複雑・ファジー小説

Re: 101の日常達 ( No.26 )
日時: 2017/09/10 00:03
名前: 雷燕 ◆bizc.dLEtA (ID: tf4uw3Mj)

黒の女


 ある日、妹が見慣れないぬいぐるみを持っていることに気が付いた。私より九つ年下でまだ小学校にも上がっていない彼女は、お気に入りの赤いワンピースの胸元に、犬とも猫ともつかぬ、黒いぬいぐるみを抱えている。

「朱莉、そのぬいぐるみ、どうしたの?」
「えへへ、サオリおねーさんがくれたんだ」

 朱莉は屈託のない笑顔で答えた。
 沙織さんとは最近朱莉とよく遊んでくれている近所の女性のことだ。母親はよく平日の昼間、幼稚園が終わった後に朱莉を公園へ連れて行くのだけど、朱莉は私と似て引っ込み思案で、近所の子供たちとうまく馴染めていないらしい。一年ほど前、朱莉がひとりで砂遊びをしていたところ、話しかけてくれたのが沙織さんだった。公園では近所のママさんたちが子供たちを遊ばせる傍らでお喋りをしているのが通例なのだが、沙織さんは母に挨拶をするくらいでママさんたちの方に混ざることはなく、公園に来るといつも朱莉を遊んでいるそうだ。

 沙織さんには私も何度か会ったことがある。見た目から察するに二十代だろうか。物静かな人で、朱莉を見るときはずっと、大きな口を横に伸ばして薄笑いを浮かべていた。微笑んでいた、と言うべきなのかもしれないが、そのしっとりとした笑みが私は少し苦手だった。彼女がいつ見ても黒い服を着ているというのが、原因のひとつだったと思う。

 このように彼女に対してあまり良い印象を持っていなかったから、彼女がくれたというぬいぐるみも少し不気味に見えてしまった。他の人からのプレゼントでそんなことを気にしたことはなかったのに、人に物をあげるという行為は、相手の家でも自分の存在を主張する手段であるように感じる。あの、黒の女性が、家でも朱莉を見ている。
 でも、そんなことを思うのは、きっとただの嫉妬だ。勉強と部活に忙しいからと言って自分は朱莉とあまり遊んであげられないくせに、朱莉が沙織さんに懐いているのが気に食わないだけなのだろう。

 そう自分に言い聞かせ、ぬいぐるみの黒光りする瞳をしばらく見つめてから、朱莉のいるリビングを離れた。


 それから一週間ほど経ったある日、私が部活から帰ると、朱莉が大泣きしていた。

「いやだあああああ! おねーさんのところにとまるのおおおおお!」

 朱莉は私のことは「お姉ちゃん」と呼ぶから、「お姉さん」と言えば沙織さんのことだ。そしてこの発言から大体の状況は読める。おおよそ、朱莉が沙織さんの家に泊まりたいと駄々をこね、母親に反対されているのだろう。

「ただいまー」
「あらおかえりなさい。ほら朱莉、お姉ちゃん帰ってきたからご飯にするよ! とにかくお泊りは駄目だからね!」

 なおも泣きじゃくる朱莉を無視して、母はご飯をよそい始めた。調理台上の皿には既に冷しゃぶが盛り付けられていて、お腹がすいていた私の興味もすぐにそちらに移ってしまう。
 まだ幼い妹が駄々をこねて不機嫌になるなどいつものことなので、母も私も慣れっこだ。実際にこの日も、無理やり朱莉を席に着かせると不機嫌そうながらもご飯を食べ始めた。父親は単身赴任で普段家にいないので、女三人で食卓を囲む。

 食事のあと、朱莉は泣き疲れたのかリビングのソファーで寝てしまった。ルルと名付けたらしい黒いぬいぐるみに抱きついて、寝息を立てている。ぬいぐるみが上を向いている形になっていたので、私はぬいぐるみと目が合ってしまい、あの女性の黒い服が頭に浮かんだ。

「さっき朱莉が泣いてたのって、沙織さんの家に泊まりたいって言ってたの?」

 テレビをつけながら母親に聞く。画面ではニュースが熱中症を警告し始めたが、興味もないので適当にチャンネルをいじる。

「そうそう。朱莉の相手をしてくれるのは助かるんだけど、相手のお宅に行ったこともないし、正直よく分からない人でちょっと怖いわ……」

 私のような嫉妬はともかく、得体の知れない女の人が朱莉の心に入り込んでいることへの不気味さについては、母も感じているのかもしれない。

「泊まるっていうのも話を持ち出したのは向こうらしいし、そういうのは困るって伝えておこうかしら……そういえばぬいぐるみのお礼をしてないし、お菓子でも渡すついでに」
「ふーん、いいんじゃない?」

 ちらと朱莉の方を見ると、ぬいぐるみが黙って私たちの会話を聞いている。
 チャンネルを転がしたものの面白そうな番組がなかったので、私は諦めて、置きっぱなしだったかばんを取って自分の部屋へ向かう。


