複雑・ファジー小説
- 君と共に足音を ( No.25 )
- 日時: 2015/09/05 18:56
- 名前: 雷燕 ◆bizc.dLEtA (ID: a6RsoL4B)
また別の日、いつものように彼女のいる病院に行き、扉の前でいったん足を止めた。中から話し声がする。今日行くとメールをした時「もうすぐ帰ると思うけど一応親が来てる」と返信があったから、彼女の両親だろう。
何度も会ったことはあるけど一緒に見舞うというのもなあ、と思っていると、こちらへ向かってくる足音が聞こえた。あ、と言ううちに扉が開かれる。向こうも「あ」と声を漏らした。
「すみません」とりあえず扉の真ん中から逃げる。「こんにちは、ご無沙汰してます」
「あらサトル君」
「ああ、きみは」
彼女の母親に次いで父親が個室から出てきて、扉を閉める。二人はそこで足を止めてしまって、何か気の利いたことを口にしようと思ったがすぐには思いつかなくて視線を軽く落とす。すると両手に提げられた荷物が目に入った。
「あの、荷物、車まで運びましょうか」彼女に頼まれたものを持ち帰りして、俺が買ってきた本なんかも持って帰ってるみたいだから、結構重いだろう。
「あー、じゃあお願いしようかしら。ね」
母親のほうが最後は父親のほうを見ながら答えた。二人からひとつずつ、見た目に重そうな袋を持って駐車場まで歩いた。
車の横でご両親に荷物を渡しているとき、「はーいありがとうー」という荷物運びに対するお礼のあと。母親のほうがふと言った。
「あと、ずっとあの子のところにいてくれて、ありがとうね」
悲しげに笑いながら。
俺としては彼女の傍にはいたいからいるだけで、感謝されることだとは思わないのだけど、それを伝えようとして気恥ずかしくなって、
「それは、その……ミカさんですから」
しどろもどろに言うことになった。それを聞いたご両親共々笑ってから、それじゃあね、と車のドアを閉めた。
「ねえ、蛍が見たい」
部屋に戻ると開口一番に彼女が言った。
「蛍? 連れてくのはいいけど、そんな遠くまで行けんの?」
彼女の従姉妹が見舞いに来たあの日よりは体調もマシになったようで、ベッドテーブルを見るに見舞いが来るまでは本を読んでいたらしいが、とても遠出なんてできる体力はないはずだ。片手で捻られそうなほど細い脚は、まあ俺が車椅子を押すからいいとして、車に長時間乗って大丈夫なのか。
「それがね、ここからそんなに離れてない渓流で、たくさんじゃないけど見れるらしいの。ちゃんとした道があるか微妙だけど……車椅子押してくれないかな」
断る理由はなかった。ちょうど親に懐中電灯を持ってきてもらったとか言うし。オレンジ色の光がだいぶ弱まった頃に、少し外を散歩したいから車椅子を貸してくれないかとスタッフへ頼む。森の中には入らないでくださいね、と守るつもりのない注意を聞き流した。
外へ出て彼女に渓流の場所聞くと、「駐車場の周りをぐるっと行って、どこかで山に入ればいいはず」なんて言う。
「いや適当すぎるだろ。本当にあるの」
「まあなかったらどんまいってことで」
こりゃあ蛍を見れる可能性は低いな……と思っていると、一箇所、森の中へ続く小道が見える場所があった。人が歩いて草を掻き分けた跡が道のようになっているだけではあるが。
車椅子が入れる様子ではなかったので、彼女をおんぶして山の中に入る。彼女の軽さが胸に刺さった。幸い道はあまり坂道を上り下りはしておらず、それでも決してよろけたりしないよう、一歩一歩気をつけて歩く。ざっ、ざっ、と、地面を踏みしめる確かな足音がした。俺たちがここにいる音がした。
「サトルにおんぶしてもらうの初めてかなあ」
耳元で細い声がした。
「たしか初めて」
「そっかあ……」
彼女はそれきり黙ってしまった。
しばらく歩いたが景色に変化は見られない。そういえば人が歩いた形跡があるからといってその先に渓流がある保障はどこにもないわけで、病院の方に心配をかけるわけにはいかないからどれくらい経ったら引き返そうか……と、考えていた頃。さらさらと水の流れる音が耳に入ってきた。
