複雑・ファジー小説
- 雪を翼に ( No.14 )
- 日時: 2015/08/30 23:32
- 名前: 雷燕 ◆bizc.dLEtA (ID: a6RsoL4B)
雪を翼に
「『旅立ちの日に』って、あるじゃん? あの合唱曲。あれ『勇気を翼にこめて』っていうところがさ、聞いてると『ゆーきをつばさにこーめてー』って漢字がわからないから『雪を翼にこめて』かと思ってて。俺の曲だー、なんて勘違いしてたんだよね」
と、彼が笑いながら話していたのを覚えています。彼の名前は雪乃翼。純白の素敵な名前を持つ少年です。私はこの歌を聴くとき、歌っているとき、いつも彼のことを考えています。
最近は中学校の卒業式が近づいて、この歌をよく歌います。彼は地元の、サッカーの強い工業高校に進学するそうです。私は、自分のレベルに見合った普通科高校に進みます。彼とはほとんど会えなくなることでしょう。
今のようにこの歌を歌っているとき、そのことを思ってしまって、胸が締め付けられます。
歌い終わった後、ひとクラスふたクラスとひな壇から降りて行き退場して、卒業式のリハーサルが終わりました。本番は明日です。皆は、何を考えているのでしょう。高校受験は春休み中に行われますから、その事で一生懸命なのでしょうか。私のように、ひとりの異性で頭がいっぱいなんて人、いるのかしら。
もう明日で卒業というのもあって、帰りの会で担任が色々と話していたけれど、私は中学の間さして重大な事件もなかったし、誰かと付き合ったり、そういう青春らしきことをした覚えもないので、正直明後日からここに来ないと考えても、悲しいとか、そういう感情は薄いです。口下手なのであまり多くの友達もできなかったし、仲のいい友達とは、卒業した後もまた関わりを持つことでしょう。
ただひとつ気がかりなのが、彼なのです。彼と私が関わることのできる場所は、ここしかないのです。もしどこかで偶然会ったとしても、私は話しかけられる勇気がありませんし、彼が中学時代も話す機会の少なかった私に話しかけてくれるとも、到底思えません。
今のうちに少しでも思い出を作っておかないと……。
そんなことを考えて一日の最後の挨拶をクラス全員ですると、すぐ近くをちょうど彼が通りました。
こ、こういう時に怖気ついてちゃ駄目!
「つ翼君っ」
「ん、何?」
彼がまっすぐな目をこちらへ向けてきました。私はすぐに喉を詰まらせてしまいます。体が熱くなります。顔に出ていないかと心配になります。
「卒業式、もう明日だね……」
何とか次の言葉を出すことができました。でも、何て返し難い発言でしょう。突然呼び止められてこんなことを言われては、相手も困るだろうに。
「だなあ。このボロい校舎から離れるのが嫌になるとか思いもしなかったけど」
彼は何も訝しがる様子もなくそう言いました。本当に親しみやすい人なのです。私のように冴えなくて、可愛くもなくて、関わりも少ない人にだって、誰にだって、このように普通に話してくれるのです。しかし時々、それが少し寂しくもあります。私は醜い人間です。
「皆と会えなくなるんだよね。私あんまり人と話せなかったから、すぐに忘れられるんだろうなあ。あはは」
つい自己嫌悪を人に愚痴ってしまいました。ああ、こんなだからますます自分を嫌いになるのです。人に話しかけるのが怖くて、嫌われるのが怖くて、話しかけてくれた時だって相手と自分を比べちゃって、勝手に気分を落としてしまう。こんな私が誰かのことばかり思うなんて、身の程知らずなんです。
「いやそれはないだろー」
しかし彼は、そんな私の心の暗雲さえ笑い飛ばしてくれるのです。
「クラスにこんな可愛いやついたら忘れねえって」
「い、い、いやそれこそないでしょー」
私は駆けるようにして教室を出ました。あんな屈託のない笑顔を誰にでも向けて、あんなこと言って、彼はずるいと思います。頬にじわあっと熱を感じました。これは確実に顔が赤くなっています。恥ずかしい。
……でも私は、口角が上がってしまうのを抑えることができないのです。
次の朝は、とてもとても寒い朝でした。卒業式の日は三年生は登校時間が遅いので、私は目が覚めてしばらくの間毛布に包まっていました。いつもの様に、気がつけば来てる特別な日、気がつけば終わる特別な日。
私が学校に着くと、多くの生徒が既に登校してきていて、友達との最後の会話を惜しみながら楽しんでいました。目の前の友達と話すのが最後ではなくても、この雰囲気の中で、このメンバーで、こんな下らない馬鹿話に笑えるのは、きっとこれが最後でしょう。
卒業式が始まると、基本的に私のすることはただただ我慢です。あと起立のタイミングを逃さないこと。そんなもんだから、私の頭の中からは、昨日の彼の笑顔が離れないのです。昨日の彼の声が何度も再生されるのです。そのたびに顔の筋肉を制御しなければならなかったので大変でした。
