複雑・ファジー小説
- 窓の向こうの景色 ( No.16 )
- 日時: 2015/08/30 23:50
- 名前: 雷燕03 ◆bizc.dLEtA (ID: a6RsoL4B)
窓の向こうの景色
僕の部屋の東側には、大きな出窓がある。そこからは庭の木や花を眺めることができたから、お気に入りの窓だった。心地よい日差しと風も入ってくるし。家の周りには塀があって不審者が入ってくる心配なんてしていなかったから、冬でもない限り日中開けっ放しにしていた。
危ないからと言って大人たちは僕を一人で外出させてくれなくて、基本的に僕は一日中家にいた。とはいえ学校へ行かなくなってからも家庭教師が勉強を教えにくるし、僕が寂しくないよう親はしょっちゅう人を招いてくれたから、暇で暇で死にそうなわけでもない。だから部屋でひとりでいる時間は、僕が唯一気を抜けて誰にも邪魔されない、少しだけ寂しいけど大切な時間だった。
あ、誰にもってのはちょっと語弊があるかもしれない。僕の部屋には、大好きな猫のニコライがいたから。ノルウェージャンフォレストキャットの、毛色はクリーム寄りのレッドタビー。人間だったらきれいな金髪なんだろうなって感じのその柔らかい毛は、今では触ってもふもふして楽しむことしかできないけど。
そんなこんなで、ニコライは部屋にいるんだろうか、それともこの出窓からどこかに出かけているんだろうかと思いながら、窓の外にぼーっと目を向けていた時。出窓から透き通った声がしたんだ。
「なあお前。ずーっと部屋にいるけど、つまらなくねえの?」
その声はそう言った。僕はびっくりして凄く慌ててしまった。だ、だれ。何のために、どうしてここに、どうやって入ってきたんだろう。そうだよ、だってこの家の周りは塀で囲まれていて、仮に人間が登ろうとしたりなんかしたら防犯システムが本領を発揮することになるはずだったから。
どうやって入ってきたの、と訊くとその声は、「んー? まあちょっとな。抜け道があって」と軽々しく言った。抜け道なんて。そんなものがあるとしたら、大問題だ。お父さんかお母さんに知らせないと。
——そんなことより質問に答えろよー。暇じゃねえの、お前。
口調からして男の子なんだろう。声変わりはしていなくて、よく通る高い声。その声は、不法侵入を犯してこれから悪いことをしようとする声には到底聞こえなかった。むしろ無邪気で、僕のとことに遊びに来たような声音だ。
暇ではないなあ。ぼんやり考え事するのもつまらなくはないし。
僕はそう答えて、座っているベッドから出窓の方を見つめた。慣れ親しんだ動作だからできるけど、実際には世界は真っ暗で、そこから忽然と出窓が消えていても、僕はしばらく気づかないだろうけどね。
ただ、と付け加えをする。外の景色が見れないのはちょっと寂しいかな。
「じゃあ、オレが外のこと話してやるよ。お前、目が見えないんだろ」
少年がにやりと笑った気がした。もちろん見えないんだけど、そんな雰囲気で彼が言った。
なぜ彼は知っているんだろう。尋ねたけど、天才だからな、なんて言われた。
生まれつきではない。三ヶ月くらい前かな、僕がお手伝いさんの運転する車に乗ってどこかに出かけてた時。前を走ってたトラックの荷台の紐が切れて、木材が落ちてきて、がしゃーんばりーん。ガラスの破片がまぶたの上から目に突き刺さりましたとさ。
正直、その瞬間のことはよく覚えていない。頭を打ったのか、何かがショックだったのかは分からないけど、後に聞いた話だとこんな感じらしい。幸い大きな怪我は誰もしなかった。目以外は事故の後一ヶ月も経たずに全部直ったしね。まぶたも治って普通に目を開けることはできる。でも、傷つけられた角膜だけは自力で戻ることはなくて。
