複雑・ファジー小説

第一楽章 ( No.18 )
日時: 2012/07/26 13:48
名前: nmmt ◆/QXiUp6Whg (ID: IXZEaJaO)

Note#02 深緑の中に溶ける涙



 木々の間から日が差し込む。
 澄んだ空気に満ち、ひんやりとした風が吹き抜ける山道を二人が歩きはじめてから、どれだけの時間が過ぎただろうか。

(軽く越える……はやっぱり無理か)

「休憩したほうが良さそうだな」

 緩い山道に息を上げるジュディットを見て、ヴァイネが声をかけた。
 街道を歩いていた頃はまだ順調といってもよかったが、山林に入ってからはだんだんと歩く速度が落ちていた。歩くたび広がる二人の距離を、時折ヴァイネが立ち止まることで埋め、ゆっくりと登ってきたのだが、まだまだ先は長い。

「ごめんなさい……」
「仕方ないさ。屋敷の中じゃ、こんなに動くことなんて無いだろ」

 ヴァイネは追手のことを常に気にしていたが、決してジュディットを急かさなかった。彼女が身に纏っているものでは平らな道を走る事もままならないと分かっているからだ。山道を無理に歩かせれば、足を痛めるのも目に見えている。
 実際に、ジュディットはヴァイネに優しく笑って励まされるたび、涙が出そうになるのをこらえて登ってきたが、体力は既に限界に達し、気力だけで歩いているようなものだった。フリルをふんだんにあしらった丈の長いドレスと、窮屈な高いヒールの革靴が、彼女をさらに苦しめていた。

(街に着いたら宿屋の次に服屋だな……。まぁ、それもお嬢様次第だが)

 ヴァイネは荷物の中から水筒を取り出し、大きな岩を椅子代わりにして休むジュディットに手渡した。

「水分補給しっかりしておけよ」
「ありがとう、ございます……」

 ジュディットは乱れた呼吸を整えながら、笑顔を作った。受け取った水筒をしばらく眺め、ジュディットは深呼吸して目を閉じた。……ひんやりとした清らかな空気と小鳥のさえずり、そして風に揺れる葉の音が心地よく身に染みた。今まで触れる機会のなかったものが、手を伸ばせばすぐ届く距離にある。無闇に触れると危険だと言われて、可愛らしい小さな花や瑞々しい実をつけた草木も眺めるだけだったが、ジュディットは満足していた。
 ただひとつ恨めしいのは、自分の乏しい体力だった。じんじんと足が痛み、身体がもう限界だと訴えていたが、歩くのをやめたいとは思わなかった。

第一楽章 ( No.19 )
日時: 2012/07/26 14:32
名前: nmmt ◆/QXiUp6Whg (ID: IXZEaJaO)

「……今頃、お屋敷の連中がお嬢様を探し回ってるだろうな」

 ジュディットがその声の方へ目をやると、ヴァイネは切り立った岩場の先に立っていて、草木も無く視界が開けた崖から、眼下を眺めているようだった。
 ジュディットもごつごつとした岩場に近づいて、彼の後ろから恐る恐る見下ろした。
 そこからは先ほど歩いてきた平野と、今日まで暮らしてきた街が一望できた。綺麗な円を描くように、建物が密集して成り立っている街の中心には、シンボルである大時計台がそびえ立っている。その傍に大きな屋敷が立ち並ぶ貴族街があるが、ジュディットにはどれが自分の屋敷か分かるはずもなかった。


「今ならまだ引き返せるぞ」

 ジュディットの目に光る涙を見て、ヴァイネが声をかける。

「いえ、違うのです」

 ジュディットは首を横に振り、涙を服の袖口でそっと拭った。

「……今までお屋敷の外に出ることを諦めていましたの。でも、こうして街の外まで来て、景色を眺めることが出来て、それがとても嬉しくて……!」

 感情があふれ、再び潤みはじめた青の瞳を閉じて、ジュディットは柔らかい笑みを浮かべた。

「貴方が訪ねてくださって、本当に良かったと思いましたの。だから、後悔はしていませんわ」
「……そうか」
「はい、まるで幸せな夢を見ているみたいです」

 ジュディットは目下に広がる景色を眺めながら、どうか夢なら覚めないで欲しい、と心の中で呟いた。



***

第一楽章 ( No.20 )
日時: 2012/07/26 14:33
名前: nmmt ◆/QXiUp6Whg (ID: IXZEaJaO)


 ぱちぱちと焚き木の燃える音が、少し離れた場所から聞こえる。日が暮れてかなりの時が経ち、辺りを照らしているのは月明かりと焚火の炎だけだ。
 周囲を観察するのに適した場所で、ヴァイネは太い木の幹に背中を預け、一人で寝ずの番をしていた。

 夕暮れまでに山を抜ける事は無理だと分かっていたので、ヴァイネは日が傾く前に野営の準備を済ませていた。しかし、もともと一人旅の予定だったため、手持ちの食材はかなり限られている。ヴァイネは明日以降のことを考えて、食べられる山菜や果実をジュディットに教えながら、二人で採取したものを食材に加えた。山中の夜は特に冷えるため、それらを近くの泉で汲んできた湧き水で煮込んで、固形の調味料を溶かし、とろみのついた温かいスープを作った。ジュディットは粗末な食事でも文句を言わず、それどころか嬉しそうに美味しいと言って食べるので、ヴァイネは気が楽だった。
 食事が済むと、ジュディットは日中の疲れからウトウトしはじめ、すぐに眠りへ落ちていった。
 ヴァイネは使う予定のない自分の寝具をジュディットに与え、独りになりたくて彼女の傍をそっと離れた。

