複雑・ファジー小説

夏の終わりと夜の空 ( No.13 )
日時: 2015/08/30 23:25
名前: 雷燕03 ◆bizc.dLEtA (ID: a6RsoL4B)

夏の終わりと夜の空



 力強いドラムの音に合わせて、拳を上へ突き上げる。腹の底から声を出す。その声たちが合わさり、広くないライブハウスに響く。やがてギターを弾いていたボーカルが歌い始める。その男の声は、決して多くない観客誰もを魅了した。

 客の男女比は三対七くらいで女性が多く、見える限りでは学生しかいない。皆ステージの上の四人に夢中だ。特にボーカルは整った顔をしているから、女性達の黄色い声援を浴びていた。夏の終わり、ただでさえうだる様な暑さなのに、今この場所は今年で一番暑い。熱い。

 そんな風に観客席を眺めながら、俺も熱狂の渦に入っていく。汗でシャツをびしょ濡れにしながらステージの上で声を張り上げる男が、こちらを向いて顔を綻ばせた。近くの客がどよめく。しかしあいつは俺を見て笑ったのだと、俺は知っていた。弟は随分前から、初めてのライブには絶対に来てくれと言っていた。

 曲が終わって、拍手と喝采が巻き起こる。「ありがとうございました!」とボーカルが言うと、四人は観客に礼をしてステージの袖へ帰っていった。アンコールがどこからともなく始まった。もう一回、彼らの曲が、弟の歌が、聞けるだろうか。


「すごい盛り上がりだったじゃないか。初めてとは思えなかったよ」
「高専祭ではやったことがあるからね。でも、こんなライブハウスでおれらだけを見に来た人達に向かって歌うのはやっぱり違うね。本当に緊張した。最初だけだったけどさ。もう楽しくて楽しくて」

 そう言ってタカシは爽やかに笑った。

 ライブが終わり、タカシと同じ工業高等専門学校に通っているのであろう学生たちが興奮冷めやらぬままライブハウスを後にする中、俺はステージの裏側へ向かったのだ。

 控え室では、バンドのメンバー達が汗で髪を濡らしたまま話していた。ステージからの風景、観客との一体感。それらを今日初めて経験した彼等は全員、俺と弟が通う工業高等専門学校、略して高専の生徒である。そして弟のバンドは、いくつものバンドがある高専の中でもかなりの人気があった。ボーカルギターをやっているタカシがモテるというのもあるのだろうけれど。

 タカシは俺を見つけると、水を飲んでいた手を降ろして「兄ちゃん!」と声を出した。一応ノックはしたのだけど、聞こえていなかったらしい。他の三人も一斉に注目してので、軽く挨拶をしてからコンビニで買った気持ちだけの差し入れを全員に渡す。それから上半身裸のタカシに話しかけた。顔も髪も汗で濡れているから、今のタカシを女性ファンが見たら喜ぶことだろう。

「歌、大分練習したんだろ? 前よりずっと上手くなってた。高音の伸びが綺麗だ。それにギターが凄いよ。ソロパートなんて、俺がいくら頑張っても弾けなさそうだ」

 一応俺が先にギターを初めはしたのだけれど、今では完全に弟のほうが上手い。

「ボーカルの歌が下手じゃ話にならないだろ。でも、ギターは練習すれば兄ちゃんだって弾けるさ」
「無理だって。俺はお前みたいに才能がない」
「才能があるとかないとか、そんな話じゃない」

 タカシが俺を見据える。俺はその瞳の力強さに心の中でたじろいだ。

「真剣に練習すれば、誰だって弾けるようになる。兄ちゃんはそうやって『できない』って言ってやらないからできないんだろ?」

 タカシの言葉は、ひとつひとつが一本のナイフとなって胸の奥に突き刺さった。いつも俺を必要としてくれて、いつも俺の味方をしてくれていた弟に非難されたような気がして、つらかった。実際にタカシが言ったのは全てただの事実で、そこまで俺を責める気はなかったのかも知れないが。

