複雑・ファジー小説

折りたたみ傘 ( No.18 )
日時: 2015/08/31 00:09
名前: 雷燕 ◆bizc.dLEtA (ID: a6RsoL4B)

折りたたみ傘



 雨が降りだしたことに自動ドア越しに気づいて、本を持ったまま手を止めた。傘は持っていない。朝から怪しい様子ではあったのだが、昨晩の夜更かしのせいで寝坊してしまい慌てて飛び出してきたためである。雨粒は大きくないようだが、しとしとと降り続いている。家からここのバイト先まではそう遠くないため自転車で来ていて、雨が降りそうなときなどは傘を持って歩いてくるのだが、今日は天気予報すら見てなかった。これは濡れるなあ。

 俺は外から手元に視線を戻し、本棚の整理に戻った。こんな日は客足も少ないので、普段人の多い場所にも手をつけてみようか。

「降りだしましたね。今朝はだいぶ慌ててましたけど、傘は持ってるんですか?」

 同じくアルバイトをしている女子高生が話しかけてきたので目を向ける。髪も黒いしそう派手な格好はしていないのだが、近くで見るとまつげは長くしているし頬はナチュラルに赤く染められているし、抜け目がないなと思う。担当場所が違う上普段なら仕事中に雑談をすることは少ない子なのだが、今は近くに客もいないからであろう。

「それが持ってないんだよ。これはずぶ濡れルート確定だ」
「風邪とか大丈夫ですか?」
「部活帰りに濡れたときに、それを何度願ったことか」
「あはは。体強そうですもんね」

 彼女はそう言って笑いながら立ち去った。しっかり者だからやはりしっかりと傘は持っているのだろう。あわよくば相合傘なんて申し込まれてイベントが発生してみないだろうか、なんて悲しい一人身の俺は考えてみるけど、ないない。まず高校生である彼女は俺より先に帰らなければならないし。

「……よし完璧。さすが俺」

 目の前の棚がきれいに作者順に並べられた様を見て、独り達成感に浸りながら次の本棚へ向かおうとした。そして一瞬動きが止まる。視線を向けた先には常連客の女子大生がいた。週に二、三度は来店してほぼ毎回本を買っていくのに、雑誌はほとんど読まないらしい読書家だ。彼女の探している本が見つからないときに何度か話したことがあるが、気品があって感じのいい人だった。雨の中来たのだろう、足元が濡れている。

 次は彼女のいる棚を整理しようと思っていたのだが、隣でがさごそとされるのもいい気分ではないだろう。他の場所へ移ろうと体を反転させると、誰かにぶつかりそうになった。

「あ、す、すみませ……って君かい」

 客かと思って謝りかけたら、俺の後ろに立っていたのはさっきの女子高生だった。

「あの方、美人ですよねえ。この前話したら、先輩と同じ大学に通ってるそうですよ」
「マジで。ていうか君あの人とそんなことまで話すのか」
「同年代の女性店員は私しかいませんからねえ。あ、羨ましいんですか?

 彼女が意地悪そうに笑う。今あの女子大生を見ていたのを見られていたのか。俺は恥ずかしくて早口になって言った。

「いや違うって。つーか話してばっかいないで仕事しろよ」
「はーいすみませーん」

 彼女は楽しそうに笑いながら歩いていった。年下にからかわれるなんて、俺もさすがの情けなさだ。


 しばらくしてから、俺はレジに移った。少しは客も増えたがやはり暇。しかしそうやって気が抜けているときに、例の女子大生が本を持ってきたので驚いた。結構長く店内にいたんだな。彼女がカウンターに置いた本を手にとって、カバーをつける。

「雨、やみませんね」

 彼女が話しかけてきたので、心臓が活発になったのをなるべく無視して冷静に答える。

「そうですね。実は僕、傘を忘れて自転車で来てるんですよ」
「えっ、大丈夫ですか?」
「ご心配ありがとうございます、でも健康だけが取り柄なので平気ですよ」
「そうなんですか、でも気をつけてくださいね。それでは」

