複雑・ファジー小説
- Re: 【二章更新中!】聖使徒サイモンの巡礼【オリpv作成なう!!】 ( No.85 )
- 日時: 2012/07/20 13:12
- 名前: 茜崎あんず ◆JkKZp2OUVk (ID: 92VmeC1z)
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本当に幸せだったのだ。
そう、あの日が来るまでは。
そこに握られているのは、大振りなナイフ。
タマルは身を引いて顔を庇う。しかし、遅かった。目の前すぐ近くをナイフがかすめる。頬に、刃が突き刺さった。
「ぎゃぁぁぁあぁぁ」
何が起きたのか分からない。漂う鉄の匂いと血の香り。頬を突き破ったナイフの刃が、タマルの歯を、舌を、どんどん傷つけていく。巨体の男がナイフを引き抜いた。そしてまたすぐ……。
「やめろ……何するつもり、……がぁっ」
顔を押さえ、体をよじる牧師に馬乗りになり、男はナイフを持ち替える。一連の素早い動きの前に、彼は逃げる間もなかった。
思い切り、男は何度も何度もタマルの心臓を貫く。渾身の力をその手に込めて。
「うああ、あああ、ああ」
血飛沫が飛んだ。
生暖かい温度が彼女の服に、手足に。
もう自分が何を言っているのか分からない。あんなに優しかったタマル牧師が髪も顔も赤く血に染めて、こんな、こんなふうに。
「ああぁあぁあぁぁぁあああぁぁぁぁああぁぁぁぁぁぁああ」
「……っアニタちゃん!」
声が鳴る。ほぼかすれて聞こえない、悲痛な叫び。
「逃げるんだ!」
我に返る。
そうだ、今日はラドルの家でオヤツを食べる予定だったんだ。野原で摘んだ綺麗な花を生けておこうと、先に私は教会に来たんだ。そしたら。
ぱらり。汗ばんだ手のひらから、スミレの花がこぼれる。
そう、これからこの場所にラドルとキドがやって来てしまうのだ。
「…………っ!」
アニタは走り出した。ゆらゆらと立ち上がった男がこちらに近づいて来るのが分かる。
震える足を無理やり動かし少女はとにかく走った。
二歳の幼い弟、キドがこの赤く染まった光景を見てどうなるか。実の父親が惨殺されているこの状態を見てラドルは何を思うか。考えなくてもわかる。
ーー傷つくのは、私だけでいい。
息が乱れる。
足が痛い。
それでもアニタは走るのだ。
流れ出た牧師の血潮を吸ったのであろう少女の靴。
その足跡は真っ赤に染まり、黒い道路に星をつける。