複雑・ファジー小説
- Re: Stray Stories ( No.35 )
- 日時: 2013/06/22 19:32
- 名前: Lithics ◆19eH5K.uE6 (ID: T0oUPdRb)
- 参照: http://mb1.net4u.org/bbs/kakiko01/image/1227jpg.html
その夜は、夕方から強かな雨が降り続いていた。
『怪雨の夜』
雨粒が車体を叩く、ざぁ、と不揃いな音がしている。
単調なワイパーの駆動音と、助手席のシートから伝わる振動が眠気を誘う。眠ってはいけない、と思うほどに、目蓋が重くなるような感覚。窓の外を眺めて無柳を慰めようにも、目新しく新鮮なはずの旅先の景色は、もうすっかりと夜の色に染まってしまっていた。
夏らしい驟雨とでも言えば良いのか、雨足は急に強くなったり弱くなったりを繰り返してはいたが、真夜中を越えた今でも降りやむ気配はない。嫌な雨だな、と思う。せっかく『彼』と二人きりの旅行だったというのに、その帰りがこれでは、何となくケチがついたような気がした。
それにしても——蒸し暑い。
まるで、雨の湿気がガラスを透ってくるような感覚がする。体温に近い、生温い空気が肌に粘りつくようで不快だった。だが、そんなはずはないのだ。車内はしっかりとクーラーが効いているのだし、湿度だってそう高くはない。
だというのに、嗚呼、じとりと。
首筋を舐めるように流れる汗の感覚に、私は名状し難い怖気を覚えて、思わず目を閉じつつ深くシートに身を沈めた。カー・ラジオから流れる呑気なポップスのメロディーが、今は妙に耳障る。雨音に紛れて歌詞も明瞭でない雑音にしか聴こえないのが、中途に眠気を阻んでいて苛立たしい。いっそ、このまま眠れたらいいのに。
「眠たいかい?」
運転席に座る彼が、標識の反射に目を細めながら言った。
もう長いこと交代せずに運転を続けているが、彼の方は背筋もしゃんとして、あまり眠そうには見えない。それが心強くもあり、また申し訳なくもありで、私は慌てて目を開けて、シートに座り直す。やはり自分だけ眠る訳にはいかないだろう。退屈だけれど眠くない、と少し虚実を交えた所を答えると、彼は顔をくしゃっと歪めて苦笑した。
「はは、じゃあ、何か話そうか。まだ時間かかりそうだからね」
「話……?」
「うん。何か退屈しのぎになるような、ね」
彼は優しげな視線を私に向けて、直ぐに前方へと戻す。
ハイウェイの渋滞を避けて迂回してきた山道は、今や対向車も後続車もないスカスカの状態だった。その代わり、ろくに舗装もされていない上に濡れた路面は度々滑ったし、街灯や民家の灯りなどどれくらい前に見たのか覚えていない。それでも特に不安にならなかったのは、彼の性格に由来するのだろう安全運転に信頼があったからであった。
○
雨音は止まない。
「そうだね、折角だし——こんな話を知ってる?」
そう切り出したのは彼の方だった。
私が重たい目蓋を何度か擦っていたのがバレたのか、それとも彼自身が眠気を感じたのか。どちらにせよ、助手席に座る身としては話題に応じるのがせめてもの責務だろう。先刻からの妙に湿った空気の不快感を忘れたいというのもあって、私は即座に返事をした。
「どんな?」
「うん。いや、夏だし、夜だし。こういう時はさ、怖い話って相場が決まっているだろう?」
「うわ……ほんと好きだよねぇ。怪談とか、そういうの」
思わず顔を顰める。
怪談の類を蒐集するのは彼の趣味でもあり、折に触れて『とっておき』を私に語る事が今までにもあった。それは別に構わない。私も不得手というほどではないし、彼の語り口は流暢で物語としては一流に迫るものがある。
だが、それも時と場合によるだろう。彼の言葉を借りるなら、今は夏だし、夜だ。人気どころか他の車さえ走らない山道で、暗い車内に二人きりである。直ぐ隣にいる彼の顔さえも曖昧で、自分の輪郭も湿気に滲む閉鎖空間——どこにも、想像の逃げ場が無い。
「実はね、僕がこの道を使うのは初めてじゃないんだ」
そう言って彼は、私に向けて薄く微笑んでみせた。続けても良いかという確認なのだろうが、そんな顔をされても困る。怖いから止めて、などと言えるはずもなく、私はただ頷くしかなかった。
