複雑・ファジー小説
- Autumn Leaves ( No.42 )
- 日時: 2012/03/03 07:09
- 名前: Lithics (ID: Z3U646dh)
『Autumn Leaves』
秋も深まった或る日、肌寒さを凌ごうと馴染みの喫茶店のドアを潜ると……其処はいつもと少しだけ雰囲気が違っていた。マスターの趣味であるジャズが流れる落ち着いた感じは変わっていないのだが、この場合そのジャズの音質が問題というか。オーディオとは明らかに違って、『生』の迫力を持った音——
「マスター、あれ……何?」
「何って、達也(たつや)君。ありゃどう見ても『ピアノ』だろう?」
「いや、それは分かりますよ! なんでまた急に……」
カウンターの向こうで皿を拭き拭き、髭面のマスターは柔らかく微笑んだが。決して広くはない店内にデンと置かれたカットオフ・グランドの白いピアノは、馴染みの僕にとっては酷く場違いに思えてならなかった。しかも、その椅子に座っているのは……
「(彼女、美人だろう? しかもピアノの腕は確かなんだな、これが)」
「は、はぁ……あ、いやだから、なんでまた?」
マスターが意味深に囁いたように、確かに『彼女』は綺麗だった。顔がというより、その流れるような指先と、真剣でいて楽しそうにピアノを奏でる表情が……一言で言えば、その纏う雰囲気が綺麗だったのだ。いやだからと言って、店との違和感が消えた訳ではないんだけどね?
「ふふん、いいじゃないか理由なんて。さて、例の如く御客さんは達也君だけだ……いつもみたいにリクエストに応えるよ?」
「また誤魔化して……まあいいです。それじゃ……『Autumn Leaves』を」
「ああ、良いねぇ! 外の並木も色付いて来た時分だし……それじゃ、おーい!」
「え……?」
——ピアノの旋律が止まる。マスターへ声に反応して、彼女がこちらを振り向いたのだ。いや、僕がうかつだったと言えばそれまでだけど……今まで『リクエスト』と言えばオーディオか、運が良ければマスター秘蔵のレコードを掛けてくれる常連用サービスだったのだが。今回はどうやら生演奏のリクエストだったらしい。
「リクエストが入ったよ……『Autumn Leaves』。出来るかい?」
「ああいや、マスター? そんな無理は……あ」
慌てて遠慮しようとした僕に向かって、彼女は確かに微笑んだ。そのまま無言でうなずいて、直ぐにピアノに向き直ってしまったのだけれど。ああもう……認めてしまえば、それは酷く綺麗だった。いや、真剣さとか音楽がどうとかじゃなくて、その……女性として。
「おや〜? どうかしたのかい、達也君?」
「……マスター、あのさ」
「うん?」
——秋も深まった今日この頃。場違いな白いピアノが奏でるのは、鮮やかに色付いた紅葉の街の情景……いつまでも色褪せない名曲『Autumn Leaves』。それは僕の一番のお気に入りだったから、ちょっと気になったのだ。どのレコードよりも鮮やかに、目で見るように音色を楽しませてくれる彼女の事が。これは断じて言い訳ではない。違うってば。
「ええと、その……彼女、名前なんていうのかな?」
(了)Lithics