複雑・ファジー小説
- Straight-2 ( No.64 )
- 日時: 2012/04/06 19:31
- 名前: Lithics (ID: x40/.lqv)
——さて、話を続けるのだが。実は大学時代の彼については、さして特筆すべき出来事が無かったりする。繰り返すようだが、彼はちょっと変わった嗜好を持つ一般人に過ぎない。確かに2人して数学に明け暮れた記憶もあるが、決してそれだけでは無かったし……普通の大学生を想像してくれれば、それで事足りてしまうのだ。それは例えば、恋愛方面においても、然り。
「ああそうだ。もしかして君らってさ……『数学が恋人だ !』、とか言っちゃう人かな?」
「は……? い、いやいや、そんな訳ないでしょう……!」
この発言は、私たちの同期の女の子のモノである。対象は私たち2人……ああ、言い忘れていたが、『私』は女性である。およそ全方面において健全な女子大学生であるからして、この発言には即刻異議を申し立てた。どう見えたか知らないが、そこまで枯れちゃいない。そのあとは、記憶するに値しない喧々とした騒ぎがあっただけだが。ほら君も何か言ってやれと、いつものように柔和に微笑む彼に話を振ると……
「うん? ああいや、数学は恋人じゃなくて、好敵手
ライバル
みたいなモノじゃないかな。だってほら、殺ったり殺られたり、泡を食っちゃ泡を吹かす間柄だし。恋人はねぇ……恋人かあ——」
遠い目をしながら、そう事も無げに言ってのける彼に、随分と殺伐とした学問もあったものだと皆して苦笑した。数学者という人種には、その深い魅力に取り憑かれて(誤字に非ず)、『解き明かせない』とさえ信じる、宗教にも似た熱心な信奉者も多い。彼も一見してそういう人種に見えて、そのスタンスは斬り合いのような気合いの入ったモノだったようだ。彼にとって、数学と人間は同格の存在であり……命題証明の喜びは、長年のライバルを下した喜びに似ていたのだ。
そして、この話題を締めくくるように。彼自身、僅かに苦笑しつつ言った。
「…………まぁ、今の所、恋人は募集中だって事で」
ああ、でも。『恋人かぁ』の後に続く、誰も聞いていないだろう呟くような言葉の方が、私には苦笑モノだったのだが。曰く、『人間って、丸いからなぁ』だそうで。ああいや、誤解してはいけない。彼の女性の好みはハッキリとしていたようだし、興味は人並みに有るようだったが。はてさて、この男が付き合う女性とは一体如何なる人物だろうかと、同期の間では専らの話題になっていた。私は、きっと『とにかく細い人』だろうと言い張っていた覚えがあるが、もう失念してしまった。
——そうやって、騒がしく日々は過ぎ。やがて学びの窓にも夕暮れが迫った。同期の中では、私と彼だけが大学院の修士課程に進んだが、それも2年間だけ。その間に彼と私がより親密になるという展開も無く、彼の直線好きも相変らずのままだった。卒業後、私は大学近郊の企業に就職する運びとなり……彼はそのまま博士課程へ進学する事となっていた。
「ああ、君は大学
うち
から出るの? それは残念だな……僕なんかより、ずっと優秀なのに」
卒業の挨拶なんて、こんなアッサリしたものだった。まあ、学部の卒業を終えた後も、同期の5人で飲む機会は多かったのだし。殊更に惜しむほどの別れでは無かったとも言える。そもそも同じ街に住んでいる以上、それは別れと呼べるものだったかすら怪しい。
「ま、いつでも遊びに来てよ。こんな僕の話を真面目に聴いてくれる人って、貴重なんだ」
図形を描く為の鉄定規を指先でクルクルと廻しながら。そう言って微笑む彼の目は、出会った頃と変わらぬ熱意に満ちていたが。確かに、先に述べた彼の疑問・研究理論は、決して周りに受け入れられてはいなかった。仲の良い同期の皆でさえ、その話題は笑って流してしまう……こうやって真面目に覚えているのは、私だけだったのも事実だろう。
「分かった。それじゃあね」
「うん、それじゃ」
そう、正直に言えば。彼の疑問は、いつの間にか私をも取り込んでいて……心の何処かで、いつか彼が謎を解き明かす事を期待していた。それが直線の勝利に終わるのか、曲線の更なる謎を浮き上がらせるのかは分からないが。その深みに嵌るのを怖がるように、私は研究室を足早に後にする。私には多分、その深淵に臨む勇気というべきものが、彼より劣っていたから。
「…………」
魔窟のように閉ざされた研究室から、私を見送る彼の視線を感じた。彼の研究者としての顔は、これが見納めになるとも知らず……ただ、真っ直ぐに『不思議の国』の廊下を歩く。そして、最低限お金が『数えられれば』生きていける健全なる無知を誇る、外の世界へ出ていったのだ。