複雑・ファジー小説
- Straight-3 ( No.65 )
- 日時: 2012/04/06 19:49
- 名前: Lithics (ID: x40/.lqv)
——そして、ああ、やっと思い出した。ここまで順番に話してきて、やっと。
そう、私がどうして彼の事を話そうと思ったのか、その理由を。それは丁度3年前、今日のような酷い雨の降る冬の始め。彼は突然に、焦ったような声で私の携帯へ電話を掛けてきた。ざーざーと窓に叩き付けるような雨音……それが、あの日を思い出させたのだろう。
「あ、もしもし !? 僕だよ、今、大丈夫だよね?」
「う、うん……大丈夫だけど……どうしたの、珍しいね?」
事実、彼は滅多に電話をせず、用件があればメールで済ませていた。どうも彼の家庭事情は人並みに複雑らしく、彼も苦学生と言えるくらいの清貧に甘んじていたから、通話料の嵩む携帯での電話は控えていたらしい。だが、その日の彼は、うむを言わせぬ迫力を持った声で、通話を続けさせた。それは普段の彼を知る私には、酷く違和感のある態度だったのだが。
「分かったんだ、遂に分かったんだよ! 『円環』、『直線』、『曲線』……二次元の全て、三次元の基礎となる概念の秘密が! 僕には、円周率の最果てが見えたんだ!」
「え……?」
高揚して彼の声に、私は直ぐに応える事は出来なかった。あまりに衝撃的。あまりに突飛。彼は信じるに値する人物だけれど、はいそうですか、と流すには大きすぎる内容だった。私が大学を出てから、まだたったの4年、現在から数えて7年前。彼の目標が達成されるには、異常に短い期間だったというのも、私の理解に歯止めを掛けた。加えてその頃、私は暇潰しに数学雑誌の懸賞問題を解く程度の、アマチュアにも劣る数学者に成り下がっていたのだし。
「もしもし、聞いてる かい!?」
「あ……うん、聞いてる、けど。それ……本当なの?」
「うん、そうさ。ちょっとした偶然だったんだけど……ははっ、僕は間違ってなかった! 世界は『直線
ライナー
』で出来てる、曖昧なモノは無くなったんだよ! ははは!」
——それは、ついぞ聞いたことのない、彼の全霊を以てした歓喜の声。常に彼の周りに溢れ、彼を停滞させていた『曲線』という曖昧さが解消された快感か。私はこの瞬間になるまで、彼が『曲がった事が嫌い』という意味を、本当の意味では知り得ていなかったのだ。世界の半分を『嫌う』という、その意味を。
「あっと、それでね? この理論を君に見て貰いたいんだ……今、草稿
ドラフト
とメモを持って、そっちに向かってる。頼むよ、教授にはまだ見せたくないし……正直、誰かに確かめて貰わないと、自分が正気なのかどうか怪しいと思ってね」
電話口から雨の音と彼の声に混じって、車の駆動音が聞こえた。その声色は相変らずに喜びに満ちていて、笑いをこらえるような明るいモノ。恐らく、彼自身で何度も確かめた後なのだろう……言っている内容と裏腹に、酷く自信を持っているのが伝わってきた。
「う、うん……! 分かった、机の上を片付けて待ってる」
「ああ、それじゃ後でね」
気圧された私の返事に、彼は満足そうに言って電話を切った。
「…………」
手が震え、携帯を取り落としそうになって。否応なく、自分の心臓が高鳴り始めたのを感じていた。この時点で私はもう彼を『信じる』方向に完全に傾いていた。彼は辿り着いたのだ、誰も疑問にさえ思わなかった世界の隠された奥底へ。その秘密が、私に理解できるかどうかは分からないが……少なくとも、誰よりも先んじて覗き見ることが出来ると。隠さずに言えば、それは酷く怖いのと同時に、とても興奮するのだった。
「あ……机を片づけなきゃ……」
狭いアパートの部屋だが、図面を広げられる大きな机は私の自慢だった。今では数学を忘れようとするかのように雑多なモノで埋められていたが、彼が来るのなら空けておく必要があるだろうと。降って湧いた大事に、雨の休日は一気に慌ただしくなっていった。
○●
——さて、結論から言おう。その日、彼は待てど暮らせどやって来なかった。