「……何でもできちまうお前には分からねえよ」

 自分でも驚くような嫉妬と拒絶の声が出た。タカシが眉をひそめる。不快だというより、どうすればいいか分からないといった様子。ああ、弟を困らせてしまった。弟は何も悪くなくて、ただ俺が駄目なだけなのに。

「今日何時ごろ帰ってくる」
「打ち上げがあるから、遅くなると思う」
「じゃあ夕飯はいらないな。母さんに言っておく」

 部屋の中の静けさが息苦しくて、必要事項だけを聞いてから俺は逃げるように部屋を出た。あの場所に居続ける強さも図々しさも持ち合わせちゃいない。

 外の世界は、夕日の橙色に照らされていた。会場の中とは違った蒸し暑さが漂っている。さっきまでのライブの喧騒が、とても遠い出来事のように感じた。ステージの上で強い光を放っていたタカシは、さながら西の空で情熱的に燃える太陽の様だった。それに比べて俺は、それをただ見上げるだけの存在だ。

 帰る内に、いつの間にか太陽を眺めることすらできなくなった。今日もまた一日が終わってゆく。


 夕飯を食べ終え、風呂から出てきても、タカシは帰ってこなかった。仲間と飲んで食べて騒いでいるのだろう。さっきの俺のことなんか忘れてくれてるといいんだが。

 俺は自分の部屋にぽつんとたたずむギターを見た。俺が中学生の頃に初めて手にしたアコースティックギターだ。今ではほとんど触らない。たまにタカシが練習用に使うくらいだ。

 ……弟に対してこれほどまでの劣等感を持つようになったのはいつからだったろう。俺によく話しかけてくれて好意を持っていた異性に「弟君紹介してくれない?」と言われた中学生だったあの時か。いや、もっとずっと小さい頃からだと思う。

 タカシは俺と違ってよくできた人間だ。まず見た目のスペックが違う上、勉強やスポーツ何をしても人並み以上にこなしてしまうタイプだ。それでいて忍耐力がある。さらに明るく人柄がいいので、男子からも女子からも人気を集める人物だった。

 そんな弟は昔から、すぐに兄の真似をしてすぐに兄を追い抜いてしまう。俺が夜空に興味を持ち親に頼み込んで望遠鏡を買ってもらうと、俺よりタカシが星に詳しくなっていた。サッカーでは俺は中学時代レギュラーになれなかったが、タカシはキャプテンだった。そういえばルービックキューブを先に六面揃えたのもタカシだったっけ。

 そしてギターもそうだ。俺がギターを始めると、やはりタカシはすぐに興味を示した。そして俺が使っていないときに「弾いてもいい?」と言って練習した。案の定タカシの方が上手に弾いた。俺は自分が下手なのをタカシに聞かれるのが嫌で、そのうちギターを弾かなくなっていった。今ではただ部屋に置いているだけのようなものだが、エレキギターしか持っていないタカシは、必ず使う前に俺に言って使い終わったらこの部屋に返しに来る。

 ライブハウスで歌うタカシの姿が再び瞼の裏によみがえる。あんなソロ、俺に弾けるわけがない。ソロだけでなく、タカシはテンポの速い曲をあれ程情熱的に熱唱しながらも、難しいコードを軽々押さえていた。そもそも俺なんてあの速さであのコードチェンジができるだろうか。きっとできない。

 ——兄ちゃんはそうやって『できない』って言ってやらないからできないんだろ?

