複雑・ファジー小説

Re: 『禍つ唄』−連作小品集ー ( No.15 )
日時: 2012/04/26 20:00
名前: Lithics ◆19eH5K.uE6 (ID: HQL6T6.Y)
参照: http://www.kakiko.cc/novel/novel6/index.cgi?mode

『Straight』

 ——では、或る男の話をしよう。彼は、『曲がった事』の嫌いな男だった。


 勿論、この評は大雑把すぎて、彼の全てを表すものではない。そもそも彼とは大学時代の学友という程度の親交だった訳だから、そこまで多くを知る訳では無いのだが。長く降り続く春先の雨で、窓からのお気に入りの景色が煙るのを見ながら、ふと彼の事を思い出したのだ。貴方のような客に話す事ではないかも知れないが、気まぐれに付き合って欲しい。

「僕はね、とにかく『真っ直ぐ』が好きなんだ」

そう言って微笑む彼は、その言に違わぬ『真っ直ぐ』な人物だったとは思う。ああいや、誤解してはいけない。特筆するほど真面目一徹な訳では無かったし、『正義』なんて抽象的な概念は、彼の最も苦手とする所だったはずだ。青年らしい闊達さも、反面おおらかで柔和な性質も、私を含めた学友たちから普通に好かれる……極々一般的な人物だった。

——だが、言ってしまえば。そんな彼が持つ、実に一般的でない『或る嗜好』が、彼を私の記憶に強く残していたのだろう。

彼が愛したのは、ただ単純に物理的な『真っ直ぐさ』。例を上げるならば、真っ直ぐに伸びる<道路の白線>は好きだが、曲線だけで構成される<蚊取り線香>の類は彼の好く所では無かった。幾多の円(歯車)の組み合わせである<懐中時計>は、いかに精緻で美しいデザインであろうと眼中になく。彼が常に好んで身につけていた腕時計は、あまり似合っていないと評判の若々しいデザイン、つまり線的な<デジタル時計>だった。止めに、飲み物を入れるなら紙パックが良くて、ペットボトルは嫌だと言った。そう、大抵の場合、ペットボトルのフォルムが曲線だから。

「嫌って……どうして?」

 出会って間もない頃、直球にそう尋ねた事がある。すると彼は、手にしたペットボトルの曲線を指でなぞりながら、やはり柔和に笑って応えた。その笑みだけは、ちっとも嫌そうには見えなかったのだが。

「だって、なんか曖昧じゃないか。この曲線って奴はさ、どこまで行っても『定義』が無い。『二点を繋ぐ最短距離』っていうハッキリした定義がある直線の方が、ずっと美しいと思うんだ」

「まぁ……確かにハッキリとしてるのは分かるけど」

 そんな納得いくような、いかないような顔をする私に。

「まあでも、そんな事言ってたら生きていけないよね。随分前に、『嫌う』のは諦めたよ……だから、僕の嗜好を表すなら。やっぱり、『真っ直ぐ』が好きなんだ」

 そう言って、少し残っていたペットボトルの中身を飲み干したのだった。確かそれは、有名な飲料メイカーの紅茶。ミルクもレモンも入っていない……普通の紅茶だったと思う。

○●

 ——さて。どうして、こんな気分になったのかは失念したが。今は、彼の話を続けよう。

 あれは彼と初めて会った時期。出自は全く違っていた私と彼だったが、同じ大学の理学部・数学科に進学し、そこで出会ったのだった。私は漠然とした『数学』という学問、定量化された数字の世界に興味がある程度で、大した熱意がある訳では無かったが。そこはそれ、彼は入学当時から皆と違っていた。担当になった話し好きで老齢の教授に、数学を志した理由を尋ねられると。戸惑う私たち新入生を尻目に、彼は目を輝かせて応えた。

「僕は、微分・積分の研究がしたいんです。捉えようのない『曲線』を、定量に変換する……そんな『魔法』のような方法を」

 本人曰く、昔は『円周率π』の謎に執心した事も在ったとか。特筆すべき秀才でありながら天才では無かった彼は、それでも300桁を越えるまでの円周率を諳んじるまで努力したという。そして、その数列が決して終息をみない理由を探ったのだ。『円』という究極の曲線、『身喰らう蛇(ウロボロス)の円環』の謎を。

