複雑・ファジー小説

Re: ブラッドエッジ ( No.3 )
日時: 2012/07/15 23:39
名前: 緑川 蓮 ◆vcRbhehpKE (ID: U.L93BRt)

 かん、かん、かん、と、非常階段を駆け上がる音が響く。都会の夜空は相変わらず星が少ない。只でさえ風情が無いというのに、静けさまでぶち壊して男は走る。
 当然ながらエレベーターもある筈のビルの、わざわざ非常階段を駆け上がる。つまり、男は確実に『誰か』から逃げているのだ。
 しかし、男にはそいつから逃げきる算段も、それを実行できるという自信もあった。

 ———今回の取引は中断せざるを得ないが、逃げきればどうとでもなる。今回の『薬』の取り引き、受け取る側のこちらには何の落ち度も無かった。
 何せ俺の役割は上の人間達が依頼した『薬』を受け取るだけ。そんなことは何回もやってきたし、何回も成功させてきた。情報が漏洩した原因は向こう、取引先にあるとしか思えない。
 そっちの落ち度なんか知るか。勝手に捕まっておけ。間違っても俺達の情報を吐いたりするんじゃねえぞ……。
 だが、それ以外は簡単だ。この———電磁波を操る端末———で警備人造人間、つまり『ガードロイド』共の回路を狂わせて、暴走させればいい。
 巨大なビルには、大概多くのガードロイドが控えている。それらが一気に暴走したとなれば、幾ら『断罪者(エクスキューショナー)』とはいっても簡単には追ってこれやしない。もしかしたら断罪者まで暴走しちまうかもなあ……?
 そして何より、暴走した『アンドロイド』は、動力中枢及び思考中枢———つまり、人間で言う心臓や脳———を破壊しない限りは、止まらない。強みである筈のそれを利用すれば、強力な壁になるのだ。
 さあ、思う存分暴れやがれ、デク人形共!———

 口の端を歪め吊り上げた男は、小さい板のような端末のボタンの内の一つを押した。



♪   



 業務用ガードロイド『サイクロプス』。一つ目の化け物の名を冠するだけはある見た目と、その馬力。都内の企業の警備にはよく見かけられるアンドロイド。
 白い曲線に包まれた巨体、眼の代わりの一眼カメラ。それらは見る者に頼もしさを与える筈であった、が。
 それらは今暴走し、ビルの中から飛び出し、かけずり回り、窓を割り、壁を砕き、床を壊し、鉄柵を曲げ、大挙して押し寄せる。赤い一つ目を輝かせ、怒り狂ったようにサイレンを鳴らす。非常時のサインを示す色。
 そしてサイクロプスの群れは今、非常階段を駆け上がる少年に襲いかからんとしていた。少年の髪の色もまた、緋色。男なのか女なのかわからない整った顔立ち。
 服の色はモスグリーン。首元に赤いネクタイが見えるが、とてもスーツには見えない。似たものを強いて上げるとすれば、陸上自衛隊の制服だろうか。更にその上から防弾チョッキのようなものを着込んでいる。
 少年は華奢な体で、しかし表情一つ変えずに非常階段を駆け上がる。少年を壊さんとばかりに、サイクロプスの大群が非常階段を潰さんばかりの勢いで襲いかかる。





   

 男はドアを端末でハッキングしてこじ開けた、最上階の一室に身をひそめていた。この部屋であれば、サイクロプス達でさえも入ってこれない。社長室は明日の朝になるまでは完璧に安全だ。このビルに警察が来たとしてもサイクロプス共にてこずるのは明白。それに紛れて抜け出してしまえばいい、と男は考えていた。
 そう、サイクロプス。今このビルの中では、サイクロプス共が大暴れしている筈である。だというのに、さっきまでの下階からの騒音は消え失せて、すっかり夜のしじまを取り戻していた。
 男の脳内に、嫌な予感が走る。でもあり得ない。このビルには少なく見積もっても、五十体のサイクロプスが配備されているという話であった。まさか。いや、でも、あり得ない。あり得ない……。

 次の瞬間。ぴしぃん、という小気味好い音と共に、扉が———サイクロプスでさえ破ることのできない強固な扉———が、右斜め四十五度に両断された。
 重い音を立てて切り倒された扉の向こうに佇んでいたのは、緋色の髪の少年。陸上自衛隊のような軽装備に身を包んだ少年。少年の左袖は、手首から肘のあたりにかけてが破けていた。が、その他は全くの無傷だった。
 端整な顔立ちの少年は、男の方に向かって静かに一歩を踏み出す。

「く…来るんじゃねえっ!」

 男は華奢な、しかし得体の知れない少年に拳銃を向ける。確証も無い。だが、何故か男は、目の前に居るこの少年に得体の知れない恐怖を感じた。

「大人しく投降しろ」

 少年らしい、凛とした済んだ声であった。淡々と言い放ち、少年は躊躇いもせず、男に歩みを進める。

「来るんじゃねえって言ってんだろうがぁ!」

 恐怖にたまりかねた男は少年に向けて引き金を引く。銃声。弾丸は一直線に少年の額に飛んでいき、その頭を穿いた———かのように見えた。
 頭部に弾丸を喰らった衝撃で天井を向いた少年。しかし再び犯人を向くと、やはり全くの無傷、その端正な顔立ちには傷一つもついていないのであった。

「え…———」

 驚きのあまり声も出ない男を意にも介さず、少年は地面と水平に左腕を持ち上げる。



 少年———もとい、そのアンドロイドの左腕が、手首から肘の中央の直線上を沿って引き裂かれる。顕れたものは、長さは少年の指先から肩ほどまである———深紅の刃だった。



 更に驚く暇も与えない。風を切り裂くほどの疾さで男の懐に飛び込み、拳銃を、端末を刃で切り裂く。足をかけて男を転倒させる。男が受け身をとる暇も与えず男の上に馬乗りになって、

「ひィッ!?」

 肘の先から伸びた切っ先を男の頭のすぐ横に突き立てる。

「や…やめろ、殺さないでくれ!」
「安心しろ。ボクは『アンドロイド』だから人を殺せないようにできている。それにもうじき警察が来る。武器も端末も破壊した。もうお前に打つ手は無い」

 きん、と音がして刃が床を少し抉る。男は小さく悲鳴を上げ、人造人間は男に顔を近づける。

「ボクの役目は暴走してしまった『仲間』の介錯と、その原因の排除だ」



【機械人間戦譚『ブラッドエッジ』開始】