複雑・ファジー小説

Re: 桔梗ちゃんの不思議な日常。【参照1200突破!!】 ( No.139 )
日時: 2013/05/09 18:31
名前: 藍永智子 ◆uv1Jg5Qw7Q (ID: 4/yJe86Q)

「——後ろの正面誰だ? ほれ後ろじゃ、私は後ろにおるぞ」
 あまりに落ち着き払ったその声は、紛れもなく夜伽のものだった。

「いつの間にッ——!」

 額に冷や汗を浮かべる小心妖怪は、羽織に空気を含ませて大きく膨らませながら、慌ててその場から飛びずさった。
 その慌てる様を眺める夜伽は、満足げに尻尾を左右に振った。
「こんな老いぼれが相手なんだ。もっともっと「若さ」を見せつけてみんか、ほれ」
 そう言う夜伽のひげは、ネコ科の動物が何か興味をそそられる物を見つけた時と同じく、弧を描くようにぴいんと伸ばされている。
 身体を覆っている体毛は、僅かに逆立っているようにも見える。

 桔梗は、遠慮がちに有理に声をかけた。
「有理さん、あの」
「はい? どうかされましたか?」
 あらかじめ用意でもされているかのような機械的な返事の返し方に多少うんざりしながらも、桔梗は続けた。
「猫又って、もともとは普通の飼い猫とかの猫だったんですよね。特に妖怪とかとは全然関係ないような」
「そうですね。本当に気が遠くなるくらい大昔の話ですけれど、確かに夜伽も猫だった時代はありましたよ。私と出会ったのは、もっと後の話でしたが」
「それでなんですけど」
 一旦言葉を切った桔梗は、その後さんざん躊躇った末に、ようやく決心を付けられたのか、俯いていた顔を上げた。

「猫又は攻撃系の妖怪ではなかったと思うんです。だけど、相手は分かりやすいぐらいの攻撃系の妖怪じゃないですか? だから」

「——夜伽がやられてしまうと思う、ですか?」

 そう言う有理の表情は、今まで一度も見せなかったぐらい冷たいもので、そこからは何の感情も感じ取ることが出来なかった。

 『無』。

 漢字にして一文字。平仮名でも、たったの一文字。
 そんなにも小さなモノを前にして、桔梗は何かに射られたように、竦んでしまい動けなくなっている。

「……私が学んだ知識によれば、こう思う方が自然です」

 何とか声を絞り出すが、これ以上何を言われようと反論するような余裕は無い。

「夜伽がこの世に生を受けたのは何年前だと思いますか、桔梗さん。さっきまでムカつくぐらい鼻高々だったアイツでさえ——」

 そう言って、有理は小心妖怪に視線をやった。

「動きに追いつけなくって苦戦しているんですよ。見て下さい、あの屈辱に歪んだ表情。さっきまでの余裕ぶった表情なんて、今は見る影もありません」
「でも、それは動く速さです! もし追いつかれでもしたら、何か策はあるんですか!?」
「桔梗さん」
 有理は言い聞かせるように、桔梗の肩に優しく手を置いた。

「追いつかれることなんて、まず有り得ません。それに、それだけ苦しい状況になるのだとしたらもっと先の事です。その頃には、先程連絡を入れておいたので、誰かしらは到着する筈ですよ」

 でも、と反発しようとした言葉は、仮面の隙間から彼女の青い瞳に真っ直ぐ見つめられた瞬間、消え去った。