複雑・ファジー小説

第一章 ( No.19 )
日時: 2012/06/09 17:29
名前: 黎 ◆YiJgnW8YCc (ID: qlQjtvRq)



「神風……かえで、さんかな?」

 突如、楓の後から優しく大人びた少年の声がかけられる。楓が自分の事だと理解するのにそう時間はかからなかった。昔から楓は“かえで”とよく名前を間違われ、最初の頃は寂しく思ったものの、今ではもうそれが当たり前になっていた。楓は内心またかと呆れながら思い、いつも通り作り笑いで否定しよう、そんな事をザッと一瞬で考えて笑顔でゆっくり振り返っろうとした。しかしその動作は途中でピタリと停止させられた。顔からは笑顔が波引くように消えていった。

「いや……違った。神風“ふう”だったよね」

 またもや風が吹き荒れる。自分の耳を疑い、きっと聞き間違いだと一瞬思ってはみたが、間違いなくその声は、唇は“ふう”と言ったし動いていた。そしてその声の主に視線をゆっくりとあわせていく。翡翠色の瞳に写るのは藍色の目、色白の肌、ブラウンの髪。
 未完成だった記憶のパズルのピースが見つかった。楓の記憶の中で最後のパズルのピースがはめこまれた。楓の中で何かが一致する。それは凄く大切で無くしてはいけない柄のピースなのに、後一歩のところで思い出せない。楓自身そのピースの柄が何か分からず胸がギュッと掴まれた様な、なんとも言えない苦しさに襲われる。唇を噛むと、鉄と苦い味が口いっぱいに広がっていく。

「なんで……なんで私の名が“ふう“だと思ったのですか?」

 少し上擦ったような楓の高くて小さい声。これが今の楓の中での精一杯だった。平常心を保とうとしても渇いた唇がくっつく。喋ろうとしても、声が唇が震えてなかなか言葉にできなかった。それでも心の乱れを感知されないように、いたって優しい表情を浮かべてみせようとする。しかしそこには先程のような、笑顔はなかった。それも作り笑いではあったが。今の楓には“当たり前”の 仕種でさえも封じ込まれてしまうような事だった。どんどん速くなる心拍数を実感しながら、その人の答えを待つ。


「勘、かな? それと……夢のような淡い記憶のおかげ」

 少年がボソッと答える。表情は先程とは打って変わり、何処か寂しげだった。しかし、何か遠い日の記憶を掘り出そうとしているような、迷っている瞳だった。

「では何故私に声をかけたのですか? それと……つかぬ事をお聞きしますが、貴方の名前は?」

 服の裾をしわがつきそうになるくらい強く握る。それはいつしかの出来事と重なる。胸の動機が高まりながらも必死に抑え、かすれた声を絞り出す。楓の中での最大の疑問を投げ掛ける。それが今一番知りたい事だった。それを知る事が出来れば、記憶の箱を封じ込んでいる鎖が契れると思った。その契りの言葉を待つ。ーー鎖を解き放てーー

「俺の名前は“氷崎由羅”。そして楓……君のマスター」

 由羅はわずかに微笑みながらそう言い、楓が見ていた掲示板を下から指差していく。そして腕を上げ、上から五段目を指し示す。由羅はそこをじっと見つめていたが、楓は呆然としながらも由羅に焦点をあわしていた。そのなんともいえない視線に気づいたのか、瞳だけを動かしちらりと楓を見る。すると楓は我に返ったのか掲示板へと顔を向けた。指差す先は楓がまだ見ていない場所だった。そしてそこには間違いなく記されていた。

——主“氷崎由羅”騎士“神風楓”——

そこで楓の記憶を縛っていた鎖がばらばらに契られる。

——

「ありがとう『由羅』君……」

——

 あの時の少年の笑顔と由羅の笑顔が重なって見えた。楓はにわかに頬を赤く染め、満面の笑みをこぼしてしまう。瞳のふちに涙が溜まっているのにも気づかない。そんな様子を見て由羅が不思議そうにきょとんとしたような、焦っているような表情をしているのも気にしなかった。やっと出会えたのだ……憧れの相手に、生きがいとなっていた人物に、ずっと捜し求めていた人に。

 桜が満開に咲き誇り、春真っ盛りの今日。そこに対峙するは二つ大きなの影と花びらの小さな影。これが楓と由羅の二度目の出会いだった。