居た狐女も同意するように、

「あぁ、たまには貴様の言う事に賛成する。あたしも、ちょっと疲れたよ」

 実は、この村へ来る途中に大量の低級妖に出会って、力を使い果たしていた2人である。
 いくら弱くても、数で攻められたらどんなに強い者でも、苦戦はする。

「むぅ……珍しいなぁ……いつもなら、罵声を飛ばしてくるのにねぇ……琶狐(わこ)」

 こめかみを触りながら、狐男は言葉を飛ばす。
 琶狐と呼ばれた女性は、耳をピクリと動かして、

「あたしが、罵声を飛ばしているうちはまだ良いってことだ!このウスノロ妖天(ようてん)」

 と、言う。
 妖天と呼ばれた男は、小さく唸る。
 いつも通りの、やりとり。
 だが、今だけはこの場と同じで、ゆったりとしていた。
 ふと、妖天の足が止まる。

「ん?どうしたウスノロ?」

 琶狐も、つられて足を止めて尋ねる。
 妖天は、なぜか凛々しい表情で田畑を見つめていた。
 突然の豹変ぶりに、琶狐の胸は、いつもより激しく動いていた。

「我はぁ……1人ぼっちではないのかぁ……」
 ——————「我は、もう1人ではないのか……?」

 よく分からない一言。
 何か、深い意味がありそうだな。とも感じ取れる。
 狐女は、腕組をして口元を上げる。

「貴様には、あたしが居るだろ!?もう、1人ぼっちじゃねぇって!」
 ——————「そうじゃ、わらわが居る限り、汝は1人ではないぞ」

 狐男は、この言葉に耳をピクリと動かす。
 そして、体ごと狐女の方向へ向く。

「な、なんだい!?」
 ——————「な、なんじゃ?」

 思わず、尻尾をびくっとさせる狐女。
 狐男は、凛々しい表情で真っすぐと、自分を見つめていたからだ。
 いつもとは違う雰囲気——————
 不意に、狐女の右手が握られる。

「よ、妖天!?」
 ——————「よ、妖天……」

 当然、慌てる狐女。
 すると、狐男はそのまま右手を引っ張って歩きだす。

「さぁ、行くぞぉ〜」
 ——————「では、行こうか」

 何がなんだかよく分からない。
 琶狐は、とりあえず妖天の勢いに任せるだけだった。


            ○


 いざ、村の集落へ出向いてみると、そこは本当に穏やかであった。
 そんな雰囲気を体で感じる、妖天と琶狐。
 とても心地が良いのか2人の表情はどこか柔和であった。
 どこからともかく、風鈴の音が聞こえてくる。
 耳をピクリと動かして、妖天は、

「風流だねぇ……我の心が洗い流されるようだぁ……」

 拱手をしながら言葉を呟く。
 琶狐も、同意するように頷く。
 ふと2人の横目に、和菓子を売っている店が目に入る。
 店の作り、雰囲気から老舗を連想させる。
 妖天は、右手で自分のお腹を擦ると、その店に直行する。
 もちろん、琶狐も嬉しそうに後をついて行く。
 店の中は大変にぎわっていた。
 狼の男たち、鼠の夫婦、狸の商人などが、声を出しながら会話をしていた。
 その中で、ひときわ目立つ兎の女性——————
 妖天は、その女性を横目で見ながら、琶狐と対面するように、開いている席へ座る。

「おや、これはまたずいぶんお若い狐の夫婦ですね」

 おそらく、店の従業員だろうと思われる、猫老婆。
 突然の言葉に、琶狐は耳をピクリと動かして、

「いや!あたしとこいつはただの放浪する仲だ!決して夫婦などではない!こんな頼りなそうで、よく分からない奴を夫にしようなんて、誰も思わねぇ!まぁ……黙っていれば、それなりにいけると思うが、口を出した瞬間だめだからな!このウスノロは!」

