複雑・ファジー小説
- Re: 言霊〜短編集〜(第Ⅱ部開始、題『天気予報』) ( No.69 )
- 日時: 2012/05/20 19:46
- 名前: Lithics ◆19eH5K.uE6 (ID: 0nUmcAK1)
『或る予報士の憂鬱』
——『天気予報なんて当てに成らない』と、誰かが言った。
「はは、ざまぁ見ろって感じかな……?」
突然に訪れた、ざぁっと線が見えるような夕立にも似た雨。その中を傘も差さずに慌てて駆けていく人々を横目に、僕は独り呟いた。彼らは鞄だったり背広だったり……とりあえず頭を濡らさないように物を掲げて、何処か雨宿りできる場所へと駆けこんでいく。うん、なんだかとても現代的な光景だと思った。彼らは濡れると途端に無力化する、某イースト菌系ヒーローのような習性を持っているのかも知れない。ま、仕方ない……そんな服や髪では、『人』を相手にする仕事は出来ないのだから。
「お出かけの際は、傘をお忘れなく……折角、そう『予報』したって言うのにね」
傘を打つ激しい雨音に掻き消されて、自分の頭の中でだけ響く声は。いつもとは違う声色のようで、なんだか新鮮だった。雨の日はやっぱり憂鬱だけど、こういう発見があるのは楽しいと思う。まあそれも、しっかり傘を持っていた余裕から生まれるものなのだろうけど。僕のように『天気』を相手にする……気象予報士という職業で得られるものは、一つにはこう言った用心深さがある。
——そう、気象予報士の休日に、傘は決して欠かせない。だってそれは『医者の不養生』とか、『紺屋の白袴』などと同じ誹りを受ける可能性があるから。予報した張本人が頭からずぶ濡れなんて、看板に水を掛けているのと同じだろう? その傘にだって拘りが……いや、まあ、それは置いておくとして。
「さてと……どうしよ」
さあ、久しぶりの休日に雨が降ってしまった。そりゃ、先週に自分で出した予報では、今日の都内での降水確率は50%。それはもう博打の類に近いのだから、半ば諦めてはいたけど。お気に入りの傘を携え、ぶらぶらと街まで歩いてきて……この結果である。これからどうするか、もともと見当を付けて来なかったのだから救いようもない。
(本屋で何か買って、喫茶店に入って読む……いやいや、それじゃ先月と同じだ)
人通りも疎らになった街を、ゆっくりと歩きながら考える。雨足は思いの他強くて、ジーンズの裾が重くなっていくのは少し不快だが。この梅雨も終わりの時期にしてはカラっと乾いた空気に、沁み入るような水気が心地よかった。どうせ何処か店に入ってしまえば、空調を通した均一な空気が商品の如く在るだけ。だから時にはもう少し、天気図にすると苛々する不安定な大気に、この身を任せるのも良いかと思い始めていた。
「…………」
それにしても降水確率50%! 我ながら酷い予報を出したものだな、と今更ながらに苦笑する。だが、言い訳を許して貰えるなら。こういう『確率予報』は、特定地域において一定時間内に雨が降る確率を予想したモノだ。つまり0%で無い限りは『降る』のであって、50%ともなれば『ほぼ降る』のである……少なくとも、用心深い僕達の感覚からすれば。それを、きっと皆誤解している。
——それでも、『天気予報なんて当てに成らない』と、皆が言った。
目の前を濡れながら走っていくサラリーマンが、呪いのように口走る。通りに店を構える個人商店は、渋い顔をして軒先の商品を引っ込める。ああ、だから降るよと言ったのに。そんな事はお構いなし、誰も彼もが口々に僕達を誹る……はは、雨の悪い所だ。何だか申し訳ない気持ちになるし、酷く憂鬱にもなる。
(はぁ……おっと、いやいや今日は休みだ。考えても仕方ないだろう?)
気分一新を期して、傘を持ったまま大きく伸びをする。雨で濡れた分、傘は重いけれど……流れ込んできた空気は、芳しい夏の薫りがして。艶々とした緑の木々、雨宿りする鳥たち、雨に煙る摩天楼の列……傘と僕の間から、色々なモノが見えた。ふと横を見やれば、シャッターの閉まった商店のひさしの下、鳥たちのように雨宿りする若い男女。
(……いいな、ああいうのも。もし、どちらかでも傘を持ってたら、無かった訳か)
それは古い映画のワンカットのような、とても瑞々しい光景だった。まあ正直、単純に羨ましいという気持ちが無い訳ではないが……その清々しさは、紛れも無く雨が運んできたもの。こうやって予報が無視される、というか信じて貰えないのも善し悪しだと思えるから。だからこそ、雨は憂鬱で、とても楽しい。そんなこんなでコロコロと変わる心情を愉しみながら、街の高台にある公園まで辿り着いた。
「お、貸し切りかな?」
この公園から街を見下ろした風景は、なんとも言えない絵心をくすぐられる。雨のカーテンで曖昧にぼやけた街は、それ自体が油絵のような重厚さを以て心に迫るのだ。これが晴れの日なら、写実的なのに現実感の薄いジオラマのような感覚を味わえるだろう。いつもなら休日には、子供たちがサッカーなどに興じる和やかな雰囲気なのだが。今日は雨のせいで誰も居なくて、なんだか寂しいとすら感じた。
「……ああ」
折角の景色だけど、見ていると感に迫ってしまうから目を閉じた。傘に雨、水溜りを叩く雨、アスファルトに砕ける雨……耳に入る全てが雨の何かで。こうしていると、雨が降っているのは外の世界なのか『僕の中』なのか、その境が分からなくなる。人間の頭の中で雨が降るなら……その降水確率を予測するのは難しいだろうな、なんて益体も無い事を考えて、自分で笑ってしまう。大丈夫、降っているのは確かに外の世界だ。僕の心には今、憂鬱を振り払う陽の光が差している最中だから。
「ん?」
そんな口に出せば恥ずかしい事を考えていたら、ふと雨音が小さくなった気がして。吸い込んだ空気は、さっきよりも濃い夏の薫り。濡れた草木の匂いを運ぶ、雨後のむせるような風が吹いて。その流れに乗った雨粒が、最後にバラバラと傘を鳴らした。ああ、そうか。もう、あがってしまうのか。
「はは、うん。まあ確かに……」
——目を開くと、世界は一変していた。
都会の埃を洗い流され、新たに輝く街。より色濃く、深くなった緑の木々。そして薄い雲を破って伸びる、いくつもの梯子のような光の帯。それらがスポットライトのように、新生の世界を照らし、空には大きな虹が掛かった。ああ、なんて綺麗だ。なんだか陳腐だけれど、それ以外に表現のしようがないのだから仕方がない。やはり晴れというのも良いモノだ。そうして今日一番に気持ち良く笑いながら、憂鬱のタネを洗い流すように呟いた。
「天気予報なんて、当てに成らないねぇ……」
さあ、帰って明日の天気を予報しよう。当てになんか成らなくても、人が空を眺める限り、少しは役に立つと信じる。そして願わくは。雨の予報日には是非、傘を持って出掛けて欲しい。その隙間から見る世界は、窓越しの眺めよりずっと美しいはずだから——その憂鬱も、きっと晴れてしまうだろうさ。
(了)