複雑・ファジー小説
- 水色のシュシュ ( No.1 )
- 日時: 2015/08/30 22:37
- 名前: 雷燕 ◆bizc.dLEtA (ID: a6RsoL4B)
水色のシュシュ
「地球最後の男の部屋にノックの音がした。」とは、フレドリック・ブラウンの『ノック』という小説の全文だったか。一瞬背筋が冷やりとするかも知れないが、ノックをしたのは女だとかそういうオチだろう。
そんなどうでもいいことを考えている俺は、風のよく通る自分の部屋で、夏休みの宿題を広げたままだらけている。CDプレイヤーからは澄んだ女性ボーカルの歌声が響いていて、さて次は漫画に手を出そうかゲームに手を出そうか、そんなところだ。こんな、いちいち説明するのも馬鹿らしいほどありふれた状況にある俺が何故「そんなどうでもいいこと」を考えていたかというと、さっき、俺の部屋にノックの音がしたからである。
さてここで問題。今、俺の部屋のドアをノックしたのは誰だ?
可能性ひとつめ。地球最後の女。……しょっぱなから失礼。現在日本国だけでも約6000万人ずつの男と女が暮らしている。よってない。
ふたつめ。家族。うむ、ありそうだ。しかし残念、俺の両親は共働きで、平日のこの時間は両親共に家にいない。兄弟もいない。つまり夏休みの平日午前中のこの時間に家にいるのは、今日は部活が休みである俺の他無いのだ。
ではみっつめ。友達。なきにしもあらず、だ。俺の友達は随分とふれんどりーだから、インターホンに俺が気付かなくて玄関の鍵が開いていれば、入ってくることも考えられる。だが、そんな人間が部屋に入ってくる時にノックをするだろうか。否。する訳が無い。
では誰だ。ペットは飼っていないしこの部屋以外の窓は閉めてあるはずだから、動物がぶつかったとも考えられない。物ならば、あんな風にとんとん、とリズムよく2回だけ当たったりするとは考え難い。
……言っておくが、俺は幽霊だとか妖怪だとかの超常現象は一切信じないタチだ。人間の思考は電気の流れなのだから、霊魂などというものが存在するはずが無いだろう。仮に幽霊がいたとしても、一体何の物質でできているというのだ。目に見えたりカメラに移ったりするということは光を反射しているということなのだから、粒子でできているということなのだろう? 幽霊が物音を立てたりという話もあるが、それならば……。
ノックもできる、か?
いやいやいやいやありえない。断じて信じないぞ。死んだ人間が実在する物に影響を及ぼせるはずが無いじゃないか。そう思うんだったら何で「臨平闘者皆陣裂在前」って口ずさんでみてるかなんて、野暮なこと訊くもんじゃあない。
俺はCDをラジオに変えて(決して意味は無いからな)、席を立った。実はこの現象今日が初めてというわけではなく、1週間くらい前から続いている。今日こそは、今日こそは。2、3歩躊躇いながら歩いて一度止まる。そして覚悟を決めて一気にドアに近づき、それを思いっきり押し開けた。もちろん、誰もいない。
しかし心臓はバクバクいってる。馬鹿みたいだ。辺りを見回してみるが、部屋に入る前と何にも変わらない。当たり前である。小さなため息をついて、ドアを閉めようとしたとき、視界の隅で髪が揺れたのが見えた気がした。俺は3cmがいいところの短髪だから、俺の髪ではない。しかも見えた髪は鳶色で、俺の髪は黒。ああもうふざけるな。俺はドアを荒々しく閉め、ラジオから聞こえてくる会話に耳を傾けることにした。
しばらくして、携帯電話を手にとってアドレス帳を開き始める。塾とかやめてくれよ。……と思っていたら、たまの休みだから、見事にみんな予定を入れているようだった。俺は午後まで暇である。
だから、海に来た。
俺の町は海に近くて、ちょっと自転車をとばせばすぐに砂浜に来ることができる。俺は何かうまくいかないことがあると、しょっちゅうここへ来て海風に当たっている。そうするとどこか心がすっきりするのだ。
また今日の午後からは、クラスの大人数でここへ来て海水浴をする予定だ。そしてその後はバーベキュー、というスケジュールである。去年の同じ日にも、全く同じ計画を立てていた。その日は思い出の日であり、ここは思い出の場所だ。
