複雑・ファジー小説

Re:  「 カイラク 」 ( No.114 )
日時: 2012/07/25 13:07
名前: 玖龍 ◆7iyjK8Ih4Y (ID: CMvpO4dN)

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 投げた包丁は目に見えるノイズ、砂嵐のようなノイズ混じりに、消えた。まあ、予想していた結果だった。当たると思って当てようと思って投げたわけではない。が、当然当たらないことによってイライラは増える。

「硫酸よりも包丁の方が現実的! 現実リアルいいねぇリアリズム! サイィッコォウだよ!」

 現実現実現実と言われると眩暈のような感覚に陥る。止めて欲しい。黒くて暗くて深くて血塗れの現実は、どこまでも一人ぼっちな現実は嫌いだ。発作的に、死にたくなる。私は気付かれないように、手を後ろに回して手首の傷を引っ掻いた。ぴりっという痛みを感じたら、もっと強くがしがしと引っ掻く。小さな自殺衝動を掘り返して陰に浸かる。
 こいつは私がこういう状態に落ちることを分かって言っていそうだから、苦手だ。流石は母親、とでも言うべきだろうか。

「ねぇえええ? 夢の中に生きる妄想癖のォオ、イデアリスムさあぁああん?」
「私は理想主義者じゃないし国際協調にも平和にも興味はない!」

 と、つい、口が勝手に。こいつに何を言っても勝てないことは分かっている。かっとなったら負けだ、ということは分かっているつもりだったのにな。

「そぉ? そうかぁああい? 理想主義は理想しか愛せなあああいっ!」

 彼女は、ばっと手を広げた。周りの黒い世界が音を立てて、時代遅れのアナログが消えるようにデジタルに変わり行く。

 しかしそのデジタルは、マンションの、廊下。思い出したくないのに。
 薄汚い埃っぽい虫が湧いて湿っぽくて日の当たらない、暗い廊下。鉄の扉が規則正しく礼儀正しく並んでいる。

 気持ち悪い。陰鬱な気分の日常が彼女の後ろに、すぐ後ろに居る。彼女と共に私を飲み込もうとしているんだ。気持ち悪い。
 クリームパンは吐き出したからもう吐き出すものは無いはずなのに、胃の中の液体がぐるぐるぐる回って、外に出たがっている。

「気持ち悪い! っふっは、そうだそうだろォウ? 理想中毒者は現実が嫌ぁああいっ!」

 違う。嘘も出ないほど気持ち悪い、死にそう。
 私は下品に狂ったようにげらげらげらげらと笑う姿が、次の瞬間には私を本気で殺しに、襲いかかって来るのではと思って少し後ろに下がる。肩あたりにひやっとしたものが触った。少しだけ首をひねって後ろを見ると、外に落ちないように、という壁だった。

「……落としてやろうか」

 急な低い声。耳元が冷えるような。過去のトラウマが抉って掘り返される。
 驚いて前に向き直ると、チャラ男の顔がすぐ目の前にあった。鼻と鼻の隙間が一センチくらいの目の前。
 彼女は私の肩を掴んだ。痛い。どんどん握る力が強くなって痛い。

「落としてあげようか!? そうさこの死にぞこない! ここからボクと同じように落ちるといいよ頭からァ! 顔が半分潰れていってぇえええぞぉ? 電車よかよっぽど確実に死ねるゥウ!」

 肩にかかっていた握る力が押す力に変わった。私は今ここから落とされようとしている。必死でもがき足掻き抵抗するが、力が強くて、それはもう骨を砕くくらい強くて、振り払えない。

上半身が落ちた。つられて下半身も落ちた。
落ちる景色が見たことあった。最近。最近のこと。走馬灯かと思ったがやけにはっきりとした記憶だ。コンクリートの薄い赤。そうだ、鳥居から落ちた時の。
冷静ちっくに血が上った頭で考えていたが、いよいよ三十センチ二秒後くらいに死が迫ったとき。本気でヤバいと思ったが何もできないことに焦りを感じたとき。

 突然視界が白く変わって、頭から地面に落ちた。が、痛くない? 固くない? 寧ろ、ふわふわ。
 私を受け止めてくれた白いふわふわの感覚を頬で、腕で足で感じていたら急に消えた。アスファルトのごつごつに変わる。
 目を開けようとしたとき、耳の中に懐かしい音と確信が。

「私の妹に何してくれちゃってんの?」


 本物だ。