複雑・ファジー小説
- 『西行奇譚』 ( No.8 )
- 日時: 2012/02/20 20:19
- 名前: Lithics (ID: 0T6O.YfN)
- 参照: http://www.kakiko.info/bbs2/index.cgi?mode=view&no=6071
そして、不思議な夢を見る。いつの間にか本当に眠りに落ちていた俺は、誰かに身体を揺さぶられて目を覚ましたのだが。ああ、直ぐに分かったさ……目覚めた先だって、夢の中だという事は。そうでないと説明が付かないくらい、そこで見た光景は綺麗過ぎたから。
「——あ——あの! 起きて下さ〜い?」
「んん……?」
……肩を優しく揺り動かされ、耳朶に囁くような少女の声。一瞬、自分の置かれている状況を思い出せなくて。これが寝起きの理想や願望だとしたら、変な恋愛モノの読み過ぎかと頭を捻りながら、ゆっくりと重い瞼を押し上げた。が、その目はあっという間に最大まで見開かれる事に。
「あぁ、良かった……やっと起きてくれましたね!」
「え————は?」
ああもう、心臓に悪い。やっぱり仰向けで見上げる視界には、桜と月……そして桜色のワンピースを着た女の子。何がマズイって、はにかむように微笑む彼女は、それこそ現実感が無いくらい綺麗だって事。年下だろうか、まだあどけない風の顔立ちは、成長したなら傾城どころか傾国ものだろう。
——そう、馬鹿らしいけど。それが、未だ五分咲きの桜のようだと思ったりもした。
「あ、ごめんなさい。見下ろしたりして」
「あぁ、いや良いんだけど……君は?」
ひょいと軽やかに視界から消え、女の子が俺の傍に座り込む。なんだか錯乱したまま、俺も上体を起こして彼女に問いかけた。それは、至極まともな質問だったと思う。辺りはもうすっかり暗くなっていて、対岸の若者たちも既に居ないようだったし。正確な時間は分からないけど、女の子が独りでうろつく時間では無いだろうと。だが、返ってきた答えは少々的外れ。
「私? う〜ん……ふふ、分かりませんか?」
「え、いや……ごめん、前に会った事あったか?」
ちょっと期待が込められたような、悪戯っぽい瞳から目を逸らす。見た目にもさらさらとした黒髪を春風に靡かせ、顔を見せるように身を乗り出してくる様子は、やっぱり非現実的で。一つだけ確かなのは、絶対に昔会ったことなど無いという事。
「ふふ……いいえ、始めましてです。でも私は、貴方を知っていましたよ?」
「む、それはどういう……」
「ううん、気にしないで下さい。それより私、貴方に訊きたい事があるんです! その為に、頑張って起きてもらったんですから」
「……はぁ、何かな?」
大変だったんですよー、なんて笑う女の子。俺の疑問は上手く躱されたような気がするが……思えば結局、何者なのかも不明なのに。とりあえず『そういう子』特有の危なっかしい感じもしなかったから、訊きたい事とやらに付き合ってやろうか。どうせ夢のような曖昧な時間だ……彼女が何者かなんて、あまり関係が無いと思うことにしたのだ。
「ええ……貴方は『人を寄せ付けるのが、桜の欠点』って言いましたよね?」
「え……な、なんでそれを? 聞いてたのか?」
「はい、一番近くで聞いてました。あれ、どうしてそう思ったのかなぁって」
「それは……」
——夢だとしたら、奇妙な夢だ。自分の口にした言葉の意味を、自分で疑問に思っているなんて。では、夢でないとしたら……俺の一番近くだって?