 次の日、私は午後の授業中に驚愕の知らせを聞いて学校を早退することになった。電車を乗り継いで目指すのは、病院。最後の駅を出ると私は駆け足で受付まで行き、面会の許可を貰った。聞かされた番号の病室の前で、患者の名前を確認して中へ入る。
 個室のベッドで横になる母は、右腕をギプスで固定し、顔や腕のいたるところにガーゼを当てた痛ましい姿で、部屋に入ると私は一瞬足が止まってしまった。ベッドの脇では朱莉がちょこんと座っていた。私も二人もとへ駆け寄る。

「お母さん! 大丈夫!?」
「来てくれてありがとう。命に別状はなかったから大丈夫よ。学校の途中だったでしょうにごめんね」

 母は弱弱しく笑いながら言った。命に別状はない、という言葉に私はひとまず胸を撫でおろす。
 話を聞くと、母親は公園からの帰り道で交通事故にあったらしい。横断歩道を渡りきった時、朱莉が突然手を放し、道路へ戻って飛び出したそうだ。視界の端に車をとらえた母親が咄嗟に朱莉を庇い、自身が轢かれる形になってしまった。見ると、朱莉も腕に絆創膏をしている。

「なんで飛び出したりなんか!」

 思わず私がそう言うと、母親は「まあまだ子供だから……」と言いつつ、ぬいぐるみを道路に落としたらしいことを教えてくれた。
 ぬいぐるみ……!
 朱莉はあの黒いぬいぐるみを抱きかかえて座っている。まだ注意力の散漫な幼稚園児を怒ったところで何にもならないことなんて分かっているけど、ましてやぬいぐるみなんて朱莉が落としただけなのだけど、やり場のない怒りが私の胸で暴れていた。さっきの私の声で縮こまった朱莉に対して何かを言う気も起きず、私は黙り込んだ。

 母親の怪我は命に別状になかったとはいえ、見込みでは一ヶ月近く入院しなければならないらしく、全く安心できる状況ではなかった。父親は普段家にいないのだから、その間私が家のことを全部やって、朱莉の面倒も見なければならない。母親が退院してもしばらくは通院生活で、体だって不自由だろう。母親と話して今後のことを考えるうちに、肩にずっしりと不安がのしかかってくるようだった。いや、母親が事故にあった時点で存在していたその重みに、ようやく気が付いてきたのだろう。
 外が暗くなってから、妹と共に家へ帰った。何度も説明はしたのに、朱莉は「お母さんは帰らないの?」なんて言っていた。


 部活道具を持たずに学校へ来たから、体は軽いはずなのに、私の足取りは重い。放課後、いつもなら着替えて部活前のストレッチをしている時間だけれど、私は朱莉を迎えに幼稚園へ向かっている。
 顧問の先生には、少なくとも母親が退院するまでは部活を休む旨を伝えた。父親はすぐに帰ってこられる場所にはいないし、幼稚園の預かり保育も、私が部活を終える時間まで預かってもらうのはさすがに不可能だそうだ。秋の大会を諦めることに等しいので本当は嫌だったけれど、自分がけがをしたというのに朱莉と私のことを気遣ってくれる母親には、なるべく安心してもらいたかった。

「おねーちゃん! おそーい!」

 朱莉は顔を出すなり大きな声でそう言った。学校が終わって幼稚園まで直行してこの時間なのだから、遅いと言われても困る。

「お姉ちゃんはこの時間にしか来れないから、他の預かり保育の子たちとお友達になって遊んでてね」

 そう言って朱莉をたしなめたものの、人見知りの彼女には難しいだろうなと予想はついていた。今だって早くいつもの公園で遊びたいとばかり言っている。一旦帰宅して朱莉を赤いワンピースに着替えさせ、私も私服に着替えてすぐに二人で出かけた。朱莉は忘れずにぬいぐるみを持ち出す。
 公園では見覚えのある子供たちが遊び、見覚えのあるママさんたちが井戸端会議をしていた。

「お母さんはどうしたの?」
「え、交通事故! 今は病院なの?」
「お父さんは? 帰ってこないの?」

 質問攻めをされて、私はすぐに疲れてしまった。こちらは本当に困っているのに、手助けする気もなく根掘り葉掘り聞かないでほしい。父親は半日程度では帰ってこられないから仕方がないのに、勝手に責めないでほしい。……そう思うのは、本当は私も父親に対して不満を抱えていて、それを「仕方がない」と押しこめているからなのだろうか。
 妹と遊ぶので、と言ってママさんたちとの会話は早めに切り上げた。朱莉と一緒に砂場へ行く。すると、ちょうど私たちが砂場に座り込んだタイミングで、上から女性の声がした。

「あら、今日はお姉さんだけなの?」

 先ほどのママさんたちとは全く質が違う、落ち着いた声だった。顔を上げると、黒い服に身を包んだ女性がこちらを覗きこんでいる。記憶と同じように、顔には笑みを張り付けて。

