複雑・ファジー小説
- Re: 『禍つ唄』−連作小品集ー ( No.1 )
- 日時: 2012/04/13 19:10
- 名前: Lithics ◆19eH5K.uE6 (ID: vjv6vqMW)
- 参照: http://www.kakiko.cc/novel/novel6/index.cgi?mode
01 <かごめ、かごめ>
「ねぇ『先生』。後ろに誰かいるような気がするんです。いつも、いつでも」
安心しなさい、貴方の後ろには誰も居ない。
「ああ、唄が聞こえます。懐かしくて……とても怖いんです」
それも聴こえない、幻です。振り返ってみなさい、きっと安心できる。
「はは、駄目ですよ。それをやったら『負けてしまう』……後ろを向いてはいけないルールなんですから。一度振り返ったら、それはもう酷かった」
…………
「さあ、唄いましょうか、最初は『先生』が鬼になってください……なに、二人でやるなら答えは簡単でしょう? ほら——
かァごめ、かごめ
籠の中の鳥は いついつ出やァる
夜明けの晩に 鶴と亀がすゥべった
後ろの正面 だあれ?」
———
——
—
——『後ろが怖い』と、その少女は言った。
「先生。私、誰かが後ろに居る気がするの……いつも、いつでも」
「大丈夫、君の後ろには誰も居ないよ。先生を信じなさい、ね?」
蚊の鳴くような声で、彼女は訴える。後ろが怖い、とても怖いの、と。僕は当時、駆け出しの心理カウンセラーとして彼女に向き合い……その恐怖を取り除く事に努めている時期だった。
「うん……でもね、先生。私には『見えない』のよ?」
——<背後恐怖症>。それは珍しい訳でもないが、そう多発する訳でもない心理障害の一つ。自分には見えない背後に他人が位置する事を忌避するタイプと、そもそも見えない『何か』が背後にいるような感覚を覚えるタイプに分かれる。動物的・先天的な背後への恐怖から派生する症状だとされ、過去のトラウマやPTSDにも関わっている場合が多い。治療には、その不安材料を取り除く事……危険が無い事を教え、『何か』は存在しない事を証明し続ける対症療法が用いられる。
「ねぇ先生、ホントに何も見えていないの……? 確かに、感じるのに」
しかし——彼女の場合。それが非常に困難であると、カウンセリングを初めて直ぐに悟ってしまった。後天的な視力の急激な低下……若干12歳の子供にとって残酷すぎる病は、世界の瑞々しさを知り、闇の恐怖を知った後で彼女から光を奪ったのだ。僕と出会った時点で、彼女の眼はもはや用を為しておらず、常に瞑想するように瞼を閉じているのが印象的だった。だが、敢えて不謹慎を覚悟で言えば……その姿は例えば古けき仏像のようで。思わず見惚れるほど透明で、高尚とも言える美しさを持っていた。
「ああ、本当だよ。此処にいる間は、僕が君の眼になろう……確かに、後ろには誰も居ないさ」
厄介な事に、自分の眼に頼ることが出来ない以上、その恐怖は容易には解決されないだろう。自分に置き換えて想像しても、その恒常の闇たるやゾッとしない……彼女の恐れも無理からぬことだと言えた。だとすれば、それを取り除くには僕の言葉をどれだけ信用にたるものとするか、それに掛かっているのだった。僕は決して彼女を直接否定せず、出来るだけ柔らかく安心させるような声色を努めて出した。
「そう……うん、先生が居るなら安心! きっと、いつもみたいな私の勘違いね」
「ふふ、そうだね……さあ、今日はどんな話をしようか? 君の学校の話を聴かせてくれるかい? それとも僕がアマゾン川で溺れた話をしようか」
「あは、な〜にそれ! 先生、アマゾン川なんて行ったことあるの?」
「そうさ、大学の卒業旅行でね……なにか他人と違うことがしたかったんだね、多分」
