複雑・ファジー小説
- Re: DARK GAME=邪悪なゲーム= 三章十二話完成 ( No.105 )
- 日時: 2012/03/11 11:17
- 名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: Uo0cT3TP)
三章十三話
「よし、じゃあまずは私の番かな?」
第四コーナーを曲がり切った地点より少し後ろ、百メートルのスタート地点に竹永は立っていた。袖の無いユニフォームに、短いスパッツという動きやすい服装。そして、前の組の者が出た証拠たる雷管で撃たれた火薬の臭い。次々と表示される数字の変わる電光掲示板や客席からの歓声も、もうすぐ竹永の試合が近づいているのを物語っていた。
その割には彼女はかなりあっさりとしている。緊張なんて微塵も感じておらず、それどころか笑ってすらいる。それも当然だ、この程度の地区予選、竹永にとっては勝ち残るなど造作も無い。それどころか、できるだけ決勝に体力を残せと言われているほどだ。そうでもしないと大事な所でバテてしまうと半ば脅すように忠告された。まあ、忠告した顧問も多少バテたところで竹永が地区予選の決勝なら勝ち上がれると知っているのだが。
それでも、流石に決勝は本気で臨むものと思っている竹永は体力を温存するつもりだ。かといってフライングなど、詰まらないことで失格になりたくはないので、集中を入れなおすために顔を両手で叩く。ただでさえ元気の無い、可愛がっている後輩がげんなりとしているのだ、元気づけられる走りができなくてどうするというのか。
スタートの直前、次に撃つ火薬を係員が準備している間に体を慣らすため、軽く上に跳び跳ねる。スターティングブロック(スタートの時に設置する道具)の左右の距離も調整したので準備は万端だ。
「on your mark」という、審判陣の無機質な声がスピーカー越しに届く。日本語にすると位置について、だ。待ってましたとばかりに竹永はしゃがみこみ、両足のスパイクのピンをゴムに押しつける。時折、強めに押しつけて当たり具合を確かめた後に完全に静止する。発進直前のこの瞬間はいつも静寂に包まれる。その緊張感はいつになっても心臓を跳ねさせ、心躍らせる。
正直負けるつもりはさらさらない。「set」、その掛け声で一斉に、静止した七人が腰を持ち上げる。後は、火薬の炸裂音を待つのみだ。先ほどとは違う、少しざわつきの感じられる静寂は、もはや緊張にならない。ただ、その先にあるレースを早く始めて欲しい。だが、流行る気持ちを押さえないと失格になる。
そんな心情を察したかのように、静けさの中を一つの発砲音が駆け抜ける。まだかまだかと待ち望んだ開始の合図、誰よりも早くに竹永は駆け出した。スタートのその瞬間だけで既に独走、加速も最高速度も圧倒的に上回っている竹永に、他の者は誰一人として勝てなかった。
ゴールラインを越えて、ゆっくりと減速する。ラインを三十メートルちょっと越えた所で、振り返った彼女は客席の方を見た。見つめる先には自身の高校の観戦している位置。
「あんのバカ、いつになったら立ち直るつもり? もうすぐ楓の出番なのに……」
視界の中心に映るのは、一人の後輩。当然のごとく楓だ。周りに合わせて笑って拍手しているが、作り笑いなのは丸分かりだ。目が笑っていない。そんな事では先が思いやられる。
この試合が始まる前、竹永は彼に言っていたはずだ。しゃんとしろ、と。何かが起こっているのは自分も気づいている。無理に話せとは言わないが、気持ちだけは強く持っておけと。それなのに、何かに取りつかれたようにして、暗いまま。正直言って見てられない。
「さてと……頼みの綱は、代介の叱咤激励と、凛ちゃんの試合かしらね? それで立ち直らなかったら……」
あらかじめゴール付近に置いておいた着替えを上から着て、靴を履き替える。そこまで弱い人間じゃないと信頼している彼女は、立ち直らなかったら、その先は言わなかった。
信頼している、そう言えば聞こえは良い。これ以上何もできない、それが真実なのだが————。
◆◇◆
「やっぱり竹永先輩速いなぁ……」
「うん……そうだな……」
「何だよ、元気ねえな。テンション高く行けよ。圧勝だぞ、圧勝」
本気でないとは言え、憧れの先輩の試合だ。普段ならば息を呑むような興奮と共に喝采を上げるだろう。だが、もう分かり切っていることとして、彼のモチベーションは低い。そんな事ではしゃげるような余裕は無い。
そろそろいじらしく感じてくる代介だが、叱りとばしたところで気合いを入れなおせるだなんて到底思えない。何とかするには楓自身が壁を越えようとしなければならない。
しかしこびり付いた心的外傷というものが剥がれ落ちるには、外からのファクターが、時として必要だ。自分一人で、忘れる以外の方法で乗り越えられるものは、おそらくトラウマとは言わない。強靭な精神力を持った大の大人ならともかく、一人の高校生には不可能だ。
こういう場合に、塞ぎこんだ状態から脱却するのに必要なのはおそら二つ。一つは楓自身が向き合おうとすること。もう一つは、外からの刺激として外傷を心に刻み込んだ本人との接触だ。一歩間違えれば傷口を抉りそうな、ショック療法が後腐れなく傷を癒着なしに接着できるのだろう。
「なあ、マイル……近づいてるぞ」
「え? ああ、そう。……そうだな。ちょっと体動かしてこようかな?」
「待てって、もうすぐだから女子の四百の一組目見てから行けって」
「…………そうだな、乙海出るし」
「後、伝言な。“下見んな、前向け!”だってさ」
「……あいつは、前向きだな」
楓はゆっくりと息を吐き出す。溜め息を吐くとも、深呼吸をしたとも取れない、中間地点のアクション。とりあえず、現在最も彼が強く感じている感情は不甲斐無さだ。誰にも迷惑をかけずに終わらせようとしていたのに、すぐに感づかれてしまっている。昨日の氷室、隣の代介。準備している乙海、走り切った竹永、多分それ以外の皆も。
「前向け……か……」
「ん? 何か言ったか?」
「いやな、ちょっと。なあ、代介。俺にできると思うか? もしも俺にバトンが回ってきた時に、隣に誰か走ってたとして、抜けると思うか?」
「さあね? 誰が来るかによるだろ。ってかな、お前が走る前にすでに千二百メートル走ってるんだよ、差はもう、そこにあんの」
「でもな、俺には……ちょっとした予感があるんだ。琥珀と並んで走りそうだっていう」
「誰だよ琥珀って」
「俺の髪の毛、黒くした奴だ」
「ハア? 何それ」
「もしも皆のお陰で立ち直れたら、素に戻ろうと思う。いきなりの変化に驚くなよ」
「何の事だよ、訳分かんねえ」
場内放送のアナウンスが響き渡り、二人の会話を阻害する。ゴール地点付近にユニフォーム姿の一年女子がたくさん出てきた。
『これより、二日目プログラム三番、一年女子四百メートル一組です』
続きます。