「それは?」
「うん、そうだな……いや唯ね、一人で静かに桜を見てたらさ。向こうに人が来て騒ぐから、ちょっと嫌になっただけなんだけど」
不思議なほど素直に、言葉を紡ぐ。桜は大好きだが、もう少し……もう少しだけ人が寄らない花であったなら、という我儘じみた考え。でも、孤独というか静寂を愛する性質の人間としては、願わずにはいられない。そして、その願いを聞いた少女は、少しだけ驚いたような顔をして。その後、まるで花のように艶やかに笑った。
「ふふっ、貴方は桜が好きなんですね……」
「そう、だね。此処の桜は特に、子供の頃から知ってるから」
その笑みは、やっぱり綺麗だったけれど。不思議と眩しくなく、古い友人のような親しみ易さが在って……俺も自然に、彼女に向けて微笑む事が出来た。それは何故だろうと首をかしげていると、彼女はまたも悪戯っぽく目を細めて。
「あ、でもですよ? やっぱりちょっと変です、それ」
「うん?」
「あのですね、『私達』は……草木は唯々咲くモノ。その花に惹かれるのも、その群れ人を厭うのも……動くのは全て『人の心』です。ふふっ、桜の欠点ではありませんよ〜」
「あ……」
——直感だが。きっとこれが、彼女が俺を起こした理由なのだと思った。桜に咎など無い、それは実に道理だ。揺らぎ惑うのは『人の心』であって、俺の言った『桜の欠点』など在りはしない。そんなハッとするような理を説いた彼女は……確かに、草木の事を『私達』と言った。
「うん、確かにその通りだ……ごめん」
「あら、謝る事なんて無いですよ。貴方は桜を愛してくれているんでしょう?」
「…………君の名前を訊いても、いいかな」
まあ、分かってはいたけど。彼女は出会ってから、ずっと優しく微笑んでいて……名を訊いても、やはり花のような笑みを向けてくれた。いや、少しばかり含みのある、『あら、やっと気付きました?』なんて顔でもあったけれど。
「ふふ、私の名前ですか? そうですね……では、『サクラ』と」
「サクラ、か。うん、君に似合ってて……良い名前だね」
「はい! とても気に入ってるんですよ、響きが綺麗ですから」
——見上げた桜の枝が、さわさわと揺れる。相変らず玲瓏に輝く半月は、夕方から少しも場所を変えていない。それで、これが確かに『夢』なのだと悟った。月が動かせない辺り、割と雑な夢だ……どうせなら、目覚めるまでは悟らせないで欲しかったのだが。
「私も、桜の花が大好きなんです。早咲きの糸桜、川面の柳桜、絢爛たるソメイヨシノに、春重ねの八重桜。都に咲き誇る千本桜も、浮世離れた山桜も……その、まるで雪を散らしたような白の花が」
彼女が立ち上がって、舞うように歩く。月灯りの下、彼女は楽しそうに……心から『桜』を讃える言葉を紡いで。その様子は酷く艶やかで、濃厚な春の香りを纏っているかのようだった。その香りに酔ったのか、抵抗しがたい眠りの誘い。閉じられた瞼裏に、未だ彼女の笑みが焼き付いているような幻視をした。
「それに、花巻の川面。嵐山の花吹風、戸無瀬に落ちる滝桜。貴方は見た事がありますか?それはもう、どれも綺麗で——あら、後夜の鐘が……」
「…………」
夢の夜に響く鐘の音が、夜明けが近いことを示す。もはや言葉も無い俺には、その可憐な声をもっと聴いていたいという溢れる程の想い。もう分かっているのだ。『彼女』の姿ならまた見れる……それが、何処となく哀愁のある全盛の姿であっても。だが、この透る声を聴けるのは今宵限りだろうから。
「あぁ……もう時間なんですね。残念です、『サクラ』を好きだと言ってくれる人と話すのは、こんなに楽しいのに。でも、夜は待ってくれませんものね」
——実を言えば、俺の『眠り』は既に醒めているのだろう。囁くような少女の声は、現実感を失って脳裏に落ちていく。春宵一刻価千金。花に清香、月に影。どんなにこの艶やかな時間を惜しんだ所で……夢は覚めてこそ、きっと美しく在るのだろう。ほら、もう見えないけれど、彼女はきっと笑っている。
「さようなら、さようなら! また、会いに来て下さいね!」
———
——
—
——そして、夢は……夢は、覚めた。
「…………」
朝露の重みで、少しだけ地面に散った花弁を踏んで。彼女と同じように、少し未練がちにこの別れを惜しんでみたけれど……其処には唯、五分咲きの老桜が悠々と在るだけ。
「はは……当たり前、だけど」
あの少女の姿は、何処にも無いのだった。
(了)
——世阿弥 作、能『西行桜』に寄せる——Lithics