複雑・ファジー小説

Re: ついそう ( No.49 )
日時: 2013/01/11 21:17
名前: 揶揄菟唖 ◆bTJCy2BVLc (ID: KRYGERxe)



+46+


爪を噛んだ。

あの人が欲しい。

頭を掻いた。

あの人が欲しい。

皮膚を裂いた。

あの人が欲しい。

喉を潰した。

あの人が欲しい。

目玉を焼いた。

あの人が欲しい。

あの人が欲しい。

あの人が欲しい。

頭からあの人が離れてくれない。

熱いあの日の蝉の鳴き声とともに、あの人のことが頭から離れない。

あの人が欲しい。

ただ欲しい。

あの人が欲しい。

欲しくてたまらない。

手に入れるためにはどうしたらいいだろう。

あの人が欲しい。

手であの人の柔らかそうな髪を撫でたい。

あの人が欲しい。

会いに行こう。

会いに行かないと。

じゃないと頭が破裂しそうだ。

あの人が欲しい。

あの人が、


 + + + +


腹の中が空っぽなんだ。

消えそうな声で自分に言った。
頭の中だけで響く声にならない訴えは、自分の『うん、知っているよ』なんて返答で改善されることは無かった。

頭の中が空っぽなんだ。

唇を開いて言った。
開いただけだった。微かに動かしただけだった。
水分がなくなってかさついて、ひび割れた唇はほのかに鉄分の味がする。
そんな味すらどうでもいいくらい、頭が正常に働かない。

目玉の中が空っぽなんだ。

小さく開いた唇の間から、ひゅっという変な空気の残骸が零れ落ちた。
瞬きをしているのかどうかわからない。
誰もいないこの部屋の中には音がない。
この部屋に一人きりの自分が何も言わないから。何もしないから。

ふいに、何もないはずの目玉の中から涙が滴り落ちる。

寝そべっている自分の頬を伝って、髪の中に紛れていく。
一粒だった。哀しいくらいに一粒だった。
その涙は一粒っきりで空気になっていくんだろう。
後を追う涙は無い。
その涙をふくことすらどうでもいい。

何もない。
何も残っていない。自分には何もない。

ベッドのわきにある写真立てには、楽しそうに笑っている人が写っている。

なんで。なんで、なんで。
なんであの人は。
なんで。どうして。

誰に聞けば、誰に訴えれば、この答えを返してくれるだろう。

わからないよ。

それすらも声に出ないほど、すべてが乾いている。