「正面だね」
「正面だな」
まっすぐ進むと、確かに小川があった。蛍はいなかったが辺りはまだ薄明るく、待っていたら見られるかもしれない。きょろきょろと見回すと座るのに都合のよさそうな岩があったので、そこまで行って彼女を降ろした。「少し待とうか」と俺も彼女の隣に腰かけて、ぼんやりと水の流れを眺める。
さらさらと、一時も止まることなく流れ続ける水。さらさらと、水がそれを望んでいようがいまいが、おかまいなしに。さらさらと、俺がそれを望んでいようがいまいが、おかまいなしに。
この音がやんでしまえばいいのに。水の流れが止まって、時間の流れが止まって、太陽が沈んでもまだ薄明るいこの瞬間のままで、永遠に彼女と二人で。
彼女の左手が俺の右手に重なってきたのでそっと握りしめた。
彼女へと近づく死の足取りが、止まってしまえばいいのに。
「ゆっくり死んでいくことの唯一いいところは、準備ができることかなって思ってたの」
水温と虫の声だけが響いていた中、唐突に聞き取りにくい声がしたので右側に顔を向ける。彼女は無表情に水の流れを見つめていた。
「自分が覚悟しなきゃいけないのは余計だけど……周りの人の悲しみが少しは減るのかなあって」
「減らない。いきなりだろうが分かってようが同じくらい苦しい」
「そっか。きっとそうだよねえ」
辺りがどんどん暗くなってきた。
「あとね、やり残したことは無くせるのかなあって、思ってた。無くすつもりで今のとこに移ったの。でもね、結構絵は描けたけど、興味があった本は読んだけど、まだまだなんだ」
かすかに彼女の手に力が入るのを感じた。
「サトルが得意だって言ってたスキーにもまだ行ってないし、治るって信じてた頃に買った新しい水着も浴衣も着れずじまいだったし、生で見れてないバンドいっぱいあるし、サトルと海外旅行にも行きたかったし」
彼女の手は震えていた。
「一緒に蛍が見たかったのもここのこと聞くまで諦めて──」
「あ」
彼女は突然話をやめ、俺は思わず声を漏らした。
一瞬黄色の光がついて、すぐに消えた気がした。二人で黙って前方を凝視していると、すぐに同じ光が現れる。小さな光がゆらゆらと不規則に飛んでいた。ひとつだけだった光は、俺たちが呆気に取られている間に、ふたつみっつと増えていく。
暗闇の中でゆらゆらと流れる光。水とは違って、自らの思うがままに。
「蛍、見れたな」
前方に視線を奪われたままそう呟くと、視界の隅で彼女が頷いたのが分かった。それから、「ひっく……」彼女の嗚咽が聞こえてきたので驚いて隣を見る。彼女は下を向いて右手で涙を拭っていた。
「ミカ」
「いやだ、私、死にたくない」
彼女からそんな言葉を聞いたのは初めてで、俺は声を失った。たぶん彼女も俺も臆病だったから、今の病院に移ってきた事実に「もうすぐ死ぬよ」というメッセージを含ませて、受け取って、直接口にするのは避けていた。彼女が肉体的そして精神的にどれほど苦しんでいるのか分からなくて下手に触れられなかったし、それにそんなことを口にしたら俺の方まで……。
少しでも彼女を安心させたくて、あと目が潤んでたと思うからたぶんそれを隠したいのもあって、座ったまま体を捻り彼女の顔を自分の胸に押し付けた。腕の中で彼女はまだ泣いている。
「死にたくない、まだ一緒にいたい、もっといろんなことしたい、いやだ」
「大丈夫、まだ死なないから。まだ一緒にいるから」
こんなことしか言えなかったけど、彼女はそれで黙って、俺の腕の中でしばらく泣いていた。どこかでかさりと草の音がして、俺にはそれがやつの足音のように聞こえて、彼女を抱きしめる腕に力をこめる。まだだ。まだお前になんか渡すものか。
彼女は「たくさんじゃない」と言っていたけれど、辺りにはいつの間にか数え切れないほどの蛍が飛んでいた。
*終わりです。お読みいただきありがとうございました。