 タカシの声が頭の中で響いて、心臓が強く波打った。……よーし、ならば証明してやろうじゃないか。どうせ俺はやってもできないということを。

 ピックとギターを手にとって、ベッドに座る。えーっと確かG→Am7→Bm7→Em7って続く所があったな。まずGのコードを指で押さえて、ピックで弦を弾く。優しい音が出た。久々の感覚だ。やっぱりいいなあ、これ。いらぬ見栄を張って暫く離れていたが、俺は今でもギターが好きみたいだ。

 Am7、Bm7、Em7、とそれぞれ弾いてみる。次にゆっくりと順番に。そしてGでタカシが弾いてたのと同じリズムを取って……G→Am7→Bm7→Em7。やっぱりBm7をきちんと押さえることができなかった。ほら見ろ、やってみたってできないじゃないか。心の中で弟に言う。自分で空しくなって、乾いた笑いが出た。

「こんな時間にギターはやめなさい!」

 一階から母親の声が聞こえた。アコギは意外と大きな音が出るため、近所から苦情が出たこともある。

 「はーい」と返事こそしたが、久々にギターを鳴らした俺の腕はうずうずしていた。もっと音を鳴らしたい。この胸の中のもやもやを全て夜の中に吐き出してしまいたい。そんな衝動に駆られて、俺はギターとピックを持ち、「すぐ帰る!」と言って家を飛び出した。

 街灯が照らす道を走って、住宅地から離れていく。何も抑えることなく全てを夜空にさらけ出せる場所を求めて。コンビニやガソリンスタンドの光の中から離れ、町を外れ、海からすぐ近くの防風林へやってきた。ここならまず人も来ないだろうし、家が近くにないから迷惑をかけないだろう。

 服が汚れることも気にせず、俺はその場にあぐらをかいた。俺は尾崎豊と彼の歌が好きで、とにかく弾き語りをしたくてよく練習していた。あの曲なら多分今でも弾けると思う。コード進行を覚えているか心配だったが、始めの方をつたなく弾きながら思い出すと、その先は手が覚えていて流れで弾けた。思い切り腕を動かしてギターをかき鳴らす。雑にも程があるが気にしない。

 ギターが調子に乗ってきたら、カラオケでも出したことがないくらいの大きな声で歌い始めた。この世への反発で満ちた歌詞に思いを乗せて、口から吐き出す。なんてちっぽけで、なんて意味のない、なんて無力な——

「じゅうごのよおるうううううぅぅぅ!」

 なーんて。うだうだしてるうちに、もう十九だけどさ! うわ、改めて考えるともう来年には成人じゃないか。高専は五年制だから、もう暫くは学生だけど。

 歌の終わりにふと、さっきできなかったコード進行をやってみようと思い立った。できるだろうか? できないだろう。できてしまったらどうしよう。まあやってみよう。せーの、G→Am7→Bm7→Em7。

 ……弾けた。弾けてしまったぜ、弟よ。

 荒々しく弾き語りを一曲終えると、息が上がっていた。たったこれだけの演奏と歌でこんなに疲れるものだとは知らなかった。体を後ろにそらし腕を地面につけて天を仰ぐと、木々の間から夏の夜空が広がっているのが見える。この辺りは割と明るいからそこまで多くの星は見えないが、俺は何とも言えない感動を覚えた。夜風に撫でられながら広い闇と数々の光を見て、あの光が何億年も前のものなのだと考えると、俺と言う人間の存在の小ささを改めて痛感する。俺、何をああも悩んでたんだろう。そして、こんなに気持ちいいのに、何故ギターを弾いていなかったんだろう。

 夜空を見ながら、あれはさそり座、あれはペガスス座……なんて記憶まで引っ張り出し始めていたから、その声が聞こえてこなければ、俺は暫くただただ星を眺めていたことだろう。

「おれ、兄ちゃんの声、好きだよ。太い弦を弾いたような、落ち着く声だと思う」

 声のほうを振り向くとタカシがいた。あれほどの熱唱を、そして下手なギターを聞かれたというのに、思ったほど驚きもしなければ恥ずかしくもなかった。自分の中で何かが吹っ切れたのだと思う。