卒業式も終わりのほう。私たちは席を立って、ひな壇に並びました。今日という特別な日を飾る合唱です。保護者代表の挨拶に多くの生徒も涙を誘われていました。私はそんな体育館の様子を、画面越しのように眺めていました。皆、この三年間、色々あったのでしょう。楽しいことも、悲しいことも、あっという間に過ぎた時間も、胸を重くして耐え忍んだ長い長い時間も、あったのでしょう。
合唱が始まりました。私は自分が音をはずしたり声を裏返したりするのが怖くて小さな声しか出せない人だから、一生懸命に皆に指示してきた指揮者さんなんかには迷惑ばかりかけてきました。ごめんなさい。あなたのように人の前に立って自分の気持ちを語れる人は尊敬します。
白い光の中に、山並みはもえて、遥かな空の果てまでも、君は飛び立つ。……そう、君は飛び立つ。君は、私では見上げることしかできない高い高い場所へ、飛び立っていくのです。
限りなく青い空に心震わせ、自由を駆ける鳥よ振り返ることもせず——
体育館の外は、写真の撮影会のようになっていました。中学の制服を着て皆と写真が撮れるのはこれが最後です。誰も彼も、さっきまでの涙が嘘のように笑ってカメラの前でピースサインをしています。私はその中で落ち着きもなくきょろきょろと辺りを見回していました。すると、サッカー部の人たちが集まって写真を撮っているのを見つけました。その中に彼もいました。いつもと同じ、汚れのない輝く笑顔です。そして私には、あそこに近付く勇気がありません。
私はこのままこのような生き方を一生続けるのでしょうか。何かを求めても、自分を卑下し続け勇気がないと言い訳し、自らのがしてゆく。そんな自分を嫌って、ますます動けなくなって。
……確かにちょっと嫌ですけど、私はそういう人間なのでしょう。それを受け止めることはできるのです。輝く白い翼を広げて未来へと羽ばたく彼のような人を眺めているだけで、満足してしまうのでしょう。いいじゃないですか。それはそれで、それなりに幸せじゃないですか。切ないけど、世の中が無常である以上、幸せと切なさは離れることができないのですから。
私がそう思って家へ帰るべく後ろを振り返ったとき、後ろである女子生徒が声を上げました。
「うそっ、雪?」
私は驚いて空を見上げました。
私がこの町で十五年間生きてきて、三月に雪が降ったなど見たことも聞いたこともありません。しかし見上げた空からは確かに、白い小さな花びらのような雪が、ひらひらと舞い落ちてきていました。辺りはさらに賑やかさを増します。こんな日にこんなタイミングで雪が降るなんて、誰の計らいでしょう。彼を思わずにはいられないじゃないですか。
雪を翼に、勇気を翼に。
頭の中で呟きました。羽ばたかなければ。飛べなくていい、地べたで見苦しくバタバタと翼を動かしているだけでいい、風を起こさなければ。そうしなければ、彼に失礼な気がして。私なんかのことを「可愛い」といってくれて、笑顔を見せてくれた彼が間違ったことになってしまう気がして。
サッカー部の面々は、突然降ってきた雪にテンションが上がったようで、ゆっくりと降りてくる雪を捕まえようとしたりしていました。彼は、口を開けたまま空を見上げています。
私は、人ごみをかき分けるようにして彼に駆け寄りました。
「翼君!」
「——おお。雪なんか珍しいよなこの時期に」
「あの私、ずっと自分のことが嫌いで」
また何を言っているんでしょう私は。自分語りなんかして彼は退屈なだけでしょうに。でも、私は勢いに任せて口を動かしました。
「人と話せないし、かと言って一人でいることもできないし、自分が嫌いなのもまた嫌で。だから、そ、その翼君みたいに誰とでも仲良くできる明るい人が羨ましくて。えっとあの、で、でも、昨日可愛いとか言ってくれて、とっても嬉しかったの。それで、翼君が可愛いなんていってくれるなら、私もちょっとは自分に自信持っていいのかなとか思えて、えっと……」
あ、つ、続き何て言おう。何を言えばいいかな。この気持ち、どうやって伝えればいいかな。言っちゃえばいいのかな、『好きです』って——
「あ、ありがとう!」
私は伏せてしまっていた目を上げて、彼の顔を見ました。彼は、私の必死の言葉を真剣に聞いてくれているようでした。
「高校に行っても、その、サッカーとか頑張ってね。応援してるから。翼君が活躍してくれると、嬉しいから」
「——ああ、分かった」
彼はいつものように笑顔で返事をしました。でも今度の笑顔はいつもの楽しそうな笑顔とは違って、優しさに満ちたものでした。
雪はいつの間にか、止んでいました。
*
メッフィーさんの指摘を受けて、若干修正版。