「まあ結局。高校生じゃ、そんなの無理だった訳だけどね。ははっ」

 珂々と笑ってはいたが、そんなの当然である。円周率が何処かで終わる、なんて一般常識では考えもしない。それは『そういうモノ』として受け入れられた真理なのだから。だけど彼は、その『当然』が許せなかったのだと言う。

「曲線や円を細分解……つまり微分すると、『限りなく0に近い距離を持つ直線の集合』になるはずだろう? 円周率はその終着点であるべきなんだから、終わりが無いなんて信じられないよ」

 大仰に嘆くような仕草で、彼はいつも言っていた。どうして、そんな『曖昧さ』を放っておけるのかと。数学という学問には、『答え』が無ければ嘘ではないのか、と。勿論、良識ある出来た人物であったから、当時の教授陣に面と向かって啖呵を切るような真似はしなかったし……実は彼自身、気付いていなかったのではないかと思う。その疑問の在り方、誰もが折り合いをつけてしまう深淵なる真円の謎に臨む姿勢こそが、非常に特殊であるのだと。


 ——少しばかり、解説が必要かと思われる。解説と言っても、彼が取り組んだ『円』という問題について、私なりに解釈した結果を記す訳だが。興味が無ければ聞き流して欲しい。

 言わずもがな、『完全な円』は物理・概念上の両方で観測され得ない。それは円周率が終わりの無い値であるからであり、その理由は円のルーツを探ると理解しやすくなる。例えば、円の中に正三角形を配置する。すると3つの角は、全て円周上に接するのが分かるだろう……これは、正n角形(n>1、整数限定)ならば無限に当て嵌まる条件だ。勿論、正十一角形のような製図出来ないモノもあるが。そして、このnが無限に近付くと、それは限りなく『円』に近付いていくのである。

 この時点で気付かれた方もいるだろう。無限に増えていくnに制限はなく、曲線はより滑らかになっていく。だがそれは、どんなに滑らかに見えたとて『直線』の集合に違いないはず。ならば、数学者が得意げに語る『円』とはその実、何であるか? その『円』を途中に切り離して、任意に角度を変えたモノが曲線であるなら、その正体は何か? それが、彼の疑問だった。円、曲線として命題に出された以上、それは確かに存在しなくてはいけない。だが、その正体は直線の集合であると証明されていて、概念的には『無いモノ』になりはしないか。『円』は直線であり、同時にやはり『円』でなくてはいけない。そのどうしようもない矛盾に、彼は頭を悩ましていたのである。

「そうそう、ブラウン管とかと同じだよね。アレは無数に並んだ三色の光点を組み合わせて像を為す。でも、その正体であるバラバラな色とは別に、僕達は映った像の形を共通して認識できる……や、便利便利」

 そんな皮肉なんだか本音だが分からないことを言って、彼はやはり笑っていた。その眼は、一度は若輩故に諦めた命題……『幻影』のようなものを、これから一生を懸けて相手にする喜びに輝いて。それでいて、そんな事は別になんでも無いと言いたげな軽口を叩いていた。

「あ、今この人オカシイとか思った? でもね、言わせてもらえば。『此処では皆、狂ってる』、ってね。そう思うよ、僕は」

「ん、ドジスンのアリス? 『そうでなければ、此処に来たりはしなかったさ』って」

「ははっ、そうそう! 此処はまさに『不思議の国』だろう? 僕たちは戸惑うアリスか、誘うチェシャ猫か、どっちだろうって考えると哀しくなるけど。あ、ところでドジスンは数学者でもあるって知ってた?」

 生来冷めた性格の私の目に、そんな彼の熱意は眩しく映った。だが不快だったり妬ましかったりしたかと言えば、決してそんな事はなくて。私たち2人を含めて数学科の同期は5人居たが、おそらく皆して彼の影響を受けたのだろう。気付いた時には、顔を合わせれば即ち興味のある数学の話題を話し合うという……実に健全か、実に崖っぷちか紙一重、素敵なキャンパスライフが始まっていた。

Re: 『禍つ唄』−連作小品集ー ( No.16 )
日時: 2012/04/26 20:01
名前: Lithics ◆19eH5K.uE6 (ID: HQL6T6.Y)
参照: http://www.kakiko.cc/novel/novel6/index.cgi?mode

 ——さて、話を続けるのだが。実は大学時代の彼については、さして特筆すべき出来事が無かったりする。繰り返すようだが、彼はちょっと変わった嗜好を持つ一般人に過ぎない。確かに2人して数学に明け暮れた記憶もあるが、決してそれだけでは無かったし……普通の大学生を想像してくれれば、それで事足りてしまうのだ。それは例えば、恋愛方面においても、然り。

