複雑・ファジー小説
- Re: ついそう ( No.21 )
- 日時: 2012/10/21 20:31
- 名前: 揶揄菟唖 ◆bTJCy2BVLc (ID: w1J4g9Hd)
+18+
お金を渡された。
これで髪を切り、そして黒髪にして来いというのだ。その間に三春は僕が選ばなくて済むようなものを買ってきてくれるらしい。
僕は片手にお金を握ったまま、しばらく動けなかった。予約をしなくても髪を切ってくれるらしいその美容室は、もちろん見覚えはない。こじゃれた雰囲気だけど、平日のせいか人は少ない。外からでもカットしている所を見ることができるその美容室。
僕は目立つのは好きじゃない。でも、今は金髪だ。きっと目立って居る。背も高いし。
それでも、一歩を踏み出すことができない。でも、僕は三春に言われたから。美容室の扉を押して、中に入る。
お決まりのセリフと笑顔で迎えてくれた女の店員は、僕を見て少しだけ驚いて、そして頬を染めて下を向く。
僕はカウンターに近づいて、お金を置く。
「あの、カットを」
「ポイントカードはお持ちですか?」
「あ、えっと、要らないと、思います……」
三春以外の人間と話すのは初めてだ。女性店員は顔を上げてしっかりと僕を見上げてくれているのに、僕は自分の指を見ている。
両手の指は絡まったり、汗で滑ったりして忙しそうに動いている。
僕、しっかり言えなかった。この金髪も、黒にしてくださいって、言えなかった。僕は、僕は。三春の言ったことを、守れなかった。どうしようか。僕は、僕のことを勝手に決めていいという権限があるのかもしれない。
僕を案内するために女性店員は店の中を進んでいく。僕はその背中を何も言い出せないままに追いかけていった。
そして、椅子に座らせられて、体の周りをすっぽりと包む涎掛けみたいな物をつけられる。
鏡を見ると、前に風呂場で見た僕とは違って、綺麗でこの空気に溶け込んでいる僕がいた。
僕、記憶がないのに随分と普通だな。もっと慌てるべきなんじゃないだろうか。
さっきの女性店員と、ずいぶんと顔の整った男の人が話している。耳打ちで、僕をちらっと見たから多分、僕のことだろう。
しばらくして、男の人が腰のホルダーから鋏を取り出しながら近づいてきた。ニコニコと笑っていて、良い人そう。
横に会った背もたれの無い椅子に腰を掛け、僕の髪に触る。
「こんにちは。ボク、忌屋卓巳っていいます。今日はお願いします」
鏡越しだと、怖くないというか、普通に声が出る。
目を覚ました時、三春の出す音が怖かったのは、なんでだろう。三春だったからかな。この人は男の人だし、優しそうだし話しかけやすそうだ。
「……僕は、坂本秋です」
すると、忌屋さんはきょとんとして、くすくすと笑った。僕はなんだか恥ずかしくなって顔に熱が集まる。
忌屋さんは笑いを押し殺した後、目じりの涙を指で拭った。そんな姿もすごく、絵になるな。
この人はすごくカッコいい。僕よりは背は低いようだけれど、ジーンズに包まれた足は、すらりと伸びていて長い。
「すいません。お客様は名乗らなくても結構ですよ」
ああ、そうか。何だか反射的に、返してしまった。そうか。僕はお客なのか。
俯いてから、鏡で忌屋さんを見ると、もう営業スマイルに戻っていた。
僕は、こんな風な笑顔をしたことがあるのかな。