「あはは、変な先生。ねぇ、どんな所だった? 私も行ってみたいな……」
柔らかな笑顔を見せる少女に、僕は満足感を噛み締めながら面白可笑しく語る。光を失うと共に閉ざし気味になった彼女の心を、少しづつ前向きに出来ている実感はあった。こうやって少しずつでも信頼関係を築いていければ、恐怖症の方も緩和できる見込みがあるだろう……そう、思っていた。
——ああ、そう思っていた。この数日後、再び彼女が訪れるその日までは。
- Re: 『禍つ唄』−連作小品集ー ( No.2 )
- 日時: 2012/04/20 22:57
- 名前: Lithics ◆19eH5K.uE6 (ID: xVgmFESq)
- 参照: http://www.kakiko.cc/novel/novel6/index.cgi?mode
「あのね先生……私ね、『唄』が聴こえるの」
やはり蚊の鳴くような声で、彼女は呟いた。何かに酷く怯え、見えもしない後ろや横をきょろきょろと落ち着かない様子で窺う……そこには、徐々に取り戻しつつあった快活さは影を潜めてしまっていた。陽の半ば沈みかけて、部屋が紅く染まった夕べ。もう少女が一人で出掛けられる時間ではないはずなのに、此処に来たという事は。
「ねぇ、ホントだよ !? 先生は信じてくれるよね!?」
「あ、ああ……勿論信じるさ。どんな唄が聴こえるんだい?」
——悪化していると、一目で分かった。各種の恐怖症に幻覚や幻聴が伴う事は稀ではないが、いずれにせよ重度の段階であるには違いない。彼女の場合、視覚以外の感覚は鋭く研ぎ澄まされているのだから、余計敏感に反応してしまったのかも知れない。そして……そこまで悪化した症状は、彼女の周囲の人々には理解しがたいはずだ。だからこそ、その縋るような目に酷い孤独を感じて、とても突き放すことは出来なかった。
「それが分からないの……後ろでぶつぶつと何か唄ってて、私の知らない童謡みたいだった」
「え……『知らない唄』だって?」
それは、何か奇妙だ。外的な要因が無いのだから、それは彼女の内面から生み出されなくてはならない。『知らないモノ』を頭の中に流せる道理はないのだが……まあ、無意識に記憶した旧い童謡の類なのだろうと、そう判断するしかない。
——かごめ、かごめ。籠の中の鳥は、いついつ出やる——
「うん……凄く怖いの。だんだん大きくなってくるみたいで……きっと近付いてくるのよ」
「…………」
「先生……? やっぱり信じてないの?」
違う。彼女の耳元で呟かれる童謡の調べ、それを想像して寒気がしたのだ。懐かしくて物悲しい、耳慣れてはいるが不気味な歌詞。どうして、それを思い浮かべてしまったのか知らないが。急に、僕にはその恐怖を取り除けないのではないかと弱気な考えが頭をもたげた。だが、それでも……
「いや大丈夫、信じているよ。でも、やっぱり君の後ろには誰も居ない……ほら、先生を信じて安心しなさい」
「う、うん……先生がそう言うなら……」
僕が、諦める訳にはいかなかった。どうみても症状は深刻になりつつあり、このままでは彼女の精神にダメージが募るばかりだ。直ぐにどうこうする事は出来ないが、せめて心の休まる時間を提供するのが僕の仕事だろう。そう新たに意を決した僕は、向き合った彼女の手を取って椅子を勧めた。そんな焦ったような挙動に何かを感じたか、彼女は怪訝な表情をして。
「先生? どうしたの?」
「いいかい、これから僕が『君の後ろ』に立つから、いつものようにお話をしよう。何も怖くない……後ろに気配を感じたら、それは僕の気配だからね」
「……うん、分かった。先生が守ってくれるよね?」
「あはは、そうさ。だから安心だよ」
