複雑・ファジー小説

Re: 101の日常達 ( No.27 )
日時: 2018/12/01 20:08
名前: 雷燕 ◆bizc.dLEtA (ID: tf4uw3Mj)

イチョウ葉と革靴


 恋した相手が待つ家というのはいいものだ。これは彼女の好物だからきっと喜んでくれるぞ、と考えるだけで残業帰りのスーパーも楽しめる。安い総菜を片手に、昼間あんなにうるさかった蝉も静まり返った暗闇の中、革靴を鳴らす。
 アパートのドアを開けると、いつものように彼女が出迎えてくれた。今日は遅くなってごめんね、と謝りながらもついつい笑顔になる。暑苦しいスーツを脱いでから二人ぶんの食事を皿に盛って、彼女ががっつく様子を微笑ましく眺めながら私も惣菜を口に運んだ。余裕がなくて全然料理をできなくても、文句を言わないどころかいつでも楽しそうに食べる彼女が大好きだ。

 食事を終えてから風呂に入るまでは、彼女とともにゆったり過ごす毎日の癒しの時間。昔みたいにはしゃいで遊んだりはしないけれど、彼女の体温や柔らかい毛の流れを指先で感じていると、うん、明日も仕事を頑張れる気がする。
 さあ、朝が早いから寝なくては。風呂から出て石鹸の匂いを漂わせていると彼女がすり寄ってくる。可愛い。私がセミダブルのベッドに入ってから掛布団をまくし上げて「おいで」の合図をすると、いつものように彼女もベッドに上ってくる。夏にはたいへん迷惑な天然湯たんぽである。

 こんな生活がかれこれ十二年は続いている。


 マツムシとコオロギの声を聞きながら帰宅する季節になると、彼女の体はずいぶんと弱ってしまっていた。それでも、仕事から帰ると必ず玄関で出迎えてくれる。たぶん朝見送ってくれてから、ほとんど動いていないのだと思う。以前なら残業がない日は夕食前に一緒に外へ出かけたものだが、彼女の体力の低下に伴ってそれもしなくなった。年二回は病院で健康診断を受けてもらっているが、これといった病気ではないそうなので、私も覚悟はできている。

 色づいたイチョウの葉がすっかり落ちてしまったあと、彼女は自分からは何も口にしなくなった。私は無理を言って来週の金曜まで有休を取った。
 その三日後には寝たきりになった。たまに私が寝返りを打たせてやる。スポイトで口に入れれば水分は摂ってくれるので、塩と砂糖を溶かした薄いスポーツドリンクのようなものを飲んでもらった。

 彼女の、浅くゆっくりだった呼吸が突然激しくなった。一見元気になったようにも思われるが、幸か不幸か私はこれが本当に最期の合図であることを知っている。すっかり力が抜けてしまってぐにゃぐにゃの肉塊と変わらない彼女の体を抱きかかえ、ただただ頭を撫でることしかできなかった。ありがとう、愛してるよ、ありがとう、と声をかけ続けるが、彼女は最近耳が遠くなっていたので、ちゃんと伝わっているかはわからない。

 やがて、喘ぐような呼吸が止まった。ああ終わったのかと認識して視界が滲んだ時、彼女は全身を震わせ始めた。死後の痙攣という現象を思い出すまでの二秒間、私は本気で彼女が生き返ったのだと思った。
 ひとしきり涙を流したあと、彼女をベッドに寝かせ、冷蔵庫に大量に用意しておいたドライアイスで周りを囲った。まともに喋れるようになったら葬儀屋に電話をして、明後日に火葬することになった。

 亡くなったあとのお供え物まで先に用意しておくのは嫌だったので添えられるものが何もないのだが、とても外出できる状態ではない。明日起きたら買いに行こう。彼女が埋もれてしまわんばかりの花を買ってこよう。


 長らく休んでいたぶんを取り戻すという名目で、ただただ気を紛らわすために仕事に打ち込んだ。先週までなるべく避けていた残業は、むしろ家にいる時間を減らしてくれるので進んでやった。そうやって、オフィスに私と事務職の女の子一人だけが残された日だった。その子が作成した資料を貰ってから帰りたくて、雑務をしながら待っていたような気がする。ファミレスで夕食を取りながら説明をしたいと言われたので、オフィスに用事もない私は素直についていった。注文をしてから料理が届くまでに説明自体は終わってしまった。

「廣瀬さんって、付き合ってる方はいるんですか」

 ……あれ、どうしてこんな話の流れになったんだっけ。思った以上に心ここにあらずだったらしく、ライスに全然手を付けないままハンバーグを食べ終えてしまいかけていることにも今気づいた。白い米粒をフォークですくいながら、もういないよ、と質問に答える。このライス冷えてて味もないな。米って味があるものだったっけな。

「よかった」

 向かいに座る子が顔を晴れさせる。全然よくないよ、と胸のあたりでもやもやとした渦が巻いたが、相手は何も知らないのだから仕方がない。

「あの、図々しいのはわかってるんですけど、二十四日、よければ空けておいてくれませんか」

 そうか。世間はそんな時期になっていたか。寒くなると、出社前に私を散歩に連れ出そうと起こしてくる彼女に抱き着いて、たっぷり体温を貰ってからベッドを離れるのが日課だった。そういえば今年の冬はずいぶん冷えると思っていたが、そうか、布団の中の体温が単純に一つ減っているからだ。

「廣瀬さんて、飲み会とかほとんど来なくて、仕事もすぐ帰っちゃうし、クールな人だなって思ってたんです。でも、この前の長期休暇が愛犬を看取るためだったって聞いて……本当はすごく優しい人なんじゃないかって」

 そういえばこの子、同僚のおしゃべり好きな女性から話を聞いたことがある気がする。「ちょっと可愛いことを自覚してて計算高いけど、悪意はないから賢く上手くやる子」と評されていたっけ。

 視線を正面に向けると、オフィスでは見たことがないような真剣な表情をした後輩の女の子がいた。あまりに真剣なものだから、視線に引きずられて思考が目の前の風景に戻ってくる。ああ、そうだな、こういう子に騙されることができたなら、あるいはわかって可愛がることができたなら、どんなに幸せだったろう。誰にも否定されない恋愛をして、自分と同じだけの時間を生きるヒトと添い遂げられたなら、どれだけ楽だったことか。
 ごめん、君の期待には応えられないから、その日は予定を入れておくよ。

「な、なにもすぐに付き合ってくれってわけじゃなくて、まずは仲良くなってお互いを知りたいなって」

 でも君は、私のことを知ったらまず間違いなく気持ち悪いと感じるよ。実家で飼っていた犬で精通しただなんて、そもそも知りたくもないだろう? 君には絶対に反応できないだなんて、知らないほうがいいだろう。
 そうして思考は再びふわふわと飛び立って戻ってこなかった。そのあとどんな会話をして店を出たんだっけ。はっきりと理由を言うわけにもいかず、ひたすらごめんと繰り返していた気はする。

 革靴の音が止んでアパートのドアを開けると、真っ暗で静まり返った部屋が出迎えてくれた。そのあと四日ぶりに泣いた。