複雑・ファジー小説
- Straight ( No.63 )
- 日時: 2012/04/06 19:30
- 名前: Lithics (ID: x40/.lqv)
『Straight』
——では、或る男の話をしよう。彼は、『曲がった事』の嫌いな男だった。
勿論、この評は大雑把すぎて、彼の全てを表すものではない。そもそも彼とは大学時代の学友という程度の親交だった訳だから、そこまで多くを知る訳では無いのだが。珍しく降った冬の冷たい雨で、窓からのお気に入りの景色が煙るのを見ながら、ふと彼の事を思い出したのだ。貴方のような客に話す事ではないかも知れないが、気まぐれに付き合って欲しい。
「僕はね、とにかく『真っ直ぐ』が好きなんだ」
そう言って微笑む彼は、その言に違わぬ『真っ直ぐ』な人物だったとは思う。ああいや、誤解してはいけない。特筆するほど真面目一徹な訳では無かったし、『正義』なんて抽象的な概念は、彼の最も苦手とする所だったはずだ。青年らしい闊達さも、反面おおらかで柔和な性質も、私を含めた学友たちから普通に好かれる……極々一般的な人物だった。
——だが、言ってしまえば。そんな彼が持つ、実に一般的でない『或る嗜好』が、彼を私の記憶に強く残していたのだろう。
彼が愛したのは、ただ単純に物理的な『真っ直ぐさ』。例を上げるならば、真っ直ぐに伸びる<道路の白線>は好きだが、曲線だけで構成される<蚊取り線香>の類は彼の好く所では無かった。幾多の円(歯車)の組み合わせである<懐中時計>は、いかに精緻で美しいデザインであろうと眼中になく。彼が常に好んで身につけていた腕時計は、あまり似合っていないと評判の若々しいデザイン、つまり線的な<デジタル時計>だった。止めに、飲み物を入れるなら紙パックが良くて、ペットボトルは嫌だと言った。そう、大抵の場合、ペットボトルのフォルムが曲線だから。
「嫌って……どうして?」
出会って間もない頃、直球にそう尋ねた事がある。すると彼は、手にしたペットボトルの曲線を指でなぞりながら、やはり柔和に笑って応えた。その笑みだけは、ちっとも嫌そうには見えなかったのだが。
「だって、なんか曖昧じゃないか。この曲線って奴はさ、どこまで行っても『定義』が無い。『二点を繋ぐ最短距離』っていうハッキリした定義がある直線の方が、ずっと美しいと思うんだ」
「まぁ……確かにハッキリとしてるのは分かるけど」
そんな納得いくような、いかないような顔をする私に。
「まあでも、そんな事言ってたら生きていけないよね。随分前に、『嫌う』のは諦めたよ……だから、僕の嗜好を表すなら。やっぱり、『真っ直ぐ』が好きなんだ」
そう言って、少し残っていたペットボトルの中身を飲み干したのだった。確かそれは、有名な飲料メイカーの紅茶。ミルクもレモンも入っていない……普通の紅茶だったと思う。
○●
——さて。どうして、こんな気分になったのかは失念したが。今は、彼の話を続けよう。
あれは彼と初めて会った時期。出自は全く違っていた私と彼だったが、同じ大学の理学部・数学科に進学し、そこで出会ったのだった。私は漠然とした『数学』という学問、定量化された数字の世界に興味がある程度で、大した熱意がある訳では無かったが。そこはそれ、彼は入学当時から皆と違っていた。担当になった話し好きで老齢の教授に、数学を志した理由を尋ねられると。戸惑う私たち新入生を尻目に、彼は目を輝かせて応えた。
「僕は、微分・積分の研究がしたいんです。捉えようのない『曲線』を、定量に変換する……そんな『魔法』のような方法を」
本人曰く、昔は『円周率π』の謎に執心した事も在ったとか。特筆すべき秀才でありながら天才では無かった彼は、それでも300桁を越えるまでの円周率を諳んじるまで努力したという。そして、その数列が決して終息をみない理由を探ったのだ。『円』という究極の曲線、『身喰らう蛇
ウロボロス
の円環』の謎を。