去年の海水浴は、加藤美沙と一緒だった。彼女は夏がよく似合う快活な性格で、本人も夏が大好きだった。自分の名前をもじって「夏といったら蚊と海さ!」なんてよく言っていたものだ。そして彼女は、俺のカノジョだった。
高校に入ってすぐに意気投合し、1学期が終わってしまうという頃に俺が正直な気持ちをありのままに伝えた。俺には何故か絶対にフられることは無い、という根拠の無い自信があり、また、その自信は正しかった。彼女は僕の気持ちを受け入れてくれた。あのときの彼女の太陽のように輝く笑顔といったら忘れない。
夏休みに入って、俺達は何度も2人で会った。カラオケに行ったり、夏祭りに行ったり。彼女の浴衣姿は今でも反則だと思う。そんな時に、彼女の誕生日が近づいているので、サプライズでこの海水浴とバーベキューを開くことにした。美沙と俺の友達に声をかけまくって、最高の誕生日にしてやろうと思った。海水浴をしようと思ったとき、美沙の水着姿、としばらくはそれだけが頭の中をぐるぐるしていたのが懐かしい。
もちろんプレゼントも買わなければ、と女の子向けの雑貨屋へ行った。恥ずかしさを押し殺しながら、何をあげればいのか悩んだ末に、水色のシュシュを買った。本当はもっと高級な物を買いたかったのだが、いかんせん懐が寂しい状況だったので、財布を空にしてもこれが精一杯だった。それに、アイドルグループの影響も否定はできないが、彼女に絶対似合うと思っていた。海水浴のとき、彼女と2人きりになったところで渡すつもりだった。
——思い出に浸っている内に、胸のどこかが夏真っ盛りにはふさわしくない感情で満たされていってしまうのを感じで、自転車にまたがった。曇天のような気持ちを取り払い、その空白を疲労で埋めるべく、ただがむしゃらに自転車を漕ぐ。
家に着くと、母親が仕事から帰ってきていた。どこに行っていたの、という質問に友達の家だと嘘をつく。素麺をわんこそばよろしく高速で喉に流し込み、2階の自分の部屋に上がる。ドアを閉めて机に向かっている途中、ノックの音がした。
俺は自分でも驚くほどの速さで回れ右をして、勢いよくドアを開けた。今度はノックの主がちゃんと見えた。それは、母親ではなかった。いつもの明るい笑顔に、後ろで手に縛られている鳶色の髪。
美——
俺が声を詰まらせて瞬きをすると、彼女の姿は消えていた。……彼女は知っていたのだろうか、俺が用意したプレゼントを。待っていて、くれたのだろうか。
……何度も言うが、俺は死者の魂など信じない。
だが、生きている人間の幻聴と幻覚なら、信じる。
まだ集合時間よりもだいぶ早いが、俺は荷物と机の上のシュシュを持って家を出た。それらを自転車の籠に詰め込んで海へと向かって走らせる。海水浴場の駐輪スペースに自転車を止めて、バーべキュー用のも含めた荷物を持って更衣室へ入る。まだまだ昼食時のこんな時間に着替える人も少ないみたいで、人が1人もいなかったので、大雑把に服を脱ぎ捨てて海パンをはいた。
親切にも大きめなロッカーにすべての荷物を入れて、砂浜に出た。今日の空みたいな色のシュシュだけは、手に持っている。それを手首につけたあと、海の水に足を浸けた。澄んだ水は、ひんやりと涼しい。俺は沖の方へと歩いていき、水が腰の辺りにくるくらいの場所まで来た。彼女が、名字の書かれた石のある場所におとなしくいるとは思えない。いるとしたら絶対にここだ。
手首につけたシュシュを外して、もう一度手に取った。渡しそびれてしまったプレゼント。それを眺めながら、既に思い出と化してしまった『今』を思い返すうちに、目頭が熱くなるのを感じた。海水を顔にかけてごまかす。
未練を捨てて、前を向けって、ことなのか?
胸の中にある彼女の笑顔に問いかけてみる。無理だろ、とも思う。でも。……俺は水色のシュシュを海に浮かべた。波に揺られて上下するそれは、だんだん俺から離れていく。
「——誕生日おめでとう、美沙」
俺は回れ右をして、ゆっくりと砂浜まで歩いた。振り返りは、しない。
*
小説響会の企画に参加させて頂いたものです。お題は「夏」でした。
空色のシュシュにするかどうか迷いましたが、空というより水の話ですよね。