否。彼が来る機会は、二度と失われたのだ。
「 !? 彼が、事故で……? そ、そんな——なんで!」
夜、アパートを訪ねてきた警察の人に、思わず掴みかかってしまった。あの後、中々現れない彼に業を煮やして、何度も携帯に電話やメールを送った。運転中にせよ、大学や彼の家から30分もすれば着いてしまうはずだったのに、返事は無しの礫。最悪な場合として、嫌な予感はしていたが、まさか……
「……この雨で、路面は半ば凍結した上に濡れていました。にも拘わらず酷く速度を出していたようで……急なカーブを『曲がり切れなかった』と思われます」
だが運が良いと、警官は冷たく言った。それは単独の事故で誰も巻き込まず……『死んだ』のは彼だけだったから、と。私の所には来たのは、彼の携帯に残った最後の通話記録が在ったからと……私からの着信で鳴り続ける事に辟易したからだと。それだけ言うと、官給の野暮ったいレインコートを翻し、警官は去っていった。
「…………」
可笑しな話だ。あの時、私が感じていたのは『哀しみ』では無かった。言うなれば喪失感、期待したモノが失われた絶望。無情だと嗤うだろうか。だがそれを言う前に想像してみて欲しい。始めから与えらないなら、円周率の秘密
そんなもの
はどうでも良い事だ。しかし、それは目前に在って、私は彼の感じた歓喜を味わえるはずだった。ああ、酷い話だ……
「そうだ……彼の草稿
ドラフト
があるはず。それを見つければ……!」
本当に、可笑しな話だろう。欲に目が眩んだというのが、一番しっくりくる行動だった。まさか利権でも、知名欲でも無く……彼の影響を受けた『知識欲』は、未だに私には輝かしくて、必死に手を伸ばしたのだ。よって私が彼の死を悼むのは……否、悼む事が出来たのは、その熱が冷めた後の事になる。
○●
——或る男の話をしよう。彼はその最期まで『曲がる事が出来なかった』のだと、彼を良く知る人々は涙し、同時に懐かしそうに笑った。だが、彼はヒトの記憶に残るには、あまりにも一般的で。そうやって知人の誰もが彼の死を忘れ去る頃、私はこうして彼の話をしている。
「ええ、これでやっと……」
今、私は再び大学に籍を置いている。彼の研究を引き継ぎたいという私の突飛な願い出を、教授たちは怪訝そうにしながらも、二つ返事で受け入れてくれた。一切の期待は無く、代わりに干渉も無い環境は、これ以上ないほどに都合の良いモノだった。こうして、好きな時に紅茶を淹れて飲む事も出来る。勿論、レモンもミルクも無しで。
「……私も、辿り着いたんです」
彼の研究成果は、私の求めた草稿を含めて、ほぼ全てが彼と車と一緒に燃えてしまっていた。焼け残ったメモを警察から回収し、大学のデスクから資料を集め、パソコンのメモリーからはプロを雇ってまで遍く逃さず抽出したのだが。
「いえ、駄目でしたよ。断片的な記述だけでは、彼の至った結論には及ばない……」
だが、得る物は多かった。彼が辿っただろう足場の無い虚無の道を進む事に比べれば、その彼が残した足掛かりを使っていく事で……苦労は最低限に抑えられたと言える。彼の嫌った『曲解による解答の先取り』、論理飛躍を繰り返してでも。私も、かの理論に辿りついてしまった。だから、こうして彼の話をし始めたのはこの煩い雨と……もう一つ、この直線に満ちた彼の研究室に居るからなのだろう。
ああ、最近は『曲線』が目に入る事も煩わしくて。その点、この雨は良い。雪のように無軌道な線ではなく、無数の線が素直に落ちていく様は、きっと彼の琴線にも触れ得る光景なはずだと思った。
「はは、でも可笑しいでしょう? 私には彼のような『動機』は無かったのに。でもですね、きっと、ずっと前から魅せられていたんですよ……彼自身にね。哀しいかな、私たちはどちらも『人間』だった訳ですが」
——さて。では最後にお見せしようか。彼と私が証明した、『円環の終点』を。別に狂っていると思われても構わないし、事実狂っていても良いのだ。だって此処に辿り着いたなら、きっと皆、狂っている。そうでなければ、此処に来たりはしなかったさ。
(了)