だから、彼の提案はとても嬉しかった。本当に話してくれるの? と僕が言うと、それが随分面白い顔をしていたらしい、おもちゃを買ってもらうときのガキの顔だ、と言ってにししっと笑う。そして彼は早速話を始めた。少年はよくこの町を徘徊しているらしく、近所のことは何でも知っていた。久々に心から楽しい時間だと感じた。
彼が明日も明後日もその先も来てくれると言うから、僕は昼ごはんの後なら大体部屋に一人でいるよ、と伝えた。少年の名はクラウスというらしい。日本人じゃないのだろうか。
それからというもの、少年はほぼ毎日僕の部屋の出窓から話をしてくれた。
僕もこの町に住んでるわけだけど、彼の話すことは僕が全く知らないことばかりだった。子供たちが集まっていつも野球をしていた空き地にアパートが建つことになって残念だとか、彼と一緒でよく散歩しているところを見かける人がいるんだけどたまに服装が全然違って女か男か確信が持てないとか、近くを通りかかるといつでもピアノが聞こえてくる変な家があるとか、たっくんっていう子と今日はこんな話をしたとか。あるときは公園に毎日来ていたカップルが別れるまでの、日々の少しずつの変化をリアルタイムで聞いたりもしたな。不謹慎だとはちょっと思ったけど、彼の話し方や途中に挟まれる呟きがおもしろいもんだから僕も一緒に笑ってしまう。
クラウスが話してくれる世界は、僕が自分の目で見ていたそれよりずっと鮮やかで生き生きとしていた。彼と話す時間は、その回数が増えるたびに大切なものになっていく。さすがに夜に来てもらうことはできないから、午後に外出の用事などがあるのがあまり好きではなくなった。
「えへへ。ニコライ、僕にもう一人、大事な大事な友達ができたんだよ」
ニコライを抱きしめて首の下を撫でながら、そんなことを言った。ふわふわの毛が気持ちいい。ニコライは僕の言った意味も分からないだろうし、そもそも僕の目が見えなくなったことも知らないだろうけど、にゃあ、とかわいい声で鳴いた。
そんな風に、味気なくなってしまった僕の世界に新鮮味を与えてくれるクラウスだったけど、彼自身のことはほとんど話してくれなかった。彼自身の事を訊くと、話せる時間は限られてるんだから俺のことなんか話してたらもったいないだろ、と全く上手く無いはぐらかし方をされる。僕は君のことも知りたいんだけどなあ。僕がずっと彼の話を聞いてきて彼について分かったことといえば、髪が金髪だってことくらいだ。近所には少ないから珍しがられると言っていた。そりゃそうだ、ここは日本の片田舎なんだから。流暢な日本語を話すけど、血筋はやはり日本人ではないのだろう。
クラウスと話すのはとてもとても楽しかったけど、同時に寂しさはますます感じるようになった。彼はどんな顔をしているのだろう。町は前と変わっているのだろうか。僕は何も知らない。そのことがたまに恐ろしく悲しい。虚しい。一度は諦めて手放すことを受け入れたはずの、世界の色がまた欲しくなるのを感じた。
ああ、君の見ている世界が見たい。
そんな願望が強くなってきた矢先だったから、その知らせを聞いたときの喜びといったら、言葉では言い表せない。僕はその場でぴょんぴょん跳びはねた。お母さんも、はしゃぎすぎよ、と言いながら声が笑っている。昼ご飯が凄く美味しかったけど、何を食べたかはっきりと思い出せないほど興奮していた。
僕は自分の部屋へ駆け込むと、ニコライの名前を呼んだ。にゃあ、という鳴き声がして足に擦り寄られる感覚を覚える。しゃがんでニコライを抱きしめる。
やったよ、ニコライ。ついに角膜移植が受けられるんだ!
