複雑・ファジー小説
- Re: 世界を作る、霧の様な何か。 10/13更新 ( No.2 )
- 日時: 2012/10/14 08:48
- 名前: 柚子 ◆Q0umhKZMOQ (ID: ccgWKEA2)
第一話『人間カタログ』
私は、一体何をしているのだろう。ひとみの中に映る、真っ白な天井。鼻につく消毒液独特のにおい。大丈夫ですか、と遠くから聞える優しい女性の声。一体、私は何をしているのだろう。
ゆっくりと右腕を上げてみると、ぐるぐる巻きにされた包帯が目に入った。二の腕あたりには、点滴用の注射針が刺さっている。右腕を下ろし、小さくため息を吐いた。私は、本当にどうしてしまったのだろう。同じ疑問が、ぐるぐると脳内を駆け巡る。
そうだ、考えるのをやめよう、私に何が起きているのか、分からない。またため息を吐いて、重たくはない瞼を落とした。瞼の裏に生まれた黒い空間。無駄に広くて、上下左右も分からない。
この中に、私が居たとして……一歩進めば、もうどこから来たのかも分からなくなるのだろう。包帯を巻かれた右腕で体を支えれば、きっと骨も折れてしまうのだろうか。
「こんにちわ、お目覚めになりましたか」
不意に耳に入ってきた女の声に、瞼を開く。黒い空間の明度に慣れていた目を、白が照らす世界の明度へと慣らす。ぼやけていた光と、声の主と思える女の顔が、慣れてきた目の中で鮮明に映った。
栗色の髪を後ろでお団子にして止めた、赤ふちメガネの看護師。世間の不思議な思考回路を持つ人間達は、“白衣の天使”とでも形容するのだろう。私にそうは、見えないけれど。
「お体の調子は、大丈夫ですか? だるいとか、痛いとかありませんか」
優しく問いかけてくる彼女の手には、腕に巻かれた包帯を取り替えるための、新しい包帯があった。私は彼女の問いかけには答えず、また黒い空間へ戻ろうと、瞼を閉じる。
「具合聞いてんだから、返事したらどうなのよ。どこが痛いとかこっちが分からないっつーの」
それは、彼女の声だった。私の横になっているベッドの脇に立っている、“白衣の天使”の声。不思議の思い閉じようとした瞼は、瞬きとしてその行為を終了させた。
顔を横に傾け、じっと彼女の顔を見る。暴言を吐いたのにも拘らず、彼女は笑顔で「今から包帯替えますねー」と、私の右腕を持ちながら告げる。瞬間的に切り替わった彼女の態度に、私はついていけなかった。
「私は、どうしたのだろう」
彼女に向けていた視線が天井をとらえたとき、思わず口から言葉が漏れる。意図しないことだったが、私は同様も何もせず小さくため息を吐いた。
ただ、何故私が白衣の天使が居る病院らしき場所にいるのか、腕に包帯を巻かれ点滴をされているのかが、全くもって分からないのだ。
「患者様は、立ち入り制御区域に指定されている山道の入り口付近で倒れていたところを、そこを通りかかった地元の方に助けてもらったんですよ」
どうして、私はそんなところに?
私が有声音に表そうとした瞬間、鈍器に殴られたような鈍い痛みが頭全体に広がった。
- Re: 世界を作る、霧の様な何か。 10/15更新 ( No.3 )
- 日時: 2012/10/15 22:09
- 名前: 柚子 ◆Q0umhKZMOQ (ID: iAb5StCI)
痛い、痛い、痛い。痛い、その言葉しかこの鈍痛を表せる言葉がなく、私はぎゅっと目を閉じる。眼前に広がる黒い空間を、私は必死で走り始めた。後ろから誰が追い掛けて来るわけでもないのに、何故か私は走り続ける。逃げ続ける。
彼女の心配そうな声も、逃げ惑う私の耳には入ってこない。聞こえるのは、黒い空間の中で反響する私の乱れた呼吸音だけだ。最初は小さかった呼吸音は徐々にボリュームを上げ、私の聴覚を支配する。三半規管が機能しなくなる錯覚が、私を襲った。
黒い空間の重力に抗うことが出来ず、足を折って座り込んでしまう。それでもなお、私の頭は嫌がらせの如く脳をぐわんぐわんと揺らしに掛かる。ぐわんぐわんと、時たまとてつもない痛みが頭を襲った。良くないものが出来ているのかもしれない。
あの白衣の天使に、頭を機械で殴られているのかもしれない。様々な妄想や想像が、黒い空間で目を閉じる私の視覚を支配する。黒い空間で、私は初めて聴覚と視覚を支配された。
自分の思ったとおりに空間を進んでいるじゃないか。
そんな気休めは通用しないようで“考える”という行為さえ、私の脳は嫌がった。耐え切れないほどの痛みに、瞑っていた瞼を開く。世界は明るく白くなった。
「患者様、大丈夫ですか!?」
はぁはぁと乱れた呼吸に、口の中が渇いた感じがする。視線を下にやれば、必死に空気を吸って吐いている口が見えた。それから声の聞こえたほうへ、顔を動かす。たった一人だけのはずだった白衣の天使が、いつの間にか増えていた。白衣の天使ではなく、“白衣の堕天使”と言って良いだろう医者も、その中に居るようだ。