 なんとも酷い言葉。
 妖天は、こめかみを触りながら、大きく唸る。
 猫老婆は、微笑しながら慣れた手つきお茶を2人の元へ置く。

「ご注文は?」

 この言葉に、琶狐は尻尾を大きく揺らす。

「あたしは、金鍔(きんつば)!」

 このチョイスに、妖天は少し苦笑する。

「琶狐ぉ……ずいぶん、渋い所を注文するねぇ……我はぁ、外郎(ういろう)でも食べようかなぁ……」

 外郎というチョイスも、金鍔に負けないくらい渋いと思うが、今は特に突っ込まないでおく。
 和菓子が来るまで、しばらく待つ2人。
 すると、妖天はある所を凝視していた。
 ——————店の中でひときわ目立つ兎の女性だ。
 かなり美しく、菊の柄の浴衣がそれをもっと引き立たせていた。
 優しそうで、おしとやかな雰囲気。大和撫子という言葉が非常に似合っていると言っても過言ではない。
 さらに、この店に居る人たちから、声をかけられている。

「(ふむ……)」

 耳をピクピク動かしながら、妖天はどこか不思議そうにその光景を見つめる。
 村の中に1人くらい居てもおかしくない、美人で人から好かれる女性。
 彼女も、そういう人に該当している。
 色々な人に、分け隔(へだ)てなく接する心。
 良く言えば、温厚篤実。
 悪く言えば、八方美人。

「(気になるねぇ……)」

 眉間にしわを寄せながら、妖天はこめかみを触る——————

「なんだ?貴様はああいう奴が、好みなのか?」

 不意に、琶狐が言葉を飛ばす。
 腕組をして、どこか不機嫌そうだった。

「ん〜?いやぁ……ちょっと気になってなぁ……」

 この狐男の気になるという言葉には、様々な意味がこもっているので、一体どれが本当か分からなかった。
 ただ単に、異性として気になるのか。何か思い当たる節があるのか——————
 だが、そんなの関係なしに琶狐は、

「あんな体の弱そうな奴、どこが良いんだ!?見たところ、あたしより胸がなさそうだぞ!?」

 なぜか強く言葉を飛ばす。
 妖天は、眉間にしわを寄せて苦笑する。

「君ぃ……何をそんな、むきになっている?」
「むきになってない!ほら、とっととその外郎を食え!」

 いつの間にか、妖天の傍には外郎が置かれていた。
 それほど、あの兎の女性に夢中になっていたのだろう。
 とりあえず、一口サイズに切られた外郎を口へ運ぶ妖天。

「う〜ん……この喉越し……最高だぁ……」

 とても幸せそうな表情をしながら、外郎を食べての感想を言う。
 琶狐は、やはりどこか不機嫌そうにしていた。
 傍に置かれた黒文字楊枝を使わず、金鍔を豪華に手で摘まんで食べる。

「(なんだよこいつ……あんな女を見るくらいなら、もうちょっとあたしを見てくれたって良いじゃないか……)」

 尻尾を大きく振って、自分の気持ちをあらわにする琶狐。
 だが、妖天はこういう時だけ、彼女の繊細な心に気が付かなかった。

「また来てね、乘亞ちゃん」
「はい、それでは失礼します」

 兎の女性は、慇懃(いんぎん)に頭を下げて、店を後にする。
 妖天は、突然外郎を慌てて食べ始める。
 そして、椅子から立ち上がり、

「会計はぁ……任せたぞぉ〜」

 琶狐に言って、兎の女性と同じくこの店を後にする。
 1人残された狐女は、独特な犬歯を出しながら、悔しそうな表情をしていた。


            ○


「お〜いぃ……君ぃ〜」
「はい?なんですか?」

 兎の女性は、微笑みながら振り向く。
 息を切らしていた妖天は、生唾を1回だけごくりと飲み落ち着かせる。
 そして、どこか凛々しい表情で、

「君ぃ……乘亞?と言ったかぁ?」

 こめかみを触りながら尋ねる。
 すると、女性は手を口に当てて微笑む。

「はい。私は乘亞と言います。君は、あのお店に居た狐さんですね」
「むぅ……我らの存在に気づいていたのかぁ……それならぁ、話が早い」

 妖天は、拱手をしながら1本取られたような言葉を飛ばす。
 相変わらず、女性の方は微笑んでいた。

「君ぃ……ずいぶんと、人気者だねぇ……」

 単刀直入に、言葉を言う妖天。
 乘亞は、頭の中に疑問符を浮かべていた。

「私が人気者?そうなんでしょうか?私は、ただ皆さんと楽しく会話しているだけですよ。さまざまな人……私は大好きです」

 表情と言葉からして、女性が嘘を言っているようには見えなかった。
 この世に居る人々が大好き。乘亞は笑顔でそう言う。
 だが、おかしい。人というのは必ず、嫌いな人くらい少なからず居るはず。
 妖天は、凛々しい表情で少し厳しい言葉を飛ばす。

