複雑・ファジー小説

Re: 『禍つ唄』−連作小品集ー ( No.18 )
日時: 2012/12/04 00:15
名前: Lithics ◆19eH5K.uE6 (ID: .KyU0SCB)

掌編『緋色のスカーフ』

 前略。
 誰か、これを読む人へ。

 今、僕の手元にはペンと紙、少しのお金と——緋色のスカーフが一枚だけ。
 そのスカーフの鮮やかな色は、元の持ち主が手放してから何年も経つのに褪せる様子が無い。僕は今まで何を失っても、これだけは大切に大切にしてきた。いつか、同じように大切にしていた持ち主に返す為に。
 
 さて。
 これから記すのは、このスカーフの持ち主だった女性(ひと)の事。
 全てを記し終わったなら、僕は『彼女』に逢いに行くつもりだ。だから——誰か、これを読む人がいたなら、約束して欲しい。貴方もしくは貴女の愛する人を、少しでも疑う時があったなら。疑惑を疑惑のままにしておく選択肢があるという事を、どうか忘れないで。

———
——



 『彼女』は、僕の小学校以来の友人だった。

「ねぇ! ヒロちゃん、一緒に帰ろ?」

 その頃の彼女の事は、今でも鮮明に思い出せる。
 ちょっと鼻にかかった、愛らしい声。日に灼けて溌剌とした笑顔。何より身体を動かす事が好きで、休み時間には男子に混じって校庭を駆け回っていた。一方で、お化けと蜘蛛が大の苦手という女の子らしい所や、褒めると顔が真っ赤になるような照れ屋な一面もあって。その明るく人好きのする性格ゆえに、学年の中心はいつも彼女。反面、少し内気な性格の僕にとって、そんな彼女と友達である事は何よりの誇りだった。毎日の放課後——ただ帰り道が一緒だというだけで、嬉しそうに掛けてくれる声。極論すれば、それが在っただけで僕の幼年期は幸せだった。

「うん、一緒に帰ろう——ミオ」

 ——その、憧れにも似た感情。
 『彼女』は勿論、僕自身がそんな想いを知る由もなく、僕たちは友人であり続けた。

———
——


 やがて、僕たちは当然のように同じ公立の中学校に上がった。
 その短い三年の間。僕は少しだけ社交的になって友達も増え、彼女の方はますます魅力的な女の子になったが——二人の関係は何も変わらなかった。相変わらず良き友人で、朝夕の道連れ。それぞれの部活が終わる頃、ふと校門で立ち止まると。事前に何の約束をしていなくても、彼女はきっと来てくれた。そして他愛の無い話を交わし、時に寄り道をしながら家路につくのが僕たちの日課だった。そう、何も変わらない。思春期に突入した同級生たちから、いくら揶揄されても。鈍感だった僕自身と、きっとそれに輪を掛けて鈍かったのだろう彼女との関係は、まだまだ『友人』が精一杯だったのだ。
 
 ああ、そういえば——ただ、一つだけ。
 彼女の方には、一つだけ変わった事が在った。もしかすると僕の記憶違いで、もっと前からかも知れないが……とにかく。その頃から、彼女の首には見慣れぬものが巻かれていた。 

「え、これ? へへ、似合うでしょう?」

 それは、眩いくらいに真っ白なスカーフ。
 紺色のブレザーの襟から僅かに見える程度に巻かれ、少し窮屈そうにも見える。だが、風になびく白いスカーフは確かに、軽やかな彼女のイメージに似合っていた。僕がそれに気付いた或る日の帰り道、彼女は夕日の中でくるりと身体を回して、いかにも照れくさそうに微笑んで見せた——が。

「でもね……『これ』はね、もう外せないの」

「え……?」

 それはきっと、これからずっとなのだと。
 家の前に着いた時、彼女は何かを諦めたような儚い顔をして言った。さっきまで楽しそうに笑っていたというのに、それは余りに彼女らしくなくて。しかも言葉の意味が良く判らないのも相まって、その時の僕はきっと酷く間抜けな顔をしていただろうと思う。それでも何か口にしようと、息を吸い込んだ瞬間。

「ん……じゃぁね! ヒロ、また明日!」

 その前に、彼女はいつものように眩しいくらいの笑顔で。元気に手を振りながら、駆け足で家の中へと入っていってしまった。その場に立ち尽くすしかない僕には、解決されない疑問だけが残って。その微妙な『変化』に、自分が酷く動揺している事を自覚した。今まで当たり前のように傍にいた彼女に、始めて隠し事をされた事に対する苛立ち。スカーフを巻いた、少し大人っぽい姿にも狼狽えたのだろう。そして何より、あの儚げな表情が目に焼き付くようで——