「ああそうだ。もしかして君らってさ……『数学が恋人だ !』、とか言っちゃう人かな?」

「は……? い、いやいや、そんな訳ないでしょう……!」

 この発言は、私たちの同期の女の子のモノである。対象は私たち2人……ああ、言い忘れていたが、『私』は女性である。およそ全方面において健全な女子大学生であるからして、この発言には即刻異議を申し立てた。どう見えたか知らないが、そこまで枯れちゃいない。そのあとは、記憶するに値しない喧々とした騒ぎがあっただけだが。ほら君も何か言ってやれと、いつものように柔和に微笑む彼に話を振ると……

「うん? ああいや、数学は恋人じゃなくて、好敵手みたいなモノじゃないかな。だってほら、殺ったり殺られたり、泡を食っちゃ泡を吹かす間柄だし。恋人はねぇ……恋人かあ——」

 遠い目をしながら、そう事も無げに言ってのける彼に、随分と殺伐とした学問もあったものだと皆して苦笑した。数学者という人種には、その深い魅力に取り憑かれて(誤字に非ず)、『解き明かせない』とさえ信じる、宗教にも似た熱心な信奉者も多い。彼も一見してそういう人種に見えて、そのスタンスは斬り合いのような気合いの入ったモノだったようだ。彼にとって、数学と人間は同格の存在であり……命題証明の喜びは、長年のライバルを下した喜びに似ていたのだ。

 そして、この話題を締めくくるように。彼自身、僅かに苦笑しつつ言った。

「…………まぁ、今の所、恋人は募集中だって事で」

 ああ、でも。『恋人かぁ』の後に続く、誰も聞いていないだろう呟くような言葉の方が、私には苦笑モノだったのだが。曰く、『人間って、丸いからなぁ』だそうで。ああいや、誤解してはいけない。彼の女性の好みはハッキリとしていたようだし、興味は人並みに有るようだったが。はてさて、この男が付き合う女性とは一体如何なる人物だろうかと、同期の間では専らの話題になっていた。私は、きっと『とにかく細い人』だろうと言い張っていた覚えがあるが、もう失念してしまった。


 ——そうやって、騒がしく日々は過ぎ。やがて学びの窓にも夕暮れが迫った。同期の中では、私と彼だけが大学院の修士課程に進んだが、それも2年間だけ。その間に彼と私がより親密になるという展開も無く、彼の直線好きも相変らずのままだった。卒業後、私は大学近郊の企業に就職する運びとなり……彼はそのまま博士課程へ進学する事となっていた。

「ああ、君は大学
うち
から出るの? それは残念だな……僕なんかより、ずっと優秀なのに」

 卒業の挨拶なんて、こんなアッサリしたものだった。まあ、学部の卒業を終えた後も、同期の5人で飲む機会は多かったのだし。殊更に惜しむほどの別れでは無かったとも言える。そもそも同じ街に住んでいる以上、それは別れと呼べるものだったかすら怪しい。

「ま、いつでも遊びに来てよ。こんな僕の話を真面目に聴いてくれる人って、貴重なんだ」

 図形を描く為の鉄定規を指先でクルクルと廻しながら。そう言って微笑む彼の目は、出会った頃と変わらぬ熱意に満ちていたが。確かに、先に述べた彼の疑問・研究理論は、決して周りに受け入れられてはいなかった。仲の良い同期の皆でさえ、その話題は笑って流してしまう……こうやって真面目に覚えているのは、私だけだったのも事実だろう。

「分かった。それじゃあね」

「うん、それじゃ」

 そう、正直に言えば。彼の疑問は、いつの間にか私をも取り込んでいて……心の何処かで、いつか彼が謎を解き明かす事を期待していた。それが直線の勝利に終わるのか、曲線の更なる謎を浮き上がらせるのかは分からないが。その深みに嵌るのを怖がるように、私は研究室を足早に後にする。私には多分、その深淵に臨む勇気というべきものが、彼より劣っていたから。

「…………」

 魔窟のように閉ざされた研究室から、私を見送る彼の視線を感じた。彼の研究者としての顔は、これが見納めになるとも知らず……ただ、真っ直ぐに『不思議の国』の廊下を歩く。そして、最低限お金が『数えられれば』生きていける健全なる無知を誇る、外の世界へ出ていったのだ。