そして。彼の語り口がいつもと違うと気付いたのは、それから直ぐの事だった。
「半年くらい前かな。この近くの町役場への営業でね、同僚と二人で行った帰りだった。あの日は事故か何かで高速が酷く渋滞して、一般道(した)もかなり混んでたんだ。だから今日みたいに大回りで、この道を使うことにしたんだよね。丁度良く、運転してくれてた同僚がこの道を知ってたんだ——あぁ、そうだ、あの日は雨じゃなくて雪が降ってた」
凍った道で滑って死にかけたんだよ、なんて彼は懐かしそうに言う。
それで気付いた。これは彼が聞き集めた話ではなくて、彼自身の話なのだと。しかも恐らくは、この道に関係する話。なんて事。これでは本当に、逃げ場が無いではないか。
「道の凍結も怖いけど、問題はこの先にある古い隧道(トンネル)でね。良くあるだろう? トンネルって言うのは閉じられている上に暗くてジメジメしてるから、『そういう話』が集まりやすい。で、そこも例に漏れずだった訳だ」
「待って。それは貴方が……」
「まぁ聞いてよ。そこは至って普通の、何て事はないトンネルだったんだけど。ただね、これがもう嫌になるほど『長い』んだ。で、退屈だったし、トンネルの中は凍結してなかったし、気が緩んだのかな——あんなモノを見るなんて、ね」
きっと退屈だから、途中で眠ってしまっても構わない、と。
そう前置きして、彼はわざと眠気を誘うかのように滔々と怪異を語り始めた。
- Re: Stray Stories ( No.36 )
- 日時: 2013/06/22 19:33
- 名前: Lithics ◆19eH5K.uE6 (ID: T0oUPdRb)
- 参照: http://mb1.net4u.org/bbs/kakiko01/image/1227jpg.html
『目を閉じろ』と、彼は言った。
隣でハンドルを握る同僚の男は、歯の根が合わぬように震える声で僕にそう告げた。
トンネルは二車線で、後続車も対向車もなく、窓の外では独特のオレンジ色が繰り返し通り過ぎていく。なんの変哲も無い、在り来たりなトンネルの内部だ。
ならば、何故。同僚がそんな事を言う理由に思い至らず、僕は首を傾げた。目を閉じろも何も、目の前の視界に何ら異変はない。フロントガラスの向こうには、遠近感の狂いそうなほど長い長いトンネルの壁が——
『アレは、探しているんだ』と彼は言った。
一体何に怯えているのか、と同僚に笑いかけて、彼の目線に気付いた。車はスピードを上げ、蛇行している。それもそのはず、彼は真っ直ぐ前を見ていない。右のバックミラーを呆けたように眺めているだけで、ハンドルを握る手からは力が抜けてしまっている。
自然に、彼の目線を追ってしまう。
小さなバックミラーには、次々と過ぎ去っていく燈色の灯りと、汚れた壁。その流れていく景色の中に、あぁ、何か。ぐちゃぐちゃに轢かれて崩れたヒトのようなモノが後部座席の窓に貼り付いて、必死に前へと進もうとしている——そんなモノを見た。
「ひッ……ぁ!」
悲鳴は僕の喉から、引き攣るような笑いは同僚の喉から。
『だから言ったんだ、見ない方が良いって』
そうして気が触れたように笑い始めた同僚が、思い切りアクセルを踏み込む。ガクンとつんのめるようにスピードを上げていく車は、アレを振り落とそうとしているのか、今や車線を超えて大きく蛇行していた。タイヤの焦げる匂いと尋常ならぬ揺れで、吐き気がこみ上げる。
しかしその中でも、僕はバックミラーから目を離す事が出来なかった。彼は気付いているのだろうか。アレは、少しずつ運転席へと這い寄って——
『知ってるさ。だってアレは、あのヒトは僕が——僕を』
哄笑が響く。そうでもしないと正気が保てないのか、それとももう手遅れか。
もうアレは運転席から同僚の顔を覗き込むような近さまで来て、あぁ、嗤っている。半分が跡形もなく轢き潰された顔で、同僚よりずっと理性的な笑みを浮かべている。
『見つけた』と、それは言った。
○
そして、ふと。
やはり激しく車体を叩く雨の音で目を覚ました。
