複雑・ファジー小説

君と共に足音を ( No.22 )
日時: 2015/09/02 00:36
名前: 雷燕 ◆bizc.dLEtA (ID: a6RsoL4B)

 一週間くらいあとの日曜日にまた彼女の部屋を訪れた。部屋に入ったときテレビがひとりで喋っているのは相変わらずだったが、彼女はベッドの上で横を向いて完全に寝そべっていて、視線だけをこちらに向けた。

「きょう調子悪い?」

 彼女は小さく「うん」と言いながら頷いた。いつも以上に細い声に耳を傾けると、どうやら足にたまった水を抜いたそうで(内臓が癌になったら足に水がたまるという仕組みがいまいちよく分からないが)、だいぶしんどい状態だそうだ。

 こんな時はそばにいたほうがいいのか、気を遣わせないようにさっさと帰ったほうがいいのか、正直よく分からない。

 そんな俺の心理を察したのかはわからないが、彼女がぼそぼそと喋りだした。いつも以上に聞き取りにくい声で、頻繁に呼吸を区切りながら、この間読んだ本の感想や面白かったテレビの話をする。そのあいだ一度も笑うことはなくて、気を紛らわせようとしているようにも見えた。

 その時、個室の扉をノックする音が聞こえた。大きな声が出せないので彼女が返事をしないと知らないのだろうか、少しの間があって、おずおずと扉を開けて少女が入ってきた。高校生くらいに見える少女は、俺の顔を見てからびっくりして、そのあと彼女がいることを確認したようだった。

「あっ、ミカ姉ちゃん……」
「ハナちゃん」

 ベッドの上の彼女が言ったが、すぐ横の俺がようやく聞き取れるくらいの声量だったので、扉の前にいた少女には聞こえなかったと思う。ハナちゃん、と呼ばれた少女は彼女が声を発したことにも気づかなかったのかそれとも訊きかえすのも気が引けたのか、とにかく黙って彼女の横、俺の反対側に移動した。

 少女は俺を一瞥してから彼女に話しかける。知らない人と鉢合わせたのが気まずいのだろう。

「今日行くってメールしたんだけど、ごめん見てなかったかな」
「ごめん、家に帰る途中で寄るって言うから、勝手に午後だと」
「あーそっかいつ行くのかちゃんと言えばよかったね、ごめん」

 お互いに謝りあってから、少し間が空いた。

「あ、えっとね、これサトル君。まあ怪しい人じゃないから。んで、こっちが従姉妹のハナちゃん。しばらく会ってないからって、今日来てくれたの」

 短い息で彼女が言ったあとに俺が「どうも」と軽く頭を下げると、少女のほうも頭を下げた。

「ハナちゃん高三だよね。志望校は決まってるの?」
「何となくいいなってとこはあるんだけどまだ……」
「そっか。あんまり周りは気にしないで、行きたいとこに行ったほうがいいよ」

 そんな会話が続く。しばらく会っていなかったらしいから、高校生の少女にとって、彼女の衰弱ぶりは予想外だったのかもしれない。特に今日はずっとベッドに横たわったままだし。少女は会話の糸口を見つけあぐねていて、彼女の方が相手の生活を訊いていくという調子だった。

 あまり時間の経たないうちに少女が部屋の時計を見て言う。

「あ、来たばっかだけど、ごめんバスがあんまりないからもう出なきゃ」
「バス? バス停からはどうやって来たの?」
「歩いて」
「えっ?」

 それまでずっと黙っていたけど少女の言葉に驚いてつい声を漏らしてしまい、彼女の声と重なった。

 てっきり自転車で来たと思っていた。この病院は山の中にあるから、バス停が遠いのだ。バス停から歩いたら一時間までかからないだろうが、三十分ではまず着かない。そんな距離。

「遠いじゃん、サトルに送ってもらいなよ」

 彼女は俺になんの断りもなくそう言うけど、ちょうど俺もそれを考えていた。しかし初対面の男と、従姉妹の彼氏と車で二人きりなんて、気まずいことこの上ないじゃないか。相手が嫌がるだろう、と思っていると案の定、

「え、い、いやいいよ申し訳ないし! そこまで遠くないし」

 少女は慌てた様子で断った。しかしその少女は旅行帰りなのかよく分からないけど、通学よりは大きそうな荷物も抱えていて、それも理由に彼女から強く推されて結局俺の車に乗ることになった。急ぐ必要はなくなったのでもうしばらく二人は会話を続ける。

