複雑・ファジー小説
- 第一章 ( No.16 )
- 日時: 2012/04/15 21:38
- 名前: 黎 ◆YiJgnW8YCc (ID: myCH3bJe)
小百合は楓と校長室を出たあと、足に鉛をくくり付けられたような錯覚に陥っていた。しかし歩みを重たくしながらも一歩一歩の歩幅を大きくし、黙ったまま“騎士の棟”を目指していた。この沈黙が何を示しているのかは幼き楓にも分かっていた。しかしそれが暗黙の了解と分かっていても、ほんの少しの期待感がぬぎれない。そして楓は口から意を決したように、小さく息を吸う。心に留めていた言葉が声として出された。
「先生? 楓はやっぱり……」
しかし言いかける途中で、諦めた様に左右に力無く首を降り、頭を垂れた。それが楓の中での精一杯だった。小百合は声をかける事も出来ず、ただただ温かい手で楓の頭を優しく撫でる事しか出来なかった。楓の心に釘を打つような真似が小百合に出来る訳がなかった。それでも嘘をつくことは出来ない。だから焦らずに選んで、それとは別の言葉をかける。
「楓ちゃん、安心して。私が……私が必ず立派な騎士にさせてみせるから」
小百合は自分が決意した様に、楓に言い聞かせるように、そして自分にも言い聞かせるように楓に言ってみせた。
廊下の奥の方は子供達の騒ぎ声で五月蝿い。しかしその澄み切った声は子供達の笑い声にも掻き消されずに、楓の目の前にあった。
「本当に? 先生」
楓は少し驚いた様に目の前にある小百合の顔を眺める。そしてその言葉が小百合の意思だと伝えるかのような、決意に満ち溢れる顔を見て、事実だと受け止めたのか、緊迫していた表情を少し和らげた。それと同時に頑なに握っていた拳を開く。目に見えるかのようにゆるゆると力が抜かれていくのが分かる。どれだけ気が張っていたのだろうと考えると、いたたまれなかった。小百合は頭に乗せていた手を楓の小さな両手へと伸ばす。
「本当よ。八年間……私が楓ちゃんの面倒を責任もってみるから」
小百合は表情を緩ませ、微笑む。それにつられて楓は笑いながらも、しかし瞳からは次々と大粒の涙が作り出されて溢れ出してた。これから先きどれほど辛い事が待っているのか、この時の小百合と楓は知らなかった。それでも負ける事はなかったのだから。この日した約束を嘘へと塗り替えないために。
——
楓はそこまでの記憶を思い出して、少しだがあの時と同じような笑みをこぼした。それは数年前よりも遥かに自然で大人っぽかった。そしてもう一度、騎士の棟へと体ごと向ける。数年前とさほど変わらない。心の底から想いを込めて呟く。
「小百合先生、今までありがとうございました。私は必ず立派な騎士になってみせます」
その言葉を小百合の元まで運んでいくかの様に、強い風が吹く。その風で楓の髪が風になびいてはためく。当の本人は左目にゴミが入らないように手で遮っていた。しかし次の瞬間見た光景で、楓は乱れた髪を直す事もなく動作は完全に停止し、その光景に見入っていた。
「うわぁ…………綺麗!!」
風の影響で、咲き誇っていた桜の花びらが枝から離れ宙を鮮やかに舞っていた。楓以外の者達もその光景に呆気にとられて顔を桜の大樹へと向けていた。目の前が淡紅色一色と言って良いほどに染まり、瞳で春を感じられた。楓は視線を空へと向ける。空の青色に桜の淡紅色が映えていて、思わず微笑んでしまう。
そして風が止むと花びらはヒラヒラと力をなくしたように、地面に落ちていった。すると楓は少し寂しそうな表情をしながらも肝心な掲示板へと目を向けた。
「神風楓……神風楓は何処かな?」
前例が今だに忘れられないため、期待に満ち溢れた様な、楽しそうな表情をしようとしても自然とこぼれる笑みはなかった。作り笑いしかそこにはなかった。
周りを見渡せば主と騎士、ほとんどの者達がパートナーと出会えているようで、自己紹介のような会話が耳をかすめていく。その光景が過去の記憶と重なり、楓は急いで探す。自分でも気づかない内に息が少し上がっていた。急げば急ぐほど慌てて半泣きしそうになる。
足音がすぐ側まで近づいてきているのにも気づかずに……