○●

Re: 『禍つ唄』−連作小品集ー ( No.17 )
日時: 2012/04/26 20:02
名前: Lithics ◆19eH5K.uE6 (ID: HQL6T6.Y)
参照: http://www.kakiko.cc/novel/novel6/index.cgi?mode

 ——そして、ああ、やっと思い出した。ここまで順番に話してきて、やっと。

そう、私がどうして彼の事を話そうと思ったのか、その理由を。それは丁度3年前、今日のような酷い雨の降る春先。彼は突然に、焦ったような声で私の携帯へ電話を掛けてきた。ざーざーと窓に叩き付けるような雨音……それが、あの日を思い出させたのだろう。

「あ、もしもし !? 僕だよ、今、大丈夫だよね?」

「う、うん……大丈夫だけど……どうしたの、珍しいね?」

事実、彼は滅多に電話をせず、用件があればメールで済ませていた。どうも彼の家庭事情は人並みに複雑らしく、彼も苦学生と言えるくらいの清貧に甘んじていたから、通話料の嵩む携帯での電話は控えていたらしい。だが、その日の彼は、うむを言わせぬ迫力を持った声で、通話を続けさせた。それは普段の彼を知る私には、酷く違和感のある態度だったのだが。

「分かったんだ、遂に分かったんだよ! 『円環』、『直線』、『曲線』……二次元の全て、三次元の基礎となる概念の秘密が! 僕には、円周率の最果てが見えたんだ!」

「え……?」

 高揚して彼の声に、私は直ぐに応える事は出来なかった。あまりに衝撃的。あまりに突飛。彼は信じるに値する人物だけれど、はいそうですか、と流すには大きすぎる内容だった。私が大学を出てから、まだたったの4年、現在から数えて7年前。彼の目標が達成されるには、異常に短い期間だったというのも、私の理解に歯止めを掛けた。加えてその頃、私は暇潰しに数学雑誌の懸賞問題を解く程度の、アマチュアにも劣る数学者に成り下がっていたのだし。

「もしもし、聞いてる かい!?」

「あ……うん、聞いてる、けど。それ……本当なの?」

「うん、そうさ。ちょっとした偶然だったんだけど……ははっ、僕は間違ってなかった! 世界は『直線
ライナー
』で出来てる、曖昧なモノは無くなったんだよ! ははは!」

 ——それは、ついぞ聞いたことのない、彼の全霊を以てした歓喜の声。常に彼の周りに溢れ、彼を停滞させていた『曲線』という曖昧さが解消された快感か。私はこの瞬間になるまで、彼が『曲がった事が嫌い』という意味を、本当の意味では知り得ていなかったのだ。世界の半分を『嫌う』という、その意味を。

「あっと、それでね? この理論を君に見て貰いたいんだ……今、草稿
とメモを持って、そっちに向かってる。頼むよ、教授にはまだ見せたくないし……正直、誰かに確かめて貰わないと、自分が正気なのかどうか怪しいと思ってね」

 電話口から雨の音と彼の声に混じって、車の駆動音が聞こえた。その声色は相変らずに喜びに満ちていて、笑いをこらえるような明るいモノ。恐らく、彼自身で何度も確かめた後なのだろう……言っている内容と裏腹に、酷く自信を持っているのが伝わってきた。

「う、うん……! 分かった、机の上を片付けて待ってる」

「ああ、それじゃ後でね」

 気圧された私の返事に、彼は満足そうに言って電話を切った。

「…………」

 手が震え、携帯を取り落としそうになって。否応なく、自分の心臓が高鳴り始めたのを感じていた。この時点で私はもう彼を『信じる』方向に完全に傾いていた。彼は辿り着いたのだ、誰も疑問にさえ思わなかった世界の隠された奥底へ。その秘密が、私に理解できるかどうかは分からないが……少なくとも、誰よりも先んじて覗き見ることが出来ると。隠さずに言えば、それは酷く怖いのと同時に、とても興奮するのだった。

「あ……机を片づけなきゃ……」

 狭いアパートの部屋だが、図面を広げられる大きな机は私の自慢だった。今では数学を忘れようとするかのように雑多なモノで埋められていたが、彼が来るのなら空けておく必要があるだろうと。降って湧いた大事に、雨の休日は一気に慌ただしくなっていった。


