複雑・ファジー小説

Re: ついそう ( No.54 )
日時: 2013/01/16 16:51
名前: 揶揄菟唖 ◆bTJCy2BVLc (ID: KRYGERxe)



+51+


駅の近くだった。人通りが多い、駅の向かい側のアパートの三階へ聖さんは躊躇う様子もなく登っていった。そして、その一番奥の扉の前で聖さんは足を止めた。
その扉はガムテープが幾重にも重なって貼られていた。まるで誰も入れないようにするかのように。
聖さんはそのガムテープを容赦なく引きはがしていく。僕はそれをただ戸惑いながら眺めていた。

「なんで聖さんは僕をここに連れてきたんですか」

僕はカラカラの喉で聖さんの言葉を求める。
僕は何もないから。繰り返したこの言葉にはもう何の悲しみもない。僕はこの僕を受け入れるしかないのかもしれない。そう思ってしまってきている。
僕は一体、何をしているんだ。
三春今何をしているだろう。穏やかに眠っていてくれると嬉しい。
三春の寝顔を思い出すと自然と心が落ち着く。
三春が今どんな気持ちでいるかなんか分からない。
僕は記憶を一刻も早く取り戻したいのだ。僕のためということもあるけれど、もちろん三春のためにも。

聖さんはガムテープを持ったままドアノブをひねって扉を開く。ほこりを立てて扉が開いた。人が居ないせいなのか冷たい空気が漂ってくる。
部屋全体が死んでいるかのように静かで不気味だった。

聖さんは電気もつけずに部屋の中に入っていく。パンプスを脱ぐことも無かった。
そして、僕を床に突き飛ばす。
僕は肩を打ちつけて一瞬戸惑った。暗い部屋の中、ボロボロのカーテンの隙間から光がこぼれている。
僕は体を起こそうとしたが腰辺りに聖さんが馬乗りになってきた。腹が圧迫されて、そして同時に額に突き付けられたものを見て息をのんだ。

まただ。
眼球がそれをとらえて離さない。
僕は目を閉じることができなかった。
受け入れることができなかった。

「君を、殺すためだ」

また僕は騙された。同じ失敗をしている。
聖さんは信じない方がいい。
そう思っただろ。僕に対してよくない事をしようとしているのは確かだって思ったじゃないか。

僕は息を長く吐き出して、そしてゆっくりと目を閉じた。
落ち付いていく呼吸と、目覚めていく頭。
大丈夫だ。
僕は記憶を取り戻して三春のもとへ帰る。

「……何で」

僕が落ち着いているのを見て聖さんはすごく驚いたみたいだけれど、いつまでも僕は止まっているわけにはいかない。
何時までもうじうじしてなんかいられない。聖さんは悲しそうな顔をしている。
三春さんの黒い長い髪の毛先が、僕の頬を軽く撫でているのが少しくすぐったい。
僕はまじめな表情で、今にも泣きそうな聖さんの目の見返した。

「秋が、いや、君が記憶を失ったからだ」