複雑・ファジー小説

序曲 ( No.1 )
日時: 2012/07/25 19:37
名前: nmmt ◆/QXiUp6Whg (ID: IXZEaJaO)

(——この曲……)

 記憶の奥底に追いやられていたものを、急に思い出すかのような感覚だった。
 青年は一つの屋敷の前で足を止め、聞き覚えのあるピアノの旋律に耳を傾けた。
 肩にかからない程度の艶やかな白銀の髪に、よく映える紅い隻眼。右目は黒の眼帯で覆われ、その下をうかがい知る事はできないが、それでも十分、彼は人々を惹きつける整った顔立ちをしている。
 しかし、細身の長身を黒衣に包んだその姿は、豪邸の立ち並ぶ一郭に不釣合いだった。他人から猜疑心を抱かれてもおかしくないのだが、彼が気にする様子はない。

「……」

 暫くして、青年は周りに人が居ないことを確認すると、トン、と軽く地を蹴った。そして屋敷の外壁を容易に乗り越えたかと思うと、広い庭の中へ、瞬く間も無く姿を消した。



***



「最後まで弾かないのか?」

 大きな部屋の隅に、ぽつんとピアノが置かれている。
 その傍で声を掛けられた少女が一人、状況を飲み込めずに窓を見つめていた。
 細かい装飾の施されたレースカーテンが風に揺れ、その後ろに人の姿が見え隠れする。
 開かれた大きな窓からは、いつも暖かな日の光と心地よい風が入ってきていたが、人が来訪した事はこれまでに一度も無かった。

(一体どうやって……)

 この部屋が人が容易に昇り降りできる高さにない事を、少女は良く知っている。
 相手は空を飛べるのか、そうでなければ自分は夢を見ているのでは、と少女が自分自身を疑いかけたとき、風でカーテンが一段と大きく揺らめいた。
 そして彼女の青い瞳が、はっきりとその者の姿を捉える。——黒衣を身に纏った、白銀の髪の青年がそこにいた。目が合った、と少女が思った瞬間、彼は小さく笑ったようだった。

「俺は質問したんだけどな。お嬢様は俺と口を利いてくれないのか?」
 堂々と部屋の中へ踏み入りながら、青年が再び答えを求める。

「あ、その……、途中までしか覚えていなくて……」
「……ふぅん」
「今はもう、楽譜も無いので……。でも、とっても素敵な曲でしたのよ」

 少女に臆した様子は無く、青年に向かってやわらかく微笑んだ。ゆるやかにウェーブした、彼女の桃色の髪がふんわりと揺れる。

「——知ってる」
「え……?」

 青年が少女のもとに近づき、ピアノに手を触れた。
 不思議そうに少女が青年を仰ぎ見れば「その曲、」と彼が鍵盤を見つめて呟く。

「……聞きたいなら弾いてやるよ」
「! ぜひっ」

 少女がぱっと笑顔になる。
 部屋が心地よい旋律で満たされたのは、それから程なくしての事だった。


Note#00 END