そして出来るだけゆっくりと、彼女の背中側に回って立つ。背後恐怖症の患者に対して、わざわざ背後に回るのは褒められた手段ではないだろう。しかし、それくらいの荒療治を施す必要があると、その時は考えたのだ。酷く怯えてしまった彼女に、もう一度笑顔を取り戻して欲しかったから。とりあえず、今直ぐにでも。
——そう、言ってしまえば。安心が欲しかったのは、僕の方だったのかも知れない。
「それじゃ、そうだな……今日は僕の子供の頃の話をしよう。君はこの街で生まれたんだよね? でも僕は、もっともっと田舎の方の出身なんだ……」
僕は熱に浮かされたように、面白可笑しく声を張る。なに、話術ならば人並み以上に自信はある。彼女の方も様子の違う僕に戸惑いながらも、徐々に普段通りの笑い声を聴かせてくれるようになった。会話は、途切れず。彼女が『唄』を聴かなくても済むように、窓の外に潜むその静寂を埋め続けた。
——夜明けの…… 鶴と……が……った——
「ッ……! ああ、ごめん。それでね、その時は必死でお廻りさんから逃げて……」
——否。そうしなければ、僕が耐えられなかった。聴こえるのだ、僅かな間隙に滑り込む、『有り得ない』旋律が。誘うように明るく、夕暮れを想起させる童子たちの不揃いな合唱。もはや耳元で囁かれる、原義に近い旧い歌詞。怖いのは、魅せられるから。明らかに『一人分』ではない後ろの存在感に、振り向いてしまいそうになる為。ああ、今更に思えば……彼女と同じ向きを向いたことは無かったっけ。
(……こんなのは、ウソだ。後ろには誰も居ない。何も聴こえない、そうだろう?)
「あ……先生、私、もう帰らなくちゃ」
「うん? ああ、そうだね……随分と話しこんでしまったね、今日は送っていくよ」
少女の声に、ハッと意識を戻した。ほとんど無意識に話しを続けていたらしいが、彼女の表情は柔らかく、来た時の不安感は無くなっていた。対して、僕はどんな表情をしていたか分からないが……彼女が不審に思わなかったという事は、平静を保てたのだろう。だが向き合う位置関係に戻っても、僕の『後ろ』には張り付くような存在感が残っていた。
「ううん、大丈夫。先生に迷惑かけるとお母さんに怒られるし……それにね、なんだか『後ろの気配』が無くなってるの。今だけかも知れないけど……先生の御蔭だね!」
彼女はそう言って盲しいた目を開き、今までで一番の笑顔を見せた。歳相応の踊るような足取りでドアまで歩いて行き、笑顔のまま、くるりと僕の方を振り向いて。ああ、それは彼女が忌避していた行為。急に振り向くのは、いくら『見えない』とは言え怖いのだと、彼女自身が言っていたはずだった。初めて見る彼女の開らかれた目は、案外に普通に過ぎ……それが閉じられていたからこそ、神秘的だったのだと思い知らされた。
「今日はありがとう、先生。またね」
「あ……」
解き放たれたような彼女と、重荷を背負ったような僕。情けない事に一人に成りたくなくて、手を伸ばして呼びとめようしたが。その前に、少女は軽やかに去っていってしまった。気付けば陽は完全に落ち。白く殺風景なカウンセリングルームは、蛍光灯の光でさらに病的な青白さに染まっていた。ああ、これが、彼女の背負っていた孤独か。いや、『孤独』が無いと言えばいいのか。
「なにを馬鹿な。僕は目が見えるんだから、確かめてみれば良い話だ」
そう、それで解決。僅かな心の隙……怪談の如き病理に、ほんの少し影響を受けただけ。鬱病患者の相手をして鬱になる駆け出しの心理カウンセラーの話など、良く聞くのだし。こんなもの、根拠が無いと分かれば……! 脆弱な心臓が痛いくらいに脈打つ感覚に、臆病たる自嘲を以て平静を装った後。
——意を決して振り返る、その直前。囃し立てるように残酷な、名も知らぬ童子たちの声が聴こえた。
『後ろの正面、だあれ?』
(了)