 彼女は笑顔を浮かべながら本の入った紙袋を手にとってかばんに入れ、その手で折りたたみ傘を取り出しながら外へ出た。


 そうやって彼女と話せたから、俺は一日気分のいいままバイトを終わった。とうに高校生の帰らなければならない時間を過ぎ、店長に挨拶をしてから真っ暗になった外へ出る。しかし外の土砂降り具合に、さっきまでの気分は吹っ飛んだ。辺りの音を完全にかき消して水が地面にぶつかっている。梅雨の雨らしく雨粒は細かいのだが、だいぶ量があり、これは自転車で駆け抜けたとして帰ってからが大変そうだ。

 誰かがビニール傘を置いていたりしないだろうかと、勝手に使ってはいけないと思いつつも傘たてに目を向けてみた。するとそこには一本の傘がぽつんと残されているではないか。女物の傘だが、こんな日に忘れて帰るなんてあるのだろうか。

 そこで俺は、傘の柄に小さな紙が貼り付けられているのに気がついた。近づいて見てみると、きれいな字でこう書いてある。

『女物ですが、よければ使ってください。』

 ……これは、誰に向けた言葉なのだろう。もしかしてもしかしたら俺だろうか。店の中にはもう店長しか残っていないし、その店長は車で出勤している。これを使ったとして、ばちは当たらないんじゃないか。

 しかし女性らしい傘をさして歩くのは恥ずかしいからやはり自転車で駆け抜けようと思いもう一度顔をを上げて、雨のひどさを再確認して、俺が使うなんて見当違いだったらごめんなさい、と傘の主に謝りつつお言葉に甘えることにした。


 次の日も雨だった。俺は玄関に干していた傘をたたみ、今度はちゃんと自分の傘をさして店に向かう。昨日の晩よりは雨脚はましになっていて、たたんでいる傘を濡らさず持ってくることができた。店に着くと、『ありがとうございました。濡れずにすみました。』と書いたメモ用紙を傘の柄につけて傘たてに置く。これで持って帰って気づいてくれるだろうか。

 見知らぬ人と秘密の会話をすることにわくわくしながら仕事をしていると、俺より少し後に来たバイトの女子高生が話しかけてきた。

「こんにちは。昨日、濡れませんでした?」
「それが、誰かが傘を置いていってくれたみたいで、しかもどうぞ使ってくださいってメモまで残してくれてたから、ありがたく使わせてもらって濡れなかったんだよ。いったい誰なんだろ」
「あ、気づいたんですね。よかったです」
「え……もしかしてあの傘って」
「なんでもないでーす」

 そう言いながらまた彼女はすぐに去っていく。あの傘を残してくれたのは彼女なのか。俺が昨日傘を持っていないなんて知っている女性なんて、彼女と例の女子大生くらいしかいないはず。ほとんど交流のない人が、まさかあんなことをしてくれるとも思えないし……。

 女子高生が、ただのバイトの先輩にがわざわざこんなことをしてくれるものだろうか。しかし一度そうやって考えてみると彼女はよくバイト中に俺に話しかけてくる気がしないでもない。

 いや馬鹿か俺。自意識過剰もほどほどにしないと、一人身暦がさらに長くなるぞ。つーかバイト中だろ仕事しろ。

 そう自分に言いきかせて意識を目の前に戻す。しかし視界の隅で自動ドアの開いたのが分かったのでそちらに視線を向けると、あの女子大生だった。濡れた折りたたみ傘を手に持ってこちらの方へ歩いてくる。目が合ったので会釈をすると、向こうは笑いかけてくれた。

「こんにちは。体調は大丈夫ですか」
「ああ、昨日の雨ですか? それが、同じバイトの子が傘を置いていってくれたみたいで助かったんですよね」

 俺が若干照れ隠しでそう言うと、

「——そうなんですか。よかったです」

 彼女は微笑を浮かべてもう一度会釈をしてから、よく行く本棚へ歩いていった。





風死さんのSS大会に参加させていただきました。お題は「罪」でした。