複雑・ファジー小説

Re: 桔梗ちゃんの不思議な日常。 ( No.79 )
日時: 2013/01/01 22:06
名前: 藍永智子 (ID: gHpB4F6k)

 しばしの沈黙——最初に口を開いたのは、今までほとんど喋っていなかったためかほとんど存在感がなくなっていた、雫だった。
 少年の方を見て、困ったように笑う。

「随分遅かったね——三郎サブロウ

「いやー、それは雫に頼まれていた仕事をやっつけてきたからなんだけど……?」

 こちらも困ったように笑う。その様子からは、先程の緊迫感は微塵も感じられなかった。
 服の袖から出ている骨のように細い指からも伺えるように、彼はがりがりに痩せていて、今着ているグレーのパーカーが随分と大きく見えた。
 その時の空気があまりにもこの場にそぐわなかったためか、他の人々は唖然を通り超して呆然としてしまい——結果として、彼等のほのぼのとした会話はしばらく続けられることになったのである。

 三郎に聞かれても、雫は全く困った様子を見せず……まあ、それは堂々としたものだった。

「それは今日中にやっちゃおう、って決めていたから。もともとは自分でやる予定だったのよ? だけど、会議が入っちゃったんだもん!!」

「何が『入っちゃったんだもん!!』だ! ……かわいこぶっても全然似合わないぞ、お前」

「何であんたにそんなこと言われなきゃならないの? それに、今回は案内役としてですから」

 雫がぴしゃり、と言い返す。そう言われた三郎も負けじと反論しようとする。
 こんなこといったと知られれば、彼らは即座に噛みついてくると思うのだが——まったく、どこまでも似た者同士である。

 そもそも、二人はなぜこんなに打ち解けているのであろうか。

「打ち解けてなんかいないわよ!!」
「打ち解けてなんかいねえよ!!」

 ……失礼致しました。それでは、仕切りなおさせていただきます。

 二人は、なぜこんなに親しげなのであろうか。


 雫には、本人も自覚している通りだが、「感情」というものがほとんどない。それは、過去に起こった、ある出来事が影響しているからなのだが——これについては、また後を追って説明する。
 「楽しい」、「嬉しい」、「憎らしい」などと、心の底からは思ったことも感じた事もないし、これからも、彼女がそれを感じる時は訪れない。
 だが、彼女の顔には常に笑顔が浮かんでいる。
 「感情がない」というからには、それは矛盾しているのではないか。——確かにそうだ。何にも感じていなければ、笑顔は生まれない筈である。

 答えは、簡単——とはいかない。少し面倒くさい説明になってしまう。


 ——彼女は「ほとんど」感情がないのだが、少しだけなら残っているから、である。
 

 そもそも、ここでいう「感情がない」ということは、「感情を上手く表せない」ということなのであり、そのまま、読んで字のごとく……という訳ではない。心の奥では、確かに感じているのだが、それをどうやって表せばいいのかが分からず、結果として、それが表面に現れない——そういうことだ。
 回りくどい言い方になってしまったが、彼女にも感情はある。
 素直に「嬉しい」と感じられる彼女がいるのだが、それを認めたくない自分もいて——最終的にこのようになってしまったのだ。


 雫の中には、感情のある自分と、感情のない自分がいて、目の前にいる人物によってそのうちのどちらかが交代で出てくるようになった。
 初めて会った時に出てきた「自分」は、次に会うときも自然と出てくるようになり——話し相手によって、感情がどれくらい現れるかが違ったのだ。
 
 雫が三郎に初めて会ったのは、不幸にも両親が事故で亡くなってしまい、遠縁の親戚の家をたらい回しにされていたときだった。
 嫌々引き取ってくれた家では、毎日のように、面と向かって嫌味を言われていたため、その頃の雫の精神はぼろぼろで、「一緒に行こう」と手を差し伸べてくれた三郎は、まるで神様のように見えたし、凄く感謝した。





 つまり、三郎の前では、「感情がある」雫が出てくるようになったのだ。