「じゃあまたね」

 彼女はこの病院に来てから、別れ際には必ず「またね」という言葉を使うようになった。


 少女が俺の少し後ろをついてくる。「ごめん後ろは荷物があるから助手席に」と言うと短く「はい」と言って車に乗り込んだ。車を発進させてバス停へ向かう。

 バス停の名前を確認したあとは何を話していいのやら思いつかず、こちらが黙ってる方が相手も気を遣う必要がないとわかるんじゃないか、なんて胸中で言い訳をして黙っていた。大して長い時間ドライブするわけでもないし無言でいいだろう。つけっぱなしのラジオから流行の歌だけが聞こえてくる。

 信号待ちをしていたとき、視界の端で何かが動いたので何も考えずにそちらを向いてしまったら、少女が目をこすっていた。俺はすぐに前を向いて、そのあとに彼女は涙を拭っていたのだと気づいた。

 俺だったら見て見ぬ振りをされるほうが辛いなと思って、「ごめん」と口にする。

「いえ、すみません……泣かないようにしてたんですけど……」

 すでに発車していたので横は見なかったが、視界の隅で少女がまた涙を拭いた気がした。

「あんなに痩せてるなんて、あんなか細い声だなんて、思わなくて」

 誰にともなく、言い訳をするような調子で少女が続けた。

 そうか、健康な彼女しか知らない人が今の彼女を見たら、相当なショックを受けるものなのか。ぼんやりと考える。この少女は、彼女の命がもう長くないというのをさっき初めて実感したのかもしれない。ちょうど、彼女が今の病院に移ることにしたと聞いたときの俺のように。

 大人になる過程の中には「人は死ぬ」という事実を改めて「知る」ことが含まれるんだろうな、なんて、最近思う。半年前までの俺や、おそらくさっきまでの少女のように、幸せな子供は何だかんだ全てうまくいくと思っている節があるのだろう。知らないうちに大人が全てどうにかしてくれていたから。その幻想を現実に打ち破られて、病気に、事故に、犯罪に、災害に、不況に、諸々に恐怖するようになって、人は大人になるのだろう。ああ嫌だ、ずっと子供でいたい。

 俺より少し若い年齢で大人になるための大きな段差を迎えることになった少女は、バス停についてもまだ涙が止まっていなかった。そのままドアを開けて降りようとする。

「すみません、ありがとうございました」
「家の近くのバス停まで乗って帰るの?」
「いや駅で降ります。定期が使えるので」
「じゃあさ、よければその駅まで送るよ」

 泣いたままバスに乗るのと慣れない男と車に乗るのと、どちらがマシなんだろうかと思いながらとりあえず提案すると、少女は俺の車に乗ることを選んだ。ラジオからは控えめな音量で、日曜の昼にはふさわしいけどこの車にはあまりふさわしくない陽気な会話が聞こえてくる。

「お母さんから聞いたんですけど、ミカ姉ちゃんの父方の叔母が、この前あそこに行ったらしいんですよ。それで、ミカ姉ちゃんを見てずっと泣いてたとか。見舞いに来てずっと泣かれても、無駄に辛気臭くなりますし、本人が一番困りますよねえ」

 苦笑したような声が隣側から聞こえてきた。

「だから本人の前ではどうにか我慢したんですけど、飾ってあった写真を思いだしちゃって……」

 本が立てられている側のベッドを挟んで反対にはボードが立てられていて、メモのほかに二枚だが写真が飾られている。俺と彼女が二人で笑っている写真と、彼女の母親の誕生日に家族三人でパーティグッズを身に着けた写真だ。どちらも楽しそうな写真なのだが……。

 ああ、この少女は今日の彼女しか見てないから、あの写真から今の状態まで直線的に悪くなったと思ったのかもしれない。そういえば今日の彼女はほとんど笑っていなかった気がする。もう彼女はあんなふうに笑うことができないのかと、悲しくなったんだろうか。入院してからもあんなふうに楽しそうにしてたときがあると分かって、ほっとした気持ちもあったんだろうか。

 想像すると胸が苦しくなった。自分の知っていた従姉妹は病気で、もう治療もしてなくて、目を閉じると永遠に起きないんじゃないかというくらい痩せ細って弱りきってて。もう、飾られた写真のように笑っていた日々は戻ってこなくて。

「今日のあいつは特別具合が悪かったんだ。いつもはあそこまでないよ」

 自分の想像を振り払うように言うと、

「あっ、そうなんですね」

 少女は今日聞いた中で一番嬉しそうな声を出した。

 ……かといって明日は今日より良くなる保証なんてどこにもないんだけどね。

 我ながら縁起でもないし泣きなくなるようなことを考えてしまって、それから駅に着くまでひたすらラジオに意識を向けていた。



*もうちょっと続きます