複雑・ファジー小説

ハラワタ共同体。 ( No.7 )
日時: 2012/05/01 18:48
名前: 緑川 蓮 ◆jNZRGbhN7g (ID: U.L93BRt)

「あヴぁヴぁヴぁヴぁヴぁヴぁヴぁヴぁヴぁヴぁヴぁヴぁ、ヴぁーヴぁヴぁヴぁ」僕の奇声が、扇風機を通して部屋中に響き渡っている。

 クーラーをがんがんかけたうえに、扇風機の風を独占しているのだ。夏だからこそ許されるぜいたくだ。電気がもったいないといったって、仕方がないじゃないか。その上、地球は温暖化しているのだ。こんなに暑くては、こうでもしなければやっていられない。見ての通り、僕には何の非もなかった。

「メダマもおいで、涼しいよ」メダマは首を横に振った。「暑くないの?」今度は縦に振る。「そっか」。

 八年前から、僕とメダマは一つ屋根の下に住んでいる。メダマの父さんはとても有名なお医者さんで、世界中を飛び回っている。そのせいで、中々メダマにかまっている余裕がない。だから、メダマは僕の家に居候しているのだと、僕の母さんは言っていた。
 玄関のほうから、がちゃがちゃと音がした。その次に、扉が開いた音がした。母さんが帰ってきたのだ。ふぃぃ、と間抜けなため息の音が聞こえる。

「やあやあただいま」「おかえり記念カタミ」「お母様と呼べ、お母様と。あるいはマミー」「貴乃花」「ぶっ飛ばされたいか。ていうか、性別変わってるし」「マイケルジャクソン」「アォッ!!」。

 僕の母さん、美波 記念(ミナミ カタミ)は両手からスーパーの買い物袋をぶら下げていた。きっと仕事の帰りに、買出しに行ってきたのだろう。
 母さんは実年齢よりもかなり若く見えると、以前に住んでいた場所では噂になっていた。けれど、どっこいしょと声を上げ、ビニールを降ろしてからソファーに寝転がってテレビを付け、腰が痛いとのたまう動作は、紛れもなく中年のおばさんのそれだった。挙句の果てに、ビニール袋をまさぐって中から取り出した発泡酒の封を開けて一気飲み。

「ヴぁー、生き返るぅ」売れ残ったオフィスレディのようにも見えた。

 八年前に父さんが殺されてから、母さんは女手一つで僕とメダマを育ててきた。それは素直に凄いと思うし、きっと僕はこの人に一生頭が上がらないだろう。
 今でこそ、だいたい毎日この時間帯に帰ってくるが、昔の母さんは仕事に忙しくて、滅多に家に帰ってはこなかった。話題に出ることはないけど、やっぱり母さんもあの事件のことを引きずっているのだろうか。
能天気にビールを煽って、テレビを見て大爆笑している姿からは想像も出来なかった。

「おぅい、掌。今日はお前が晩御飯作れやい」母さんの声は間延びしていて、たった一本のビールで泥酔してしまっているのがわかった。「なんでだよ、今日は母さんの番だろ」「文句言わないのぉ。たまには親孝行してみぃよ」。

 こうなった母さんに、最早何を言っても通用しない。こちらが何か言えば言うほど母さんは笑い、怒れば怒るほど母さんは大爆笑するだけだ。
あきらめた僕は、しぶしぶ立ち上がる。ビニール袋の中身を見てみると、野菜類が幾つかと、魚の切り身に豚肉、それからお米と冷凍食品があった。
そういえば、冷蔵庫にはカレールーがあったような気がする。

「ねえ、メダマ。今日はカレーで良い?」メダマは頷いた。メダマは基本的に、嫌いな食べ物は無いようだ。「母さんも、カレーでいいよね?」「あヴぁヴぁヴぁヴぁヴぁヴぁ、ヴぁヴぁーん」振り返ると、さっきまで僕が独占していた扇風機に張り付いている母さんがいた。「ねえ、思い切り殴って良い?」「あらやだぁ、ウチの息子がグレちゃった」。

 リビングの中に、野菜を切る包丁の音と、母親の奇声が響く。にんじんを切り始めた辺りから、もうなんか、どうでも良くなってきた。メダマは隣で、じっと僕の手元を見ていた。メダマが家事を手伝うことはない。母さんが、居候なのでやらなくても良いよ、と言っているのだ。
僕の大切なメダマが包丁で指を切ったりでもしたら大変なので、僕もそれには反対しない。

「そういえばさ」「んうぅー?」母さんは相変わらず酔った様子で返事をした。「明日、ウチの学校に転入生が来るんだって」「ほへぇ」「で、今日の帰りにたまたまその子に会ったんだ」『その子』と呼ぶには、いささか雰囲気が大人びていた気もするけれど。「確か、名前は網代湊って言ってた」そのとき、返事はすぐには返ってこなかった。「母さん?」気になって振り返ると、母さんはだらけきった体勢のまま、目を細めて神妙な顔つきをしていた。それから、「ふぅん」と言った。「知っているの?」「うん、結構有名だよ、その子。この間はテレビにも出てたし」「へえ、そうなんだ」。

 なるほど。だから顔を見たときに、見覚えがあった気がしたのかもしれない。でもそうなると、どうしてそんな有名人がこの田舎へ来たのか。少し、それが気にかかった。明日学校で会ったら聞いてみよう。
思えば、自分から誰かに話しかける予定を作ったのは初めてだった。
 鍋の中では、カレーが煮えていて、おいしそうな匂いを放っていた。