僕がニコライの頭辺りに顔を擦り付けてそう言うと、ニコライはまたにゃあと鳴いた。もちろん猫に言って分かるはずがないけれど、とにかく誰かに報告したかった。ああ、そして早くクラウスにこの喜びを伝えたい。
彼は間もなくやって来た。今日は、昨日から行われている地区のお祭りの話をしてくれた。近所の高校のマーチングバンドが演奏して、大学のチアリーディングなんかもあって、随分と賑やかだそうだ。どちらも見たことが無いからとても見てみたい。そうだよ、来年のこのお祭りは、彼と見に行けるんだ。
そんな風に終始浮ついた気分で彼の話を聞いていたら、どうやらその雰囲気が伝わっていたらしい。今日はやけに楽しそうじゃないかと言われた。その通り、僕は今とても楽しい。そして、言いたくてうずうずしていたことをクラウスに伝える。
「聞いて驚くなよ。再来週に、角膜移植を受けられることになったんだ!」
僕はクラウスが喜んで祝福してくれる様子が目に見えるように期待していた。しかし実際の彼は出窓の向こうで黙りこくっている。どうしたんだろう。彼なら、僕の目が見えるようになることをとても喜んでくれると思っていたのに。
「……カクマクイショク、って何だ?」
ああなるほど。角膜移植をしたら僕の目が治るということを彼は理解していなかったらしい。確かに彼は僕の知らないことをたくさん知っていたけど、こと勉強っぽい事柄に関してはさっぱりだった。角膜移植のことを知らなかったのだろう。
僕も詳しいことは知らないんだけど、手術を受けたら目が見えるようになるんだと説明をする。これでクラウスも手放しで喜ぶことだろう。……そう思ったんだけど、やっぱり彼の反応は想定外に薄かった。その手術は失敗したりしないのか、体に悪い影響は無いのかと変な心配ばかりする。変な、と言っては悪いかもしれないけど、そんな心配をする前にもっと喜んでほしかったなあ。
僕は手術の日が楽しみで仕方なかったけれど、期待外れのクラウスの反応はちょっと気がかりだった。もしかしたら、僕の目が治ったら何か困ることでもあるんだろうか? 外の話をしてくれる友達は必要なくなるとか? まさか。そんなことは誓って無い。
そんなことはあったけど、彼は次の日からもいつも通り来てくれて、いつも通り楽しい話を聞かせてくれた。君の見る世界の光をもう一度この目で感じるのが待ち遠しいよ。
そうして手術の日が来た。手術は半日で終わるらしく、昼過ぎには家に帰れると言われた。非常に都合がいい。クラウスにちょっと遅めに来てもらえば、その日のうちに彼の顔を見られるということだ。前日にそう伝えたところ彼は、よかったな、やっとだな、と喜んでくれた。初めて手術のことを発表したときは、彼も事態がよく飲み込めてなかったのかな。
麻酔から覚めて目を開けると、真っ暗だった世界はぼんやりと白かった。すぐにはっきりと見えるわけではないらしいけど、これからどこまで見えるようになってくれるのか分からないけれど、僕は嬉しくて嬉しくて腕をじたばたさせた。ベッドで寝ていて跳ねることができなかったからね。
そして約束通り夕方になる前には家に帰ることができた。久々に見る我が家だ。酷く曖昧な輪郭しかまだ分からないけど、世界はもう一度色を取り戻してくれたんだ。廊下を走っても何にもぶつからないことが楽しかった。お父さんに叱られてしまったけど。
僕は自分の部屋に行って、久々に見る景色を堪能した。点字を勉強した机。これからは文字を書いて勉強することができるんだ。いつも座っているベッド。シーツの端がはみ出ていることに気付いて直した。出窓で日向ぼっこをしていたニコライを抱きかかえてじゃれる。ニコライの顔を見るのも久しぶりだ。半年見てない間に大きくなった気がする。
クラウスは早く来ないかな。まだはっきりと顔は見えないだろうけど、彼の金髪を見てみたいな。君と一緒に外の世界を歩けたらどんなに楽しいだろう。すぐにでも一緒に外へ出たいけど、お父さんとお母さんはまだ許してくれないかな。友達と一緒だって言ったら許してくれるかな。
そんな風にクラウスがやって来るのをずっと楽しみにしてたけど、夕方になっても彼は来なかった。日が沈んでも、また日が昇っても、彼は来ない。
出窓ではただニコライが日向ぼっこをして、たまに透明なガラスのように透き通った声で、にゃあと鳴くだけだった。
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英語の長文からインスパイアされるってどうなの……(笑)
できるなら冬の雨の日並みの文字数に抑えたいんですけど、どうにも。