いけない、やはり眠ってしまっていたかと胡乱な頭で反省する。話は最後まで聞いていたような気もするし、途中で眠ってしまった気もする。どれくらい意識を落としていたのか知ろうとステレオのデジタル時計を一瞥するが、寝起きで目の焦点が合わずにハッキリとは見えなかった。視界が暗いオレンジ色に明滅する感じから、どうもトンネルの中を走っているらしい事しか判らない。
トンネル。そうか、これが件の。
「ごめん、私……」
とにかく彼に謝ろうと、隣を向く。
その前に、何か酷い違和感があるような気がしたけれど……それを追及するよりも先に、その低く抑えるような『声』が、寝ぼけた私の意識を揺さぶった。
「目を閉じて。まだ寝てても良いから」
「え?」
それは紛れもなく彼の声だ。だというのに、何故その響きが『怖い』などと感じたのか。指が白くなるほど強くハンドルを握り締め、瞬きもせずに前だけを睨みつけている彼の様子は、あまりにも普段から離れ過ぎていて却って現実味が無かった。
「——いいから! 目を開けちゃ駄目だ!」
「っ……!」
雷鳴のような声に、反射的に目を閉じる。
彼がこんな風に怒鳴るなんて、今まで見た事がなかった。何か、尋常では無い事が起きているのだろうか。頭から冷水を掛けられたように意識が冴えていくのと同時に、そのまま背筋に冷たいものが流れていくのを感じた。
——目が見えないというのは、こんなにも。
「ね、ねぇ」
「大丈夫、もう少し……もう出口が見えてるから」
自分に言い聞かせるような声は、わずかに震えているように聴こえて。どんな不安よりも、その事実に慄いてしまった。
ぐん、とアクセルが踏まれる感覚。どれくらいのスピードが出ているのか、聴いた事のないような音で車体が鳴いている。彼が身をよじる気配がして、ステレオの音量が上がる。トンネルの中なのだから、当然、ざらつく砂嵐めいた音しか響かない。嫌な音だ。目を閉じているからだろうか、生理的に受け付けない感覚が強まっている。さっきから強くなるばかりの雨音と合わさって、それは目蓋の裏に不毛な砂嵐のイメージを焼き付けてくるようだった。
——音しか無い世界とは、こんなにも。
雨音が煩い。砂嵐が煩い。慣れない高速に車体が軋む。
「冗談なんでしょ? さっきの話に引っ掛けて、私を脅かそうって」
「違う。見ないほうが良い」
きっぱりとした声が、私の希望を遮った。
こんなものは、とても耐えられない。見ない方が良いなどと言われても、ともすれば目蓋が勝手に開きそうになる。『イメージ』が膨れあがる。不吉であればあるほど、それは私の落ち着きを奪っていく。
べとりとした汗で、頬に髪が貼り付いた。
その感覚。イメージ。まるで湿気のように窓に貼り付いて、そこから私を見ている——『見つけた』、と。雨音に紛れて囁かれたような、そんな気がして。
「い、ぃや——」
そこが限界だった。
薄目を開けて彼の横顔を覗き見る。引き攣って、汗に濡れた顔の向こうには……何も無い。
運転席側の窓にも、バックミラーにも、怪異など何も。乾いたフロントガラスの直ぐ前に口を開けているトンネルの出口を見て、私は安堵や安心よりも、酷く拍子抜けした思いを隠せなかった。膨らみすぎた轢死体のイメージが、まだ私の中で嗤っているような。
「え……?」
そして、トンネルを抜けた。何事もなく。
私は呆然と、深く息をつく彼の横顔を眺めた。大音量でDJが喚き始めたラジオを消すと、抑えられていた雨音が戻ってくる。
ざぁざぁ、と。それはずっと、砂嵐のように耳にこびり着く音。フロントガラスを濡らしていく雨粒に、夜の景色が滲む。
「ねぇ、今の」
「——気付いたかい」
だから見ない方が良かったんだ、その方が『気のせい』で済んだ。そう諦めたように言いながら、彼はワイパーのスイッチを入れた。そう、長いトンネルの中で直ぐにフロントガラスが乾いてしまった後は、ワイパーは切られていたはず。あの単調な駆動音も確かにしていなかったし、最後に見た窓の向こうは燈色に滲んではいなかった。
それは酷く単純な帰結。あのトンネルの中でオカシイのは一つだけ——
「参ったな。そういえば、前に来た時は……雪の日だったっけ」
それきり、彼は黙ってしまった。
そして漸く山道を抜けて街へと入った所で、ぼそりと。まるで母親に悪戯を白状するかのような口調で、私に言った。
「あの話ね、嘘だから」
(了)