「私は、一体どうしたのだろう」
先程口から出た言葉が、またひょっこりと顔を覗かせた。その言葉が口から出て、どこか遠くへ遊びに行くと同時に、多くの有声音が聴覚を支配した。
「記憶無いのかしら」
「どうしたのだろうって、私たちが知ってるわけないじゃないのよねぇ」
「ったく、厄介な怪我人連れてきおって」
「見た感じ未成年っぽい感じだけど、保護者とかどうしたら良いのかしら」
「他の患者も入ってきてベッド足りないのに、お金払えない患者は出て行ってもらえないのかしら!」
一斉に、全ての言葉が重なったまま私の耳に侵入する。怖い、怖いこわいこわいこわいコワいコワイコワイコワイ! 体の芯が震え上がるような、なんとも形容し難い感覚が体中を駆け巡る。怖い。周りに居る天使の皮を被った悪魔が、どうしようもなく怖くなった。
倒れていた理由が分からないのだから、保護者なんて分かるはずがない。そう言おうとしても、口が閉じたまま開こうとしない。意味の分からない不思議な感覚が、体を廻り廻った末一つの心のファイルをめくった。いや、それは私の心のファイルではなく記憶のファイルだった。
「君、名前は? あと年齢と職業、性別も教えて欲しいんだけどな」
白衣の悪魔達の中の一人が、優しく私に言う。二度目の幻聴、というには鮮明で私の脳を反響して回った声とは、全く違った。何処までも慈愛に包まれ、深い優しさがある暖かな声。私は一度瞬きをし、天井を視線いっぱいに含みながら口を開いた。
「名前は、斉賀 香佑(サイガ コウ)。性別は……女で、年齢は多分十七歳。あとは、何も分からない、です」
誰かに操られているかのように、スラスラと今分かっている私の情報を曝け出す。ボールペンのペン先が動く独特の音が、私の耳に届いた。
- Re: 世界を作る、霧の様な何か。 10/17更新 ( No.4 )
- 日時: 2012/10/17 22:55
- 名前: 柚子 ◆Q0umhKZMOQ (ID: iAb5StCI)
ボールペンの音が私の耳を支配している間、また脳を揺らすように幾重にも重なった声が、現れる。ぐわんぐわんと、私の脳を支配しようとしているようにも思えてきた。痛い痛い痛い怖い辛い怖い痛い怖い痛い痛い痛い痛い痛い痛い! がんがんとなる鈍痛も、声と共に私の頭を襲う。
様々な声が、鈍い痛みが、尋常じゃないほどの辛さが、私を襲う。辛くて、辛すぎて、泣いてしまわないように気をつけながら、瞬きをする。小刻みに、何度も何度も。一度目を閉じてしまえば、涙が流れ放題になってしまうような気がして、ならない。
「大丈夫か?」
不意に頭を揺らすどの声よりも優しく、頭を揺らすどの声よりも慈愛の満ちた声が、頭を揺らすどの声よりも早く、私を見つけた。見つけた、と言うよりは私を見つけ出してくれたような気がした。不自然に思われない程度に、その声に対する看護師達の反応を見る。
けれど私のことなんか気にしていないのか、すぐ横で私をどうするかの話をしていた。あの声には気づいていない。そのことは、分かった。横目で私を一瞥した白衣の堕天使以外、誰も私のことを見ようともしないのだから。
そうすれば、私の揺れる脳内で生まれた小さなスペースに疑問が生まれる。どこから声が聞えたんだろう。それともあれは、実在する人間の声なのだろうか。はたまた、頭を揺らす声と同じ見えない声なのか。ぐるぐると疑問が渦巻く。
私が声を上げようものなら、きっと、白衣の天使達は私を見るだろう。そしてまた、何処からか発せられる声で私を侵しに来る。怖いと叫んでも、痛いと涙しても、やむのを覚えない声は私を襲い続ける。
「せんせー、ちょっと良い?」
遠くから、私の頭に染み渡った声が聴覚を通して聞えた。ぴたりと、白衣の天使達の声がぴたりと止まる。ぐわんぐわんと私の頭の中をかき回す声も、同時に止まった。——と、思った。
「誰だっけ、あの子」
「話してるの、分からないのかしら」
「ったく……忙しいところで」
「あ、406号室によくお見舞いきてる子だったっけ」
また、まただ。標的が変わっただけで、変わらずに私の頭を揺らしに来る。イヤだいや、怖いのはもう嫌だ。いや嫌いやいやイヤいやイヤイヤイヤイヤイヤ嫌! 自由が利いた左手が、私の左耳をふさぐ。ほぼ同時に、きつく閉じた瞼の端からは耐えられなくなった涙が、次から次へと湧き出てきた。
ぬるい水滴が、天井を見る私のこめかみを伝い耳へと進んでいく。針を刺され、包帯を巻かれた右腕は、動かそうにも動かせなかった。瞳の中に映る黒い空間は、私を歓迎するように私を包み込んだ。窮屈にも思える黒い立方体の中に、いつの間にか私はいた。
止まらない涙をこめかみに感じながら、黒い空間でも私は耳をふさぎ涙を流す。「助けて」と叫びたい衝動を、