複雑・ファジー小説
- Re: ついそう ( No.22 )
- 日時: 2012/10/24 20:23
- 名前: 揶揄菟唖 ◆bTJCy2BVLc (ID: w1J4g9Hd)
+19+
忌屋さんは時々くだらないことを聞いてくるだけで、あとは黙って鋏を動かしていた。そんな忌屋さんの無駄のない動作は、男の僕でも見惚れるものがあるほど綺麗だった。
まあ僕はそんな趣味は無いから、すごいな程度にしか思わないけど。
「綺麗な金髪ですね、いつ染めたんですか?」
忌屋さんは僕を鏡越しに見てくれる。
僕は答えにくいその質問に、目線を逸らした。忌屋さんの鋏はしっかり動いているから、頭自体は動かさない。
言葉に詰まる僕に、忌屋さんは不思議そうな顔をしている。
「それが、あの、分からないんです。僕、なんか知らないけど、起きたら何も覚えてなくて、こういうの、多分記憶喪失っていうと思うんですけど、」
言葉に詰まりながら、恐る恐る口に出す。すると、忌屋さんは驚いたような顔をした。それも当然だと思う。記憶喪失なんて、きっと世間一般には珍しいだろうから。
僕に、何があってこんな記憶喪失なんかになってしまったのだろうか。僕は記憶を取り戻すことが、できるのかな。
僕の髪を切る忌屋さんの手が、一瞬止まる。それでもすぐに動き出した。すごいな、プロ根性かな。
長い前髪を櫛で上に持ち上げて、丁寧に切っていく忌屋さん。
細くて長い指の先の爪には、男の人なのにマニキュアがしてあって、おしゃれなこの美容院の雰囲気に合っていると思う。
「それは、ごめんなさい」
「え、良いんですよ」
なぜか僕を憐れむような目で見る忌屋さん。
そういう質問をされるより、そういう目で見られる方が、辛いんだけど。
そんなことを僕が言えるはずも無いから、ただ床に落ちていくさっきまで僕の体の一部だったものを、目で追う。はらりと落ちて、白い床を汚していく金髪。
忌屋さんは、それ以来口が重たくなってしまったようだ。だから、僕は今までのことを整理するように、一人で喋り続けた。
だって、そうしないと、誰かに聞いてもらわないと、僕がこのまま世界から忘れてしまうんじゃないかって、怖かったから。
僕はいつか、誰の記憶にも残らず、死んでいくのだろうか。
「今は、三春って女の子と一緒で。僕の恋人だったらしいんですけど、婚約もしてて、でも、そんなの憶えてなくて、僕の持ち物に指輪なんて無かったし、それが本当なのかどうか信じることもできなくて。でも、三春、僕のために躊躇いもなくお金を使ってくれるから、信じても良いかなって、思ってるんですけど、でも、やっぱり怖いんです。僕、誰なのか、正解が、分からないから。まだ、誰が僕の味方なのか分からないから」
僕の言葉を、じっと忌屋さんは聞いて居てくれた。聞いてくれてなかったのかもしれないけど、それでも良かった。
ただ、僕は聞いてくれることだけが嬉しかった。
初対面なのに、忌屋さんにこんなことを自己満足で話すのは迷惑だろうけど、止まらなかった。
ザクリと切られた金髪と一緒に、僕の涙が床ではじけた。
何やってんだろう、僕。