複雑・ファジー小説

Re: 「さあ皆、鬱になれ」 ——曖昧模糊な短編集 ( No.23 )
日時: 2012/01/08 04:57
名前: N.Clock ◆RWBTWxfCNc (ID: 5E9vSmKZ)
参照: http://www.nicotwitter.com/watch/sm10676104

【横溢】(トケイバリ考案)
 「諸君聞きたまえ!」
 バンッ、と机に手を叩き付けた拍子に、机の上の紙の山が落ちる。
 ギラギラと虎の如く眼を輝かせ、D博士はおでんの糸蒟蒻が突き刺さったままの割り箸を右手に怒鳴った。
 「私は傍観しているのだ。赤い塵と碧い空の上でパンクに狂い踊る素体がメンガーのスポンジから飛び降りてはディスプレイに降り立ち、描かれる三原色のマスの上を走り去っていく。ユークリッド幾何に定義されない答え無き五次関数の平面に咲いているのはコッホの華だ、座卓の上を飛んでいるのは羽の無い蝶だ、足で飛ぶ蜘蛛だ。猫又の欠けた尻尾の先に止まって小さな元素霊達が白き妊婦の中指のガーネットの指輪を目薬で湿す、使徒達の乾いた唇を合成のリバティーが裂く。汚穢から飛び降りる賢者のカチ割れた脳味噌から見たことない至福と嘗て未来に投げ捨てた分岐が溢れ出し、辺り一面は見渡す限りの炎だ、民が逃げる燃える朽ちて走る。アリバイ無き毒茸に何を遠慮があろうかと燃やせば塩素の臭いを放ちつつ、歯車仕掛けの歌唄いがオドに包まれた手でペンデュラムを黄金のロータスに翳し『円周率は有理数』と金切り声を上げ、音符混じりの雨は両性具有の貴婦人とグローヴァルに広がった馬の骨どもを歓喜さすッ!!」
 最早何を言っているかすら、私には——否、此処に居た全員は分からなかった。
 D博士は割り箸を空になった鍋の中に突っ込んで自分の机をひとっ飛びに飛び越え、私は行きます、諸君トルヒーヨへ行こうじゃないか、と広い研究室中に響き渡らんばかりの大声を上げて笑いながら、研究所のドアを蹴り開けて出て行った。廊下から響いてくる博士の笑い声の所為で、部屋の中は決して静かではない。
 「D博士に何が起きたんです?」
 研究室の副室長である私に尋ねつつ、M研修生が博士の机から落ちた書類を引っ掻き集めて机の上にもう一度山を作る。D博士の補佐として長年行動を見てきた私だが、いきなりあんなことを言い出した理由はちっとも分からない。あの瞬間まで、博士は極普通の好々爺然とした中年男だったのだから。
 私は頭をフルに回転させて、指示を飛ばす。
 「憶測以上のことは分からない。C君とI君は一緒に博士を追って、何か変わったことが起きたら直ぐに連絡して。M君は私に着いて来て、危険研究用の部屋に入って原因を調べるわよ。あ、で、憶測って言うのはね。博士が囂々と話していた内容は、まず現実では在り得ない話よね。妄想か夢に関わるようなことで、何か禁忌に触れたのかもしれないってこと」
 C研究員とI研究員が白衣を脱ぎ捨てて部屋から飛び出していくのを横目に見ながら、私はM研修生の問いに返して、部屋の最奥にある部屋に向かう。
 研究部屋には総じてセキュリティ対策として普通のタンブラー錠と更にダイヤルロック、その上キーロックまで掛かっているが、この部屋はことに危険なものを扱うときにのみ解放される部屋で、パターンロックとパスワードロックも掛かっている。私はこの部屋を開くことのできる権限を持っていた。
 素早く全てのキーを解除し、M研修生を伴って中に入る。
 そして、入る前から二人して唖然とした。

 「な……に、これ——」
 M研修生が腰を抜かすのも無理はなかっただろう。
 中に据え置かれていたのは、私が両手を広げても掴めないほどの大きなディジタルモニターが一台と、その前にちょうど医者が使う診察台と心電図計、脳波計等の計測具が一式。冷たい診察台上にはD博士が語った一部の物品の現物やレプリカが所狭しと置かれ、壁や床の上にも、手の付き場も足の踏み場も無いほど様々な物品が散乱している。
 モニターには、恐らくD博士の言った内容と同一であろう映像がフルカラーで映し出されている。
 凄惨と言えば凄惨な光景だった。
 青い布地に赤絵の具を飛ばしたように塵が吹きすさび、その真っ只中に立つメンガーのスポンジ様の建物から前衛的な舞を披露しながら、素っ裸の肌色フィギュア素体が飛び降りて、赤青黄の三色で描かれた格子の上に着地しては次々と走り去っていく。まるで雪の結晶のような、しかし真っ赤なコッホの平面に立体的な深緑の茎と葉が付いて、歪みたゆたいながら空間の中で踊っている、その華が咲いている座卓の上を、キアゲハが丸々と太った芋虫のような胴体だけをくねらせて飛び、タランチュラのような大きな黒い蜘蛛が毛の長い足をヘリコプターのように振り回しながらふらふらと飛び……
 「A先生!」
 耳を劈く叫び声で我に返った。