複雑・ファジー小説

#56 ( No.80 )
日時: 2013/05/10 23:33
名前: 星の欠片 ◆ysaxahauRk (ID: t7vTPcg3)



 電車が来るまで、あの案山子は余計な戯言を繰り返すだろう。
 不愉快ならないので、別の駅から街を出ることも考える。
 しかし、それは考えただけで、実行には至らなかった。
 否、至れなかった。
「……開放しなさい」
『君が真に拒んでいるのなら構わないが、心の底で思っているのではないかい?』
 身体中を鎖で縛られているかのように、指一本動かせない。
『復讐。それを果たしてあげよう。君は後一歩、憎悪を歩ませるだけでいい』
 復讐心は無いと何度言ったら分かるのだろうか。
 まぁ、心というものは自分の自覚していない感情もあるらしいので、その辺りをあの案山子が感じ取ることが出来るのなら、何ら不思議ではない。
 しかしその心の奥底にあるらしい私の復讐心は既に私の気にならないものに違いは無い。
 それを引き出したところで、どうでもいい事でまた坊や達に迷惑をかけるだけなのだ。
『君が知らないだけで、その復讐心は水面にある。何をしなくとも数年経てば出てきてしまうさ』
 だからどうしたというのか。
 人は常に変化し続ける生き物だ。
 ここから先、真っ当な人生を歩み続けるならば、そんな復讐心、消えてしまう。
『それで良いのかい? ますかれぇど、かい? 彼らへの手向けの花の一つでも与えてやりたいだろう?』
「……記憶を探らないで。あの子達の名前を口に出す権利は貴方にはない」
 脳を探られ、記憶を覗き込まれる精神的な嫌悪感。
 今すぐにでもその報いを受けてもらいたいが、身体が動かせない今、それは叶わない。
『さあ』
 ただ一時、身を委ねてしまえば、身体は動くだろうか。
 すぐに拒絶して、逃げ出してしまえばいい。
 これは逃げるためだ。
 私は坊や達への復讐心など無い。
 だから、逃げるために、敢えて一瞬気を許すだけ。
 逃げようとした身体はやはり動かず、何ともいえない後悔が襲う。
 仕方ないのだ。こんな人外の能力、“普通の人間”である私に抵抗など出来るはずもない。
「君は凄いな、九道 金子」
 不意に口から、予期しない言葉が紡がれた。
 そうか、と、案山子が身体に侵食していくのを悟る。
 薄れ行く意識の中、私の声で聞こえてくる案山子の言葉は、
「これだけ誘導しても少しの復讐心も出てこないとは。安心したまえ、身体を少し借りるだけだ。その子供達に危害は加えない」
 “心”の底から愉しんでいるような声色だった。



 しばらく(リヒトが)和菓子を満喫した後、店で販売していた(リヒトが)茶を飲んでいた。
 店内で一番高い粉末茶のパックを開け、店の奥から急須と湯飲みを持ってきて三人分の茶を淹れ、飲み始めたのだ。
「さて、ま、そんなワケでシャッテンとあんたの護衛に就くことになったリヒト。リヒト・ツヴァイよ」
 よろしく、と湯飲みを持っていない方の手を出されたので握る。
 レジェンズとはいえ、華奢な体つきは間違いなく女の子のものだ。
 そういえば、とふと気になった事を口に出してみる。
「ところで、二人は何のレジェンズなんだ?」
 リヒトが茶を飲み、一息ついてから答えた。
「ドッペルゲンガーよ」
 ドッペルゲンガー。
 生きている人間の生き写し。
 自分の姿が何故か覚えの無いところで目撃されたり、“自分”が“自分”とは違う“自分自身”を見る減少。
 また、自分自身のドッペルゲンガーと出会ってしまうと、それは寿命が尽きる寸前の証と言われている。
 自己像幻視という、脳の機能の損失による錯覚がその正体だとも言われるが、それでは第三者がドッペルゲンガーに遭遇するという事象の説明がつかないため、今でも代表的なオカルト話とされる。
 いや、謎に包まれたこの現象、その正体が目の前に居るという事は、この二人に聞けばその秘密が分かるのでは?
「ドッペルゲンガーか……。なぁ、あの現象ってどうやって起きているんだ?」
 昔から割と気になっていた事ではある。
 この秘密が今、遂に解ける——


「……シャッテン、説明よろしく」
「え!? いや、僕にもよく……」
 あれ?
「あんた、それでもドッペルゲンガーのレジェンズなの? 何か少しでも知らないの?」
「リヒトだってドッペルゲンガーじゃないか!」
 えぇー……
 どうしてこうなった。
 まだまだレジェンズは、謎が多い存在のようだった。