「ふむ……だが、我は少し……その言葉が真(まこと)かどうか、少し調べてみたいねぇ……」

 長い耳を、ピクリと動かす乘亞。
 その表情は、どこか狂気に満ちているようにも見えた——————

「私は、ここに居る人たちが大好きです。もっと言ってしまえば、この世界が大好きです」

 どんどん言葉の規模が大きくなる女性。
 妖天は、右手で頭をかきながら、どこか眠そうな表情をする。

「ふわぁ〜……立派な言葉だねぇ……所で、建前はそこまでにして、本音はどうなんだぁ〜?」

 この言葉に、女性は眉間にしわを寄せる。
 建前なんてない。これが自分の本音だ。
 そう、心の中で叫びながら、乘亞は、

「建前なんてありません。これが、私の本音です」

 と、強く言う。
 だが、妖天はまだ懲りていないのか、次にこんな言葉を投げつける。

「我にはぁ……嫌いな人は居る。この世界が嫌いになることもある。それが、普通なんだぁ……君はぁ、本当に嫌いな人は居ないのかぁ?世界が嫌いになることはないのかぁ?正直に言ってくれればぁ、我はこの場から引き下がるぞぉ〜?」

 乘亞の表情からは、笑顔というものはなくなっていた。
 そして、それはだんだん狂気へ変わる——————

「何度言ったら分かる?私は、この世界が大好きだって」

 先程までの、綺麗で美しい女性が、残虐で恐ろしい女性に豹変する。
 妖天は、口元を上げて、拱手をする。

「本性を現したかぁ……君ぃ、どんな妖だろうねぇ……」

 2本の尻尾を揺らし、妖退治態勢に入る。
 その刹那——————
 妖天の右頬から、なぜか鮮やかな赤い液体が、吹き出した。
 それは、斬られたような感触だった。

「あはは!私が妖?何を言っている!?私は、普通の兎だよ!」

 彼女の右手には、血の付いた簪(かんざし)が握られていた。
 どうやら、これで妖天の右頬を斬りつけたというのが分かる。
 そして、乘亞の言った言葉に、目を見開く狐男。
 自分は、妖じゃない。普通の兎だ。
 おかしい——————
 こんなに狂気を持てる人が、普通の人だとは思えない。
 妖天は、右頬の血を右袖で拭い、思わず一言呟く。

「ふむ……君はぁ、とても気になるねぇ……だが、これだけは言わせてもらうぞぉ……人の事が好きなら、こうやって我に傷をつけないだろう?」

 乘亞は目を見開く。
 確かにそうだ。人の事が好きなら、こうやって傷をつけないはず。
 この言葉に、彼女は辟易(へきえき)する。

「矛盾……しているぞぉ……」

 すると、乘亞は突然この場から逃げ出す。
 もちろん、妖天は彼女を逃がすわけがなかった——————
 不意に、誰かの手が右肩に乗る。
 その力は、狐男の足を止めてしまうほどだった。
 嫌な予感に身を任せて、ゆっくり首だけ後ろへ振り向かせる。

