複雑・ファジー小説

十か月の追憶 ( No.17 )
日時: 2015/08/30 23:54
名前: 雷燕 ◆bizc.dLEtA (ID: a6RsoL4B)

十ヶ月の追憶



 今年も、この神社の境内は見事な紅葉に包まれた。もみじにいちょうに。山の中に位置するため木々に囲まれた境内であり、一面が赤と黄色に変わる。他のどの季節よりも美しい景色が見られる時期だ。

 そして彼女は、今日もここへ来ていた。お参りをした後、お賽銭箱の横の階段に座って趣味の編み物をしている。たまに実の娘やその友達らしき子供を連れて。彼女はこの美しい境内にも見劣りしないほどの美人だ。彼女に会うためにこの神社に来る人も少なくないので、彼女おかげでここのお賽銭箱は潤っているといっても過言ではないだろう。

 そしてそんな理由で足を運んだ者が、目的を果たせずに気を落として帰ることはほとんどなかった。用事があって昼間にどこかへ行くことこそあれど、彼女は毎日欠かさずこの神社に来るからだ。

 まだ戦争が終わってそう長くない。皆生きるために働くので一生懸命な時代だというのに、彼女が何故ここまで神社に通うのか。近所の人々は「そんなに信仰心が強いのだろうか」「単に神社が好きなのでは」と不思議がっているようだが、俺はその理由を知っていた。

 彼女は待っているのだ。昔に会った放浪人を。

 まあその放浪人というのは俺で、既にこの神社に居座る幽霊となっているのだけれど。


 冬のこの境内は寂しい。見事に色付いていた葉は、その色を失わぬまま地面に舞い落ちる。その分裸になっていく木は寒そうである。この時期になると、彼女は境内に散乱する落ち葉を掃除するのが日課になるようだ。今日も、箒を持って落ち葉を掃いていた。

「精が出ますね」

 俺が声をかけると、彼女は振り向いて笑って答えた。長く美しい髪が揺れる。

「こんにちは。ここは神主さんがいないから、この時期になると地面が大変なことになるんですよ。だから冬だけでも来て掃除をするようにしてるんです」
「一人でですか? それは骨が折れるでしょう」
「でも秋の紅葉がすばらしいから、全然苦じゃないんですよ。もうちょっと来るのが早ければあなたも見られたのだけど」

 最後は長いまつげの目を伏せて、少し残念そうに言った。

 俺はどこに行く当てもないので、この神社に居座ることにした。雨風をしのぐ場所もあるし、人も少ないから。……と言いつつ、彼女に会いたかったのが本音だ。

 俺がここにしばらくいると、寒いだろうと言って彼女は自分で編んだマフラーをくれた。それをつけると、心まで温まるようだった。

 彼女の名はヒトミというそうだ。名前の通り、瞳が特に美しい。


 春は、境内を囲む林で地面一面に花が咲く。木々は新芽を出し始め、春の緑色に染まっていく。ヒトミの娘は花を摘んで花飾りを作るのに必死らしい。

 桜があればよい花見の場所になっただろうに、と俺が言うと、ヒトミは「そうですね。でも、この神社はこれでいいんですよ。春にピンクのかわいらしい花を咲かせるより、秋に力強く物悲しいオレンジに染まるほうが似合ってるんです。私の勝手な好みではあるんですけどね」と言った。確かに、と思った。

「秋のこの境内と君では、どちらが美しいんですか」
「あはは。さすがにこの神社には勝てませんね」

 彼女は自分の美しさを自覚している。しかし決して鼻にかけることはなく、「親がくれたもの」といつも感謝をしていた。心まで美しいのかと思う。

 彼女は、冬が終わって落ち葉がなくなってもここに来てくれていた。何故だかは分からなかったが、俺に会いに来てくれていたらいいのに、なんて夢を見たりもした。たとえそうでなくても、この世界で一番だと思われるこの笑顔を見られるのだから、その理由には感謝したい。


 夏のこの地域はうだるように暑いのだが、この神社は木陰に覆われるおかげで涼しさを感じられる。今日も俺は、ヒトミと二人でここにいた。娘は友達と遊んでいるらしい。

 ヒトミは前よりも痩せていた。そして、随分と疲れた顔をしていた。女が働きながら子供を育てるなど難しいし、食料も少ないから、そのせいだろう。俺は彼女に、結婚はしていないのか尋ねた。

「してるんですけど、先の戦争で死んじゃったんですよ。娘を置いて……。幸いにも親がこんな容姿に生んでくれましたので、何とか食い繋いでいるんですけど」
 彼女は冗談めかして笑うが。
「……申し訳ないことを聞きました」
「お気になさらないで下さい。最近は貴方がいてくれるおかげで寂しくないわ」

 俺は心臓が高鳴り始めたのが分かったが、彼女には悟られないよう冷静を装った。そして彼女をこれ以上悲しませてはならないと、妙な使命感に駆られた。

 しかし、それから数日経った頃だったか。俺は流行の病にかかったようだ。空腹で体も随分弱っていたのだろうか。せきが止まらず、熱が出て意識が朦朧とした。彼女にうつす訳にはいかないという考えが真っ先に浮かぶ。不幸中の幸いと言うのか、初めて症状が出たのは夜だった。俺は病が治るまでどこか別の場所にいようと思い神社を出て、裏山の奥へ歩き始めた。

 しばらくした後、俺は自分が倒れていることに気がついた。近くでは、ヒトミの娘が愛らしい顔を心配そうに歪ませてこちらを見ていた。あたりは薄明るい。朝になったのか。

「おじちゃん? どうしたの? お母さんが探してるよ?」
「起こしてくれたのか。ありがとう」

 俺はなるべく娘の方を向かないで言った。

「いいか、すぐに戻ってヒトミには俺がこう言っていたと伝えてくれ——」
 美しい彼女に対して嘘だけはつきたくなくて、働かない頭でどうにか言葉を生み出すための少しの間の後。
「『俺はまだ、生きている』。俺は行くよ。いつになるか分からないが、またな」
「あ、おじちゃん!」

 俺は全身の力を振り絞って走り出した。娘は追ってこなかった。

 しかしこうなると、病が治るのを待っていてそのまま死ぬようなことは万が一にもできない。彼女から希望を奪ってはならない。

 ……おっと、いつの間にか俺は自分のことを彼女の希望とまで思うほど自惚れていた様だ。そんなことを思いながら、林を抜けたところにある大きな川にたどり着いた。俺がどこかでのたれ死んだりしたら、彼女はいつかそれを知ってしまうかもしれない。体が回復する確証はどこにもないし、むしろ可能性は低い。そうだ、ならばいっそ、決して彼女に見つからないように消えればいいのだ。

 川は朝日に照らされてゆらゆらと輝いていた。迷うことはない。俺はその輝きの中に身を投げる。消えてゆく意識の中で、彼女が美しいと言った紅葉を見られなかったことだけが心残りだった。未練で幽霊にでもなってしまいそうなほどに。