 大抵の魔物や獣の類は火を恐れて寄り付きはしないし、用心のためにジュディットが休む場所を中心に結界も張ってある。後はこういった場所を根城にする山賊を警戒していればいいだけだったが、寝不足と気疲れが溜まった所為で頭が重く、集中力は切れかかっていた。

(……何やってんだろうな、俺は)

 包帯代わりのリボンが巻かれた手のひらを見つめて、ヴァイネは溜め息を零した。——夕食の準備を手伝いたいと申し出たジュディットに気をとられ、誤って調理の最中に自分の手を切ったのだ。流れ出る血を見て涙を瞳に溜めながら、解いた自分のリボンで必死に応急処置を施そうとするジュディットを見ていると、己が術を使って傷を癒せることも言いにくく、されるがままになっていた。
 ここしばらく単独で行動していた所為だろうか、調子が狂うな、と思いながら目を閉じて、張り詰めた神経を休めていた時、ヴァイネはふと近くに人の動く気配を感じた。

「それ以上動くな」
 言うと同時に、素早く抜刀して相手の前へ突き付ける。

第一楽章 ( No.21 )
日時: 2012/07/26 14:39
名前: nmmt ◆/QXiUp6Whg (ID: IXZEaJaO)

「きゃ!」

 短い悲鳴が上がり、ヴァイネの目の前には、へたりと地べたに座り込んだジュディットの姿があった。

「——っと、悪い、大丈夫か?」

 ヴァイネは剣を収め、手を差し出した。

「あの、ごめんなさい。わたくし、眠気醒ましにと思って、ヴァイネ様に珈琲を……」
「いや、今のは確認しなかった俺が悪かった。ありがとな、火傷してないか?」
「はい、大丈夫です」

ヴァイネはジュディットからカップを受け取って、早く休めよ、と微笑を向ける。

「あ、あの……」
「ん、どうした?」
「わたくしも、ヴァイネ様の隣にいてもかまいませんか? わたくしだけ眠るなんて出来ないです……」

 一人休むことに気が引けるのだろう。しかし日中歩き詰めで、体力の無いジュディットが疲れていないはずがない。

「気持ちはありがたいが、ジュディット嬢は昨日寝てないんだろ? 
 俺とお嬢様とじゃ体力も経験の差も違うんだ、無理して合わせようなんて考えなくていいんだよ。明日もまだ歩かなきゃいけないし、休める時はちゃんと休んでおくもんだ。素直に従ってくれるほうが俺は助かるんだが……分かってくれたか?」

親が子に諭すように、ヴァイネは優しい口調で言い聞かせる。

「……分かりました。えっと、その、……心細いので、何処にも行かないでくれますか?」
「ああ、夜が明けるまでここにいるって約束するよ」

ジュディットはその言葉を聞いて、ほっと安心したような笑顔を見せた。

「ありがとうございます。……ヴァイネ様も無理しないでくださいね、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」

第一楽章 ( No.22 )
日時: 2012/07/26 14:39
名前: nmmt ◆/QXiUp6Whg (ID: IXZEaJaO)

 大人しく焚き火の傍へ戻るジュディットの姿を、ヴァイネはぼんやりと目で追って見届けた。そして彼女が淹れた珈琲を何気なく一口飲んだのだが、ヴァイネは想像と違ったその味に、ごほごほと激しく咳き込んだ。

「——にが……っ! 砂糖、全然足りてねぇ」

 普段眠気覚ましに飲んでいるものと同じものが、全く別物のように感じられた。ヴァイネはしばらくの間カップを睨んでいたが、腹を括ったように勢い良く飲み干し、空になったカップを足元に置いた。そして血で赤く染まったリボンを解いて腰のポーチに仕舞い込み、ジュディットの元へ向かって歩く。その手にもう傷跡は無かった。

(本当に何やってるんだろうな、俺は。お嬢様に気を取られて、周りが見えなくなってどうすんだ)

 すやすやと寝息を立てている彼女は、深い眠りに落ちていて、朝まで目を覚まさないはずだ。ジュディットの寝顔を眺めながら、ヴァイネは険しい表情を浮かべていた。先程から周囲の空気に殺気が混じり、肌に冷たく刺さっている。多方向より感じられるところからして、囲まれているのは間違いない。

「……遠慮せずに出て来たらどうだ。朝まで隠れんぼするつもりじゃないんだろ?」

 ヴァイネが挑発するように笑うと、ザザ、と草木をかき分ける音がして、黒衣の集団が姿を現した。その数は目視出来るだけで五、六人程度か。

「一応聞くが何の用だ?」

 敵を射るように見るヴァイネの隻眼は冷たく、人を斬るのもいとわない色をしている。

「娘と金目の物を渡せ」
「お断りだな。渡したってろくな事に使わないだろ」
「フン、お前はこの状況が分かって言ってるのか?」

 一人が言うと、周りの山賊たちもせせら笑う。

「いかにも俗っぽい言葉だな。どうでもいいから早く来いよ。俺の命も奪うつもりなんだろ?」
「ナメやがって。望みどおり殺してやるよ!」

 その一言を合図にしたように一斉に迫り来る男たちを見ながら、ヴァイネは平然とした様子で剣を抜き、軽く振って笑みを浮かべた。まるで今の状況を楽しんでいるかのようだ。

「やれるもんならやってみな」

言うが早いか、ヴァイネは風を纏って地を蹴った。



***