複雑・ファジー小説

第一章 ( No.11 )
日時: 2011/09/30 20:32
名前: 黎 ◆YiJgnW8YCc (ID: WbbkKfUP)
参照: http://ameblo.jp/happy-i5l9d7/



しばらく放心状態にあった楓はやっと意識が戻る。そして何故かベッドに立てかけてある、きらびやかで装飾のなされた長剣を手に取る。

 自分の部屋から出て、玄関へと向かって行く。楓の部屋は二階の一番奥、まるで隠すかのようにひっそりと存在していた。そのため二つ部屋を通りすぎ、階段を下りる。そして一階の一番奥の部屋、つまり楓の真下の部屋だ。そこの前で止まり何故か重たそうに口を開く。
 楓の顔色が若干青ざめているように見えた。

「……行ってきます」

 部屋に居ると思われる母に声をかける。しかし母からの返事は返ってこなく、相変わらず部屋は物音一つもせず静かだった。それだけ静かだったら楓のか細く頼りない声でも届いたはずだった。だとしたら母はその部屋にいないのか、それとも……

 楓は心なしか顔を寂しそうに悲しそうに辛そうに歪め、ひっそりとある質素な玄関へと歩みだす。楓が一歩を踏み出すたびに廊下の床が軋み、無機質で無音の世界に波紋のように響き渡った。

 玄関に着き、お気に入りの黒いブーツ丈の革靴に足を、音をたてないようにそっとなめらかに滑り込ませる。とてもしなやか動きだった。
 せっかく綺麗な翡翠色の瞳は相変わらず暗く澱んだままで勿体無い。表情からも生気が感じられない。そして靴を履かせている両手が小刻みに小さく、怯えるように震えていた。

 右足の靴紐をリボン結びにした時だった。

 ドアが静かに開き、しばらくすると閉まる音が無音だった世界に響き、奮い出させた。

 それと同時に楓は何かに弾かれた様に、瞳の視線を左足に履きかけていた靴ではなく、真っ直ぐに玄関のドアを見る。そしてゆっくりと振り返る。その動作はぎこちなくたどたどしい。

「お母様……」

 フッと息を漏らすような、そんな今にも消えさってしまいそうな声で呟く。そして今目の前にいる人物が視界に入り目を大きく見開く。母も楓を無表情のまま食い入るように、否、睨むような形相で見ていた。そして数秒瞳を合わせただけで母は苦虫をすり潰したかのような表情を浮かべ目をそらす。その行為に楓は僅かにだが唇を噛み締め、俯く。

「“貴方”の忌ま忌ましい目と私の瞳をあわせたのは何年ぶりかしらね。 ……“貴方が居なければ”覚えてる? 私が貴方に最後に言った言葉なんだけど……何でまだ私の目の前にいるの? 存在しているの? 平然に生きているの!?」


 瞳を冷たく凍らせながら、まるで楓の心を粉々に壊したいんじゃないかと言うほど重々しい、長く酷い台詞を吐き捨てる。最後のほうは冷静さが失われ、怒声が入り混じっていた。声を荒げたせいか激しい息遣いが耳まで届く。

 楓はだらし無く力が抜けて垂れ下がっていた手を強く握り締める。
 そして俯いていた顔を上げ、左目で母を射るように見る。しかしその目は少しだけ赤く充血していた。

「ごめんなさい。 ……でも心配しないで下さい。私は“貴方”と二度と出逢うつもり……微塵もありませんから」


 楓は涙声を絞りだし告げる。実の母親に向けたとは到底思えない、掛け離れた一言だった。一瞬だが拳をさらに強くグッと握りしめる。そして先程とは打って変わり、玄関の泥で汚れてしまった左足の靴下をチラッと見て、戸惑わずに靴に突っ込む。


 肩にかけてある長剣をそっと撫でると勢いよくドアを開き身体を投げ出した。周りの様子が見えないくらい速く走る、走る。涙が堪えきれなくなり次々と溢れ出す。それが頬に流れ、髪が纏わり付く。そしてゆっくりとだが走る速度を下げて行き、立ち止まる。
 楓の耳にはしっかりと届いていた。最後に母が

——家伝の……家伝の歴史を汚した悪魔が——

と、泣き叫ぶ様な声が耳にこびりつき、離れなかった。

 楓は顔を上げる。空は怨みたくなるほど鮮やかに晴れ渡っていた。そしてその太陽は悪魔と呼ばれた少女でさえも見放さない。眩しく輝かしい明るい光がそっと楓の頬に触れて包み込み、涙を優しく乾かしていった。