複雑・ファジー小説

ハラワタ共同体。 ( No.2 )
日時: 2012/04/29 23:52
名前: 緑川 蓮 ◆jNZRGbhN7g (ID: U.L93BRt)




美波ミナミ!! お前、授業中に何を描いている!」「絵を描いていました」。

 僕がその台詞を最後まで言いきらない内に、狩衣カリギヌ先生は硬直した。僕のノートを取り上げた先生は絶句したのだ。声も出ないほど、僕の芸術的なセンスに感動したのだろうかと思って、少し鼻が高くなる。
 しかし、どうやらそうではないらしいことがわかった。先生の手は小刻みに震え、顔色を悪くしている。明らかに、見たくないものを見てしまったときの顔だ。まるで、腐ったものを見てしまったときのような。少し残念になった。きっと僕とこの先生は感性が合わないのだろう。そう思っておくことにする。
 先生はゆっくりと僕のほうへ、もっと言うと、血がぼたぼたと垂れている僕の右手首に視線をやった。すると先生の顔色はますます悪くなった。表情も引きつった。先ほどまでの威勢の良さからは想像もつかないくらいに具合が悪そうにして、よろめきながら教室のドアへと歩いて行った。
 その時間、先生は結局戻ってこないまま、授業は終わった。教室はずっとどよめきに包まれていた。皆しきりに僕のほうを見ているけれど、いったい何だというのだろう。

 ちなみに僕がノートに描いていたものは、『両足と右腕をもがれて、左目を抉られて、口の端を裂かれて、切り開かれたお腹から内臓が飛び出た少年のイラスト』である。リアルな感じを出すために、自分の手首を切った血で色を塗ってみた。我ながら、自信作だと思う。



その1【美波掌先生の次回作にご期待ください】



 僕の名前は美波 掌(ミナミ テノヒラ)という。よく、名前を『しょう』と読まれることがある。ただし日常生活で僕の名前を呼ぶ人はほとんどいないので、間違えられても特に気にする必要はない。左目の下と、口元につぎはぎがあって、左右で瞳の色が違うから、顔を間違えられることは無い。もともとの利き手は右手だったけれど、ある時期を境に左利きになった。
 どういうわけか周りの皆は僕を避け、近寄ろうとしない。なので、友達は一人も居ない。でも、それで不便することはなかった。友達が欲しいかどうかを訊かれても、僕はきっと「どちらでもいい」と答えると思う。
 なぜなら、僕は友達はいないけど、大切な人が、愛する人が居るから。『彼女』さえいれば、あとは何もいらないよ。

「お待たせ、メダマ」「暑くなかった?」。

 案の定、『彼女』はじっと校門の前に佇んで、僕を待っていた。腰元まで伸びた、絹糸みたいに繊細で綺麗なつやのある髪が撫でるような風に揺られている。
 この少女こそ、僕の大切な人である。雨雲 メダマ(アマグモ メダマ)。それが彼女の名前だ。他には何もいらないほどに、僕が大好きなひとで、僕を大好きなひと。
 メダマの顔立ちはとても整っていて、綺麗だ。けれどその顔には、左目を覆い隠すように包帯が巻かれている。彼女はいつも、白い無地のワンピースを着ている。華奢な身体のラインが強調されていると思った。
 よく見れば、この炎天下の中、メダマは汗一つかいていない。それどころか涼しげな顔さえしている。

「暑くないの?」メダマは小さく頷いた。「凄いね。僕なんかはもう、汗でワイシャツが肌に張り付いちゃうほどだよ」。

 メダマは、僕の顔を覗き込んだ。僕のことを心配してくれているのだろうか。メダマの顔が僕の顔のすぐ近くにあって、少しどきりとする。長いまつげの奥からのぞいている、吸い込まれそうな瞳に僕が映っていた。つぎはぎだらけで、醜い僕の顔が。

「僕は大丈夫だよ」「さ、早く帰ろう」「確か冷蔵庫にアイスがあった筈だから」メダマはまた、小さく頷いた。

 僕らは『ある事件』に巻き込まれたあと、この田舎町に引っ越してきた。都会で暮らしていた時期も好きだったけど、ここでの生活も気に入っている。実のところを言うと、メダマと一緒なら、僕にとってはどこでも良い。
 僕とメダマは、見渡す限り何も無いあぜ道を歩き出した。目的地は、アイスとクーラー。つまり僕の家である。



   ♪



 生徒たちに、申し訳の立たない気分だった。結局残りの時間を全て、私は嘔吐と休憩に費やしてしまった。しかし、それほど見るに耐えないものだったとも思う。あの美波掌という生徒は、あんな過去がありながら、どうしてあんなものを描けるのか。いや、逆に、あんな過去があったからこそ、あんなものを描けるのだろうか。
 不意に、保健室の扉が開いた。学年主任の藤原フジワラ先生だった。

「狩衣先生、大丈夫ですか?」「ああ、藤原先生。ご心配をかけて申し訳ありません」「いえ、仕方ありませんよ。最近はめっぽう暑いですから」。

 違う。暑くて体調を崩したのではない。
 以前まで私は、都内の小学校で教師をしていた。その時に、たまたま『ある事件』の現場の目撃者となってしまったのだ。四名居た被害者のうち、生き残ったのは二人。今思い出しても、吐き気のする光景だった。
 そして何の因果か、その事件の生き残りは、この田舎の高校で再び私の生徒となった。

 つまり彼が、美波掌があのノートに描いていたのは、その事件の時の、彼自身の姿である。

 だから、あのときの光景をありありと思い出してしまった私は、今こうしている。もしかしたら今夜夢に見るかもしれない。最近ただでさえ睡眠時間が少ないというのに、最悪だ。胃の辺りが軽く、キリキリと傷んだ。

「ところで、狩衣先生」「何でしょうか」「あなたにお客さんが来ていますよ」「私に?」「はい。ほら、入っておいで」。

 藤原先生が手招きすると、一人の少年が保健室に入ってきた。所作の一つ一つがしっかりしていて、礼儀正しい印象を受ける。その少年の顔は、事前の資料と、そして新聞で何度か見覚えがあった。

「おお、キミが転入生の網代アジロくんか」「はい、はじめまして。今日は挨拶に参りました」。

 柔和な笑みを浮かべるその少年は、高校生にして現役の探偵であるという話だ。