○●

 ——さて、結論から言おう。その日、彼は待てど暮らせどやって来なかった。

 否。彼が来る機会は、二度と失われたのだ。

「 !? 彼が、事故で……? そ、そんな——なんで!」

 夜、アパートを訪ねてきた警察の人に、思わず掴みかかってしまった。あの後、中々現れない彼に業を煮やして、何度も携帯に電話やメールを送った。運転中にせよ、大学や彼の家から30分もすれば着いてしまうはずだったのに、返事は無しの礫。最悪な場合として、嫌な予感はしていたが、まさか……

「……この雨で、路面は濡れていました。にも拘わらず酷く速度を出していたようで……急なカーブを『曲がり切れなかった』と思われます」

 だが運が良いと、警官は冷たく言った。それは単独の事故で誰も巻き込まず……『死んだ』のは彼だけだったから、と。私の所には来たのは、彼の携帯に残った最後の通話記録が在ったからと……私からの着信で鳴り続ける事に辟易したからだと。それだけ言うと、官給の野暮ったいレインコートを翻し、警官は去っていった。

「…………」

 可笑しな話だ。あの時、私が感じていたのは『哀しみ』では無かった。言うなれば喪失感、期待したモノが失われた絶望。無情だと嗤うだろうか。だがそれを言う前に想像してみて欲しい。始めから与えらないなら、円周率の秘密
そんなもの
はどうでも良い事だ。しかし、それは目前に在って、私は彼の感じた歓喜を味わえるはずだった。ああ、酷い話だ……

「そうだ……彼の草稿があるはず。それを見つければ……!」

 本当に、可笑しな話だろう。欲に目が眩んだというのが、一番しっくりくる行動だった。まさか利権でも、知名欲でも無く……彼の影響を受けた『知識欲』は、未だに私には輝かしくて、必死に手を伸ばしたのだ。よって私が彼の死を悼むのは……否、悼む事が出来たのは、その熱が冷めた後の事になる。


○●

 ——或る男の話をしよう。彼はその最期まで『曲がる事が出来なかった』のだと、彼を良く知る人々は涙し、同時に懐かしそうに笑った。だが、彼はヒトの記憶に残るには、あまりにも一般的で。そうやって知人の誰もが彼の死を忘れ去る頃、私はこうして彼の話をしている。

「ええ、これでやっと……」

 今、私は再び大学に籍を置いている。彼の研究を引き継ぎたいという私の突飛な願い出を、教授たちは怪訝そうにしながらも、二つ返事で受け入れてくれた。一切の期待は無く、代わりに干渉も無い環境は、これ以上ないほどに都合の良いモノだった。こうして、好きな時に紅茶を淹れて飲む事も出来る。勿論、レモンもミルクも無しで。

「……私も、辿り着いたんです」

 彼の研究成果は、私の求めた草稿を含めて、ほぼ全てが彼と車と一緒に燃えてしまっていた。焼け残ったメモを警察から回収し、大学のデスクから資料を集め、パソコンのメモリーからはプロを雇ってまで遍く逃さず抽出したのだが。

「いえ、駄目でしたよ。断片的な記述だけでは、彼の至った結論には及ばない……」

だが、得る物は多かった。彼が辿っただろう足場の無い虚無の道を進む事に比べれば、その彼が残した足掛かりを使っていく事で……苦労は最低限に抑えられたと言える。彼の嫌った『曲解による解答の先取り』、論理飛躍を繰り返してでも。私も、かの理論に辿りついてしまった。だから、こうして彼の話をし始めたのはこの煩い雨と……もう一つ、この直線に満ちた彼の研究室に居るからなのだろう。

ああ、最近は『曲線』が目に入る事も煩わしくて。その点、この雨は良い。無数の線が素直に落ちていく様は、きっと彼の琴線にも触れ得る光景なはずだと思った。

「はは、でも可笑しいでしょう? 私には彼のような『動機』は無かったのに。でもですね、きっと、ずっと前から魅せられていたんですよ……彼自身にね。哀しいかな、私たちはどちらも『人間』だった訳ですが」

 
 ——さて。では最後にお見せしようか。彼と私が証明した、『円環の終点』を。別に狂っていると思われても構わないし、事実狂っていても良いのだ。だって此処に辿り着いたなら、きっと皆、狂っている。そうでなければ、此処に来たりはしなかったさ。


(了)