「さて、ちょっと詳しい話を聞かせてもらおうか?このウスノロ!」

 そこには、目くじらを立てて、非常に恐ろしい雰囲気を出していた琶狐が居た。
 妖天は、こめかみを触りながら、小さく唸る。

「琶狐ぉ……今大事な時だぞぉ……」
「何が大事な時だ!?綺麗な女を見たら目の色変えて、あたしを置いて行く貴様には、ちょっとおしおきが必要らしいな!」

 そう言って、琶狐は妖天をどこかへ引きずる。
 女性とは思えない力に、ただただ情けなく、兎女との距離が離されていく狐男だった。


            ○


 真夜中、乘亞は村を歩いていた。
 その表情は、先程の狂気という狂気がなくなっており、優しそうだった。
 ふと、彼女の目には、不気味な鏡が“居る”ことを確認する。
 なぜか、それは宙に浮いていて、どんどん自分の元へ近づいてくる。
 そして、どこか禍々しい雰囲気も漂わせていた。
 もちろん、女性は長い耳をびくっと動かして、この場から逃げようとする——————
 しかし、体は動かなかった。
 何かの術にかかったかのような感覚、石のように固まる体。
 気が付くと、不気味な鏡との距離は1mも満たなかった。
 ——————彼女は、鏡を見る。
 そこには、自分自身が映っていた。
 何の変哲もない、ただの鏡である。
 乘亞は、どこか呆気ない表情をする。
 不気味な鏡は、どこか慌てるように女性の姿を映す。
 だが、やはりそこに映っていたのは乘亞自身だった。
 その行動が、だんだん鬱陶(うっとう)しくなる。
 気が付くと、体の言う事がきいていた——————
 女性は着物の懐から、釘と槌(つち)を取り出す。
 そして、それを鏡のガラスへ、丑の刻参り連想させる動きで、釘を槌で打つ——————
 辺りに、ガラスが割れるような音が響き渡る。
 細かい破片が、返り血のように乘亞の体を襲い、頬を若干傷つける。
 その表情は、やはり狂気に満ちていた。
 不気味な鏡は、地面に情けなく落ちる。

「あはは!脆いね。ただの見かけ倒しだったのかな?」

 恐ろしい高笑いと頬から流れる血が、女性を不気味にさせる。

「ふふふ……あはは!私は、妖でもなんでもない!普通の兎よ!」

 そう言葉を叫び、この場を後にする。
 集落の中に、残されたガラスの破片は、雲1つない、満点の星空が映っていた——————


            ○


 翌朝。
 乘亞は、村1番に起き上がり、箒(ほうき)を持って外を歩いていた。
 朝梅雨によって地面がやや濡れており、あの雨が降ったときの独特な臭いが鼻を刺激する。
 そして彼女は、昨夜自分が不気味な鏡を割った場所へ、足を運ぶ。
 そこには、やはり情けなく割れた鏡が落ちていた。
 不気味な感じは全くしない。ただの鏡のようだった。
 すると、乘亞は丁寧に割れた破片を箒で掃く。
 村人が、怪我をしないようにせっせと、この場から処分する。
 その姿は、とても気遣いができる、優しいお姉さんである——————
 不意に、誰かが居る気配を感じる。
 乘亞は、ゆっくり体ごと後ろへ180度振り向かせる。
 そこには、昨日自分の簪で、右頬を傷つけた狐男。妖天が居た。
 拱手をしながら、ゆっくり接近してくる。その姿は、どこか神々しかった。
 眠そうな表情と頼りなさそうな雰囲気は、今だけ全くない。
 ——————左頬に、誰かから平手打ちされたかのような後が残っていなければ、最高だったが。
 女性は、慇懃に挨拶をする。

「おはようございます。そして、昨日は誠にすみませんでした。私、怒りを抑えることが苦手でして……あのような、態度を取ってしまいました」

 だが、この言葉を無視して、妖天は地面に落ちている鏡を見つめる。
 拱手を解き、こめかみを触りながら大きく唸る。

「あの……どうしましたか?」

 乘亞がそう尋ねると、妖天は凛々しい表情で、

「君ぃ……この鏡で自分を見たのかねぇ……」

 質問する。
 女性は、ゆっくりと頷く。

「そうかぁ……では、その鏡には何が映っていたぁ?」

 妖天の質問攻め。相変わらず、何を聞きたいのか分からなかった。
 だから、乘亞はただただ答えるだけだった。

「鏡ですよね?もちろん、私が映っていましたよ?」

 この言葉に、妖天はとんでもなく驚く。
 まるで、この世の終わりを告げられたような表情。
 尻尾も、挙動不審に動いていた。

「えっと……どうかしましたか?」

 女性がそう言うと、なぜか妖天はそのまま頭を下げた。

「すまんねぇ……昨日、君の事を妖ではないかと言ってしまって……君は、正真正銘の兎だぁ……そして、世界が大好きというのも嘘ではないようだなぁ……」

 何を今更。乘亞は心の中で、そう突っ込む。
 だが、ここで疑問に思う所がある。
 ——————なぜ、先の質問で兎と世界が大好きだと納得したのか。
 女性は、恐る恐る尋ねる。

