複雑・ファジー小説

ハラワタ共同体。 ( No.8 )
日時: 2012/05/01 23:58
名前: 緑川 蓮 ◆jNZRGbhN7g (ID: U.L93BRt)



 息子の寝顔は、いくつになっても可愛いものだ。カレーを食べ終えてテレビでバラエティ番組を見ていた掌は、いつの間にか扇風機の前で、すうすうと小さな寝息を立てていた。どこで育て方を間違えたんだか、この青二才は何かって言うと親をおちょくる。隙だらけで居眠りこいているくせに。
 音がうるさかったので、テレビの電源を消す。電気代がもったいないので、エアコンの電源も消した。それから窓を開けた。夜はエアコンをつけなくたって、十分涼しい。後で蚊取り線香も点けておこう。
その前に、クローゼットから毛布を取り出す。

「ほら、風邪ひくよ」掌に毛布をかけてやった。夏風邪はこじらせると厄介なのだ。

 掌の枕元に腰掛ける。こうすれば、掌の顔がよく見えるからである。元々の顔立ちが整っていて、肌が綺麗なだけに、生々しい手術痕が一層際立っていた。
 掌の顔の傷痕を見るたびに、心がずきりと痛む。あまりに酷い傷だった上に、まだ傷が塞がらない内から突然発狂して掻き毟ったりしていたから、今でも傷痕が残ってしまっているのだ。
 八年前の、まだ残暑が厳しい九月の出来事だった。事件が起きたアパートの一室を開けた私の目に飛び込んできたのは、私の夫と息子と、親友とその娘のむごたらしい姿。あの光景は私の全てを狂わせた。事件の後しばらくは、一瞬でも思い出すたびに嘔吐が止まらなかった。口から脳漿が出たかと思うほどに、吐いた。夫の葬式は、途中から記憶がない。それについて、葬式に来ていた人たちに話を聞こうとすると誰もが私から目を逸らしたが、あとで私は、葬式の最中に突然奇声を上げて暴れだしたらしいことを知った。近所の奥様方の井戸端会議を、偶然立ち聞きしたのである。
 その後私はしばらくの間、精神科の病院に通院した。その甲斐あってか、私は事件のことを思い出しても正気を保っていられる程度にはマシになった。しかし、掌は壊れたままだった。壊れて、二度と元のかたちには戻らなかった。『ハンプティダンプティ』。そんな名前の謎かけがあったっけ。落ちたら二度と元に戻らないものは何? 答えは『卵』。割れて、元には戻らない。卵も、心も。
 それでも、掌は生きている。今はただそのことが嬉しくて、寝息を立てる横顔をいとおしく感じた。そっと指先で髪をよけると、なにかわけのわからないことをむにゃむにゃとつぶやきながら寝返りを打った。可愛いやつめ。
 夫を失った今の私には、この子が全てである。だからあの日、今度こそ私の手で守ってみせると、そう決めたのだった。たとえどんなことをしてでも、たとえ、道化を演じてでも。この世の何がどうなったって、この子さえ幸せなら、それでいいから。
 もしもこいつが起きていたなら、絶対に恥ずかしくて言えないだろう。けど、どうしても言いたいことがある。何度でも何度でも、耳にたこが出来るほど言ってやりたい。

「_____________」。

 さて、そろそろ食器洗ってこようと思い立った。ただし、その前に蚊取り線香を取ってこなければ。チャッカマンはどこへしまったっけ。
背伸びをすると、腰の方が軽くポキポキと鳴る。ついでに立ちくらみがした。いかん、そろそろトシだろうか。思えば最近はやたらと肩も凝るし、二の腕の辺りがたるんできたような気がする。いや、気がするだけで、実際にはそんなことはない。絶対にない。
 もう、一つの動作を起こすのもめんどくさい。私の代わりに家事を全部こなしてくれる機械とか、誰か開発してくれないだろうか。というか、してくれ。お願い。誰にだかわからないけれど、お願いしてみた。当然、返事は返ってこなかった。

「網代湊、ね」ふと、夕飯を作っている最中に掌が会話に持ち出していた少年の名を思い出した。

 世間を賑わせている、現役の高校生探偵。ワイドショーやニュースでは引っ張りだこの、超有名人だったはずだ。ついでに、イケメン。実は少し好みのタイプだったりする。しかし何より、探偵としての実力は相当なものだという話をよく聞く。なぜそんな子が、この田舎町へやってきたのだろうか。やはり例の、連続殺人事件について捜査するためだろうか。
 これから少し、何か厄介なことが起こりそうな気がした。根拠は、ないけれど。



   ♪



 ふわりと、温かい感覚がした。頭の中がぼんやりとしていて、毛布をかけられたのだと気付くまで少しかかった。次に、すぐ近くに誰かが座ったような気がした。その人はどうやら、僕の顔を覗き込んでいるらしい。意識は相変わらずはっきりとしないので、僕は黙ってそのまま動かずに居た。
すると不意に、顔を撫でられた。くすぐったかったので寝返りを打つ。何か反論を言おうとしたけれど、はっきりとした言葉にはならなかった。その人はそのまま、じっと僕の傍に座っている。
それから、その人はとても、とても優しい声で、こう言ったのだった。

「生きていてくれて、ありがとう」。

少し泣きそうになった。