 ——思えば、その時。
 僕はようやく、彼女への想いを自覚したのかも知れなかった。

———
——


 そして、春。僕たちは別々の高校へと進学する事が決まった。

 結局、あの日から彼女の首には常に白いスカーフが巻かれていて——それは遠目に見る体育着の時も、街での私服も、卒業式の正装でも変わらなかった。無論、最初は皆が違和感を覚えた。だが、その意味を質問される度に、彼女は笑って誤魔化してしまう。なまじ皆から好かれていた彼女だけに、僕も含めて誰もそれ以上訊く事など出来なかったのだ。そうして僕はモヤモヤとした気持ちを抱えながら、流されるままに彼女と違う道へと踏み入れてしまった。その後三年間……ほとんど彼女と会えない事を、知らないままに。

 その長い三年の間。
 僕は地元の高校で、特に波乱のない穏やかな日々を送った。その選択に後悔は今でもしていないし、満足できる程度には楽しい青春だったと思う。バカバカしい事で笑い合う親友や、心から信頼出来る恩師、少し興味が湧いた女の子。例えば、そんな人々との出会いだけでも、この三年間には意味があったと言えるだろう。
 
 ——だが、それでも。僕が『彼女』の事を忘れる事など無かった。

 電車で通学する高校を選んだ彼女とは、当然、日課だった登下校を共にする事が無くなった。そして、一度変わってしまった関係は、虚しいほど簡単に薄れていってしまったのだ。毎日一緒に居た人を、何ヶ月も目にしない日々。それに決して軽くない違和感を覚えながらも、僕は忙しく過ぎる日常を消化していく。そんな時、ふと街で見かけた彼女は、見慣れない制服がよく似合っていて——まるで違う女の子のようだった。その首には、今までの白ではなく薄紅色に染められたスカーフ。それは少し大人びた雰囲気を醸していて、余計に彼女との距離を感じたが……

 ただ一つ、

「なんだ。あいつ、スカーフ替えられたんじゃないか」

 その事にだけは、妙な安心を覚えるのだった。


(続く)

Re: 『禍つ唄』−連作小品集ー ( No.19 )
日時: 2012/12/04 20:30
名前: Lithics ◆19eH5K.uE6 (ID: cYSZrqDn)

———
——


 そして、また春。
 地元の大学へと進学した僕に、その『転機』は訪れた。

 もしも、違う大学へと進んでいたら。もしも、彼女の事を忘れていたら。
 今になって考える事は沢山あるけれど。きっと、それが天と僕自身が望んだ運命だったのだろう。丁度、桜の散り始めた大学のキャンパスで——僕は不意に、彼女の姿を見つけた。

「ミオ……!」

 ——桜舞う風に、鮮やかな緋色のスカーフが揺れる。
 また色が変わったとはいえ、それを覚えていない訳がなかった。思わず出した大声に周りの学生たちが騒めく中、彼女はゆっくりと振り返って。
 

「ぁ……へへ、久し振り、ヒロ!」

 その溌剌とした笑顔。
 まるで小学生の頃に戻ったような感覚に、酷く涙腺が緩んだ。そう、彼女は変わっていなかった!勿論、外見は見紛う程に大人で、女性らしくなってはいたが。その笑顔も声も、僕が好きだった太陽のような性格も。彼女が僕の憧れた彼女のままだった事が、何よりも嬉しかった。

 そうして。僕と彼女は三年の空白を超えて、再び同窓の友人となった。
 
———
——


 それからの数年間には、実はあまり特筆すべき事が無い。
 僕の方はといえば、もう自分の気持ちがハッキリと分かっていたし。当時の彼女の気持ちは知る由が無いけれど、とにかく僕がするべき事は決まっていた。展開としては、酷く在り来たりなラヴ・ストーリーのようなものだ。始めは、空白の時間を埋めて。次に、長年の友人感覚をどうにかしようと躍起になって。下らない喧嘩をしたり、嫌われかける事もあったが、決して諦めずに。
 そうして、幼馴染の心を射止める為の僕の努力は——大学最後の夏に、ついに実った。

「ねぇ……後悔、しない?」

 僕の酷く格好悪い告白を受けて、そう彼女は言った。
 何処か困ったような顔をして、所在なさげに首のスカーフの先を弄びながら。

「そんなの、するわけないさ」

「ううん、貴方はきっと後悔する。それでも、私は——」

 あるいは、それは彼女の自嘲だったのか。
 その時、決して冷静とは言えなかった僕には判らない。そう、冷静では無かったのだ。意味深な言葉も、一瞬の物憂げな笑みも、その後に続いた言葉に全て掻き消されてしまって——