「まあ結局。高校生じゃ、そんなの無理だった訳だけどね。ははっ」
珂々と笑ってはいたが、そんなの当然である。円周率が何処かで終わる、なんて一般常識では考えもしない。それは『そういうモノ』として受け入れられた真理なのだから。だけど彼は、その『当然』が許せなかったのだと言う。
「曲線や円を細分解……つまり微分すると、『限りなく0に近い距離を持つ直線の集合』になるはずだろう? 円周率はその終着点であるべきなんだから、終わりが無いなんて信じられないよ」
大仰に嘆くような仕草で、彼はいつも言っていた。どうして、そんな『曖昧さ』を放っておけるのかと。数学という学問には、『答え』が無ければ嘘ではないのか、と。勿論、良識ある出来た人物であったから、当時の教授陣に面と向かって啖呵を切るような真似はしなかったし……実は彼自身、気付いていなかったのではないかと思う。その疑問の在り方、誰もが折り合いをつけてしまう深淵なる真円
シンエン
の謎に臨む姿勢こそが、非常に特殊であるのだと。
——少しばかり、解説が必要かと思われる。解説と言っても、彼が取り組んだ『円』という問題について、私なりに解釈した結果を記す訳だが。興味が無ければ聞き流して欲しい。
言わずもがな、『完全な円』は物理・概念上の両方で観測され得ない。それは円周率が終わりの無い値であるからであり、その理由は円のルーツを探ると理解しやすくなる。例えば、円の中に正三角形を配置する。すると3つの角は、全て円周上に接するのが分かるだろう……これは、正n角形(n>1、整数限定)ならば無限に当て嵌まる条件だ。勿論、正十一角形のような製図出来ないモノもあるが。そして、このnが無限に近付くと、それは限りなく『円』に近付いていくのである。
この時点で気付かれた方もいるだろう。無限に増えていくnに制限はなく、曲線はより滑らかになっていく。だがそれは、どんなに滑らかに見えたとて『直線』の集合に違いないはず。ならば、数学者が得意げに語る『円』とはその実、何であるか? その『円』を途中に切り離して、任意に角度を変えたモノが曲線であるなら、その正体は何か? それが、彼の疑問だった。円、曲線として命題に出された以上、それは確かに存在しなくてはいけない。だが、その正体は直線の集合であると証明されていて、概念的には『無いモノ』になりはしないか。『円』は直線であり、同時にやはり『円』でなくてはいけない。そのどうしようもない矛盾に、彼は頭を悩ましていたのである。
「そうそう、ブラウン管とかと同じだよね。アレは無数に並んだ三色の光点を組み合わせて像を為す。でも、その正体であるバラバラな色とは別に、僕達は映った像の形を共通して認識できる……や、便利便利」
そんな皮肉なんだか本音だが分からないことを言って、彼はやはり笑っていた。その眼は、一度は若輩故に諦めた命題……『幻影
ファントム
』のようなものを、これから一生を懸けて相手にする喜びに輝いて。それでいて、そんな事は別になんでも無いと言いたげな軽口を叩いていた。
「あ、今この人オカシイとか思った? でもね、言わせてもらえば。『此処では皆、狂ってる』、ってね。そう思うよ、僕は」
「ん、ドジスンのアリス? 『そうでなければ、此処に来たりはしなかったさ』って」
「ははっ、そうそう! 此処はまさに『不思議の国』だろう? 僕たちは戸惑うアリスか、誘うチェシャ猫か、どっちだろうって考えると哀しくなるけど。あ、ところでドジスンは数学者でもあるって知ってた?」
生来冷めた性格の私の目に、そんな彼の熱意は眩しく映った。だが不快だったり妬ましかったりしたかと言えば、決してそんな事はなくて。私たち2人を含めて数学科の同期は5人居たが、おそらく皆して彼の影響を受けたのだろう。気付いた時には、顔を合わせれば即ち興味のある数学の話題を話し合うという……実に健全か、実に崖っぷちか紙一重、素敵なキャンパスライフが始まっていた。