「家に帰ったら、シュンがどこかに行ったから探してって母さんに頼まれた。ここにいるかなーって思って来てみたら本当にいて、しかも尾崎を弾き語りしてたから驚いたよ」
「『ここにいるかなー』って……どうして分かったんだ?」

 タカシは申し訳なさそうに笑いながら答える。

「あー……うん、ごめん、兄ちゃん、前にここで弾いたことあるでしょ。それ、実は聞いてたんだ」
「前って……あれか!」

 恥ずかしさに、つい大きな声が出た。

 中学生の頃、タカシ目当てで近づいてきた女子のことを俺はどうしても忘れられなかった。それで、その子がタカシに告白したが結局フラれたと言うのを聞いて、勇気を出して告白して、見事に玉砕した苦い思い出だ。その晩もまた弟への劣等感や断られた悔しさやなんかでむしゃくしゃして、部活の友達と夕飯を食べるなんて嘘をついて、母親に隠れてギターを持ってここに来た。俺が今日以外にここでギターを弾いた最初で最後である。

 その後、帰るとタカシが事情を知っていたから、その子から伝わったのだろうなと察してひどく恥ずかしかったのを覚えている。慰めの会でもしてきたと思われたつもりでいたが、まさか憂さ晴らしを見られていたなんて、恥ずかしすぎる。今日のを聞かれたのは気にならなかったが、その時のことは穴があったら入りたいくらいの気分だ。

「あの時、兄ちゃんピック持ってなかったでしょ。なのにギター持っていってたもんだから、すぐに慌てて追いかけたんだ。そしたらファミレスになんか向かってなかったからどこに行くのか気になっちゃって……ごめん」
「いや、お前が謝ることじゃないよ……しかしあれも見られてたなんて恥ずかしすぎる……」
「あはは。あの状況は確かに、恥ずかしいかも」

 タカシは今度は笑った。そっちの方が、もう過去の笑い話になったような感じがしてだいぶ気が楽だった。無理にピックを使わずに弾いて弦に切られた手の、鈍い痛みが懐かしい。

「その時からずっと思ってるんだけど、兄ちゃんだって歌うまいし声がいいんだから、もっと人前で歌ってもいいと思うけどな」
「お前はな。俺を含む多くの人間はお前の歌の方が聞きたいだろうよ」
「そうかなあ……」

 少し向こうの道路では車が行き交っているのだけれど、辺りは随分と静かに感じた。ライブハウスの控え室のときとは違って、沈黙が全く苦にならなかった。

「ごめんな」

 俺はふと口にした。言っておかなければならないような気がした。タカシは何も言わなかった。今度はそれがちょっと恥ずかしくなって、「あの後、空気悪くなっただろ」と付け足す。

「いや、すぐに片付けが始まってその後は打ち上げではしゃぎつくしたから」
 本当はそんなことを謝りたかったのでは無いけれど。「母さんが心配するから、今日はもう帰ろう」とタカシは続けた。

「分かった。でも、あと一曲だけ歌わせてくれないか」
「聞きたい」

 俺は、ギターで始めて練習した曲を弾き始めた。使うコードが少なくて、意外と初心者にも弾きやすいと聞いたから。この歌も歌手も好きだったから、ギターを買ったら真っ先に弾くんだとギターに興味を持ち始めた頃から決めていた。さっきよりはずっと落ち着いて、そのバラードを歌う。前よりずっと上手く歌えたと思う。というより、自分で言うのもなんだけど、人の心に訴えかけられるというか。歌う時、気持ちってこんなに重要なものだったんだな。

 曲の途中で、気付けばタカシのコーラスが入っていた。もうすぐとんぼが飛ぶ季節になるなあなんて思いながら、歌った。本当、幸せなんてどこにいるのか分からないけれど、今ここには確かに存在している。

「おれ、やっぱり兄ちゃんの歌が好きだ」
「だからそんなのお前だけだって」

 歌が終わって、俺達は二人で家へと歩き出した。もうすぐ夏が終わる。