「へへ、やっとだね。ヒロ」

 ——そう、やっと。
 僕たちの関係は長い時間の果て、その時ようやく変わった。
 
———
——


 それは——幸せな日々だった。
 僕は家路以外の時間にも『彼女』を手に入れて、その一瞬一瞬を全力で愛した。無論、彼女もそれに応えてくれたし、その太陽のような笑顔は途切れずに輝いていた。なに、簡単な話だ。僕たちは、きっと互いの幸せだけを祈っていたのだから——当然、幸せでなくてはならなかっただけ。惚気けている?ああ、そうかも知れない。とにかく、瑣末な事などどうでも良いと思えるくらいに、その日々は幸福だったのだ。

「ねぇ、私、式は教会で挙げたいな。真っ白くて、こーんなに大きな所!」

 プロポーズは大学を卒業した年の冬、クリスマスの夜に。
 世間から見れば早すぎるかも知れないが、僕たちにとってタイミングは此処しかなかったと、今でも思う。ぐずぐずと半泣きになりながら、反則気味に可愛らしい泣き笑いで——彼女は、大きく手を広げて言った。式は教会で、光が溢れる夏が良い。それを聴いただけで、僕には純白のウェディング・ドレスを着た彼女の姿が目に浮かぶようだった。白い石造りのチャペルに負けない輝きを放つ、その彼女らしい彩りが。

 だが——ただ、一つだけ。
 その首元に隠された血のような緋色を、僕は意図的に意識から締め出してはいたが。


 瑣末な事だ。だが、それは澱(おり)のように積もっていった。
 彼女は僕と交際を始めてからも、緋色のスカーフを決して外さなかったのだ。正直、それは少しばかり常軌を逸していると思わされた事もある。風呂でも、寝る時も、虫垂炎で入院した時でさえも。とにかく想定される全ての場面で、彼女はあの儚げな笑みを浮かべて、

「ごめんね。これは、外せないの」

 と、彼女はいつも僕に謝った。
 彼女は知っていたのだろうか。そうされると、僕はそれ以上何も言えなくなる事を。彼女の幸せを祈るのが、僕の幸せだった故に——いつしか、僕がその事を口にする事はなくなった。

 ——終わりの日まで。

———
——


 それは彼女の希望通り、光溢れる夏の日。
 青空高く響き渡る鐘の音と友人たちの声に祝福されながら、僕たちは永遠を誓った。

 素晴らしい式だった。
 二人で選んだ式場は明るく、本当に真っ白な教会。彼女が纏うのは、それ以上に眩い純白のドレス。ヴェールの下でうつむき、赤く色づいた貌。そして震える手で指輪を交換し、キスを交わした時——それが、僕の人生で一番の幸せな瞬間だった。


 ——だが、告白しなけらばならない。
 その時。僕は至上の幸福を噛み締めながら、考えた。確かに、これ以上望むことなんて無い。しかしどうだ、知りたくはないか……『彼女』の全てを。彼女の秘密を知って、より一つになりたくはないか。僕の全てを賭けたのだから、彼女の全てを知るのは権利なのではないか、と。ああ、どうか笑って欲しい。僕の心は、自分で思うより遥かに醜く、そして凡百だった。誰もが思う望み、罪の無い我欲に、僕は負けた。

「……そう、知りたいんだね」

 式の後、無人の礼拝堂で。
 まだドレスを着たままの彼女に、僕はもう一度尋ねた。そのスカーフは『何』なのか。もし教えてくれるのなら、その秘密は共に背負うと約束する。それが例えどんなものでも、決して後悔などしないから、と。そう吐露すると、彼女はまた、あの儚げな笑みを零して僕を見つめた。ああ、止めてくれ。そんな顔をさせたくないから、訊いているのに。

「いいよ。私は、もうヒロの物だもの。知りたいなら、教えてあげる」

 貴方の、幸せの為に。
 そう言って、彼女はスカーフの結び目に指を掛けた。いつかの想像通り、その純白のドレスに染みのように付いた緋色が、するすると布の音と共に落ちていく。固唾を呑んで見守る僕に、彼女は——

「——ごめんね、ヒロ。私、本当はちょっと後悔してるの」

「え……?」

 緋色のスカーフが宙に舞う。
 その瞬間に見た彼女の『笑顔』は、寂しげな言葉に反して、僕の大好きな太陽のような笑みだった。

「へへ……もっと、一緒に居たかったなぁ」



 ——その首。頚、クビ、くび。
 スカーフの下には、在るはずのものが無かった。それは真っ黒な首輪のような、空白。

「ごめんね」

 そして笑顔のまま、熟した林檎のように。ごとりと音を立てて。
 『彼女』が、床に落ちた。


(了)掌編『緋色のスカーフ』