「お母さんがちょっと、しばらく来れないので」

 何となく沙織さんには交通事故のことを言いたくなくて、曖昧な言い方をした。真夏、まだうだるような暑さの夕方だというのに、彼女は汗の一滴も浮かべておらず、一人だけ冷気を纏っているかのようだ。

「何かあったのかしら?」
「まあ、大したことじゃないので、少しの間だけです」
「そう……頂いたお菓子が美味しかったから、お礼を言いたかったのだけど、残念ね」

 残念だと言いながら、しっとりとした笑顔はそのままである。そういえば母親が事故にあったのは沙織さんにお泊りの件を話した後だ。関係がないことなんて分かっているのに、全て知られているような気がしてしまう。これから朱莉とここで遊ぶということは、沙織さんと一緒に遊ぶということか……。嫌だなと思ったし、そう思ってしまった自分自身も嫌だった。そうだよ、久々に妹と長く一緒にいられるのだから、変な嫉妬も必要ないじゃない。
 朱莉がおままごとをしたいと言うので、おもちゃに砂を詰めて、みんなで食事を用意する振りをする。ちょうどいいと思って、「今日朱莉さんが食べたいご飯は何かな?」と聞いてみた。

「今日はねー、ハンバーグを作ります!」

 元気いっぱいに答えてくれたので、帰りにスーパーに寄って挽肉を買おうかな。お惣菜や買ったお弁当ばかりというのも良くないだろうから、なるべく私がご飯は作りたいけど、一ヶ月もできるだろうか。ご飯だけじゃない。掃除も洗濯も、家のことは私がしなければならないのだ。
 砂を口の付近に運びながらそんなことを考えていると、朱莉が突然立ち上がった。

「あかりは、お風呂あらいなら一人でできるよ! おねーちゃんだけじゃないよ!」

 私はきょとんとしてしまった。そして朱莉が、私を手伝うよ、と言おうとしているのだと気づいた。思わず笑みがこぼれる。不安が顔に出てしまっていたのだろうか。そうだ、朱莉はただの重荷なんかじゃない。大切な家族だ。当たり前のことだ。

「ありがとう。じゃあお風呂は任せちゃって、お姉ちゃんはご飯の後片付けするね」
「じゃあ私はお手伝いをしようかしら?」

 一緒に遊ぶことにしたのは、朱莉を放っておくわけにはいかないからという気持ちだったけど、自分も妹と一緒に遊ぶことを楽しんだら、案外悪いものじゃないかもしれない。
 その時、ポケットで着信音がした。画面を見ると父親だ。ちょっと失礼します、と言って少し離れた場所で電話を取る。

「もしもし、お父さん? どうしたの?」
「もしもし、元気でやってる? 二人で家に残してごめんな。週末には家に帰れることになったから。来週からも、週末だけでも家にいるようにした」
「本当! やったあ!」

 やっぱり父親も、ちゃんと私たちと母親のことを大切にしてくれてるんだ。週末に父が家に来てくれるなら心強いし、月に一度も会えなかった父親に毎週会えるのは、単純に嬉しい。母親が家にいない間も、案外、何とかなるかもしれない。むしろ、妹とめいっぱい遊ぶために利用するくらいでいいかもしれない。そう思えるようになってきた。

「平日は朱莉をよろしくね。今は一緒にいるのか?」
「うん、ちょうど二人で公園に来てて——」

 そこで砂場に目を戻すと、二人はいなかった。心がざわつく。いや、単に別の遊びを始めたのかもしれない。ざっと公演を見渡したが、朱莉の赤いワンピースも、沙織さんの黒いブラウスも、見当たらない。

「どうした?」

 父親の声がして、はっと意識が電話に戻った。

「ううん、何でもない。今ちょうど朱莉と遊んでるとこだから、そろそろ切るね」
「わかった。バイバイ」

 いなくなった、なんて言って無駄な心配をかけたくない。まずはトイレへ向かった、女子トイレの個室も、多目的トイレも全て空いている。公園の周りをぐるっと一周した。知らない通行人ばかりだ。ママさんたちに聞いてみた。「あら、さっき一緒に砂場で遊んでたわよね?」。
 もう一度砂場へ行くと、おままごとに使っていたバケツやスコップがそのまま放置されていた。それだけじゃない。あの黒いぬいぐるみも、放置されていた。最近の朱莉は、幼稚園以外のどこへ行くにも手放さなかったのに。不安が一気に膨れ上がる。

 待っていれば戻ってくるかもとは思ったが、いてもたってもいられなくなって、近くを走りまわって人に聞いて回った。赤いワンピースの子供と全身黒い服の女性。誰も、そんな人は見ていないという。そのうち空がオレンジに染まり、他のママさんたちは帰宅したようだった。何度公園に戻っても二人はいない。黒いぬいぐるみがこちらを見ているばかり。

 朱莉は見つからなかった。交番に駆け込んでも、日が暮れても、そのうち日が昇っても、それを何度繰り返しても、朱莉は見つからなかった。



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(夏だから——なんて言って突然ホラーをぶち込んでくる作家が、私は嫌いです。)