「あの、1つ良いですか?なぜ、そのように判断したのですか?」

 妖天は、顔を上げる。
 そして、地面に落ちている鏡を見つめながら、

「それはぁ、この雲外鏡(うんがいきょう)という妖が答えを出してくれたからさぁ……」
「雲外……鏡?」

 雲外鏡。
 空中に浮いて、ただただこの世を放浪する妖。
 その鏡に映るのは、その人の本当の姿。
 つまり、裏の顔である。
 多種多様な変化が出来る狸でも、この鏡には勝てない。
 だが、逆に自分自身が映っていたら、それが本当の自分なのだ。
 それを、ただ伝えるだけの妖。人に危害を加えることはない。

「そうかぁ……君の姿、性格は全て裏表がないのかぁ……」

 この言葉に、乘亞は小さく呟く。

「……そう。普段の私と狂気に満ちている私はどちらも“私”で、裏表がない。それが、大嫌い」

 優しい乘亞。狂気に満ちる乘亞。だが、それは裏表がない正真正銘の自分。
 だけど、それが大嫌い。
 すると、妖天は小さく唸る。

「う〜ん……つまり、それは自分の全てを明かしている正直者ではないのかぁ?なぜ、そのような心を嫌いだと言えるのだ……?君はぁ、この世界が大好きなのだろう?なら、自分自身も好きにならないと、矛盾が発生するぞぉ?」

 この言葉に、女性はうっと言葉を漏らす。
 やっぱり、どこか意地悪な狐男である。

「君は、本当に意地悪ですね……そうですよ。私は、この世界が好きなのに自分自身が大嫌い。そう、矛盾している……でも、矛盾は曖昧(あいまい)なこと……その曖昧さって、この世界にぴったりだと思いません?矛盾している世界が大好きだから、私も矛盾している……」

 どこか深い言葉。
 妖天は、耳をピクリと動かして、どこか諭すように言葉を呟く。

「ふむ……君は面白い生き方をしているねぇ……だけど、たまには誰かを嫌いになってみたらどうだぁ?もしかすると、新しい世界が見えるかもしれないぞぉ?」

 乘亞は、長い耳をピクリと動かす。
 突然、誰かを嫌いになれ。
 だけど、いきなり言われて出来るはずがない。
 ——————自分は、この世に居る人々を毎日大好きだと思っているからだ。
 そんな、女性の繊細な心を察したのか、妖天は口元上げて、

「君はぁ……我の事が好きかぁ?」

 と、言う。
 すると、乘亞は妖天との出会いから今の出来事まで、走馬灯(そうまとう)のように、脳内で再生された。
 何を考えているのか分からない。突然、妖ではないかと疑われる。極めつけには、世界が大好きじゃないのではないか。とも言われた。
 1つも、良い思い出はなかった。
 当然、乘亞の答えは——————

「大嫌いです」

 躊躇(ためら)いもなく、自然と口から出た言葉。
 妖天は、なぜか笑顔になって、

「それで良い……これからも、我の事を嫌い続けてくれたら嬉しいねぇ……」

 と、言ってこの場を後にしようとする——————

「もしかして、このためだけに君は……私の事を……?」

 妖天は、足を止める。
 そして、首だけ振り向かせて、

「我は詐狐 妖天(さぎつね ようてん)。どう思うかは君次第さぁ……」

 と、呟きこの場から居なくなる。
 最後まで、訳が分からなかった狐男。
 乘亞は、小さく呟く。
 ——————「ありがとうございます。大嫌いな妖天さん」


            ○


「良かったのか?呆気なくあの女と別れて」

 村から離れた街道で、琶狐はどこか不機嫌そうに、妖天へ言葉を飛ばす。

「むぅ……だから、我は決してそういう意味で、あの女性のことを思ってはいない……」

 こめかみを触りながら、否定する妖天。
 そして、何を思ったのか、こんな一言を呟く。

「我はぁ……髪の長い女性の方が好みだぁ……」

 琶狐は、自分の髪の毛を見る。
 そして、途端に機嫌をよくした。

「なんだ!?全く、貴様はしょうがないなぁ!」

 独特な犬歯を出して、琶狐は妖天の右手を思いっきり引っ張る。
 街道を歩く男女の狐。その雰囲気はとても羨ましかった。

 ——————「(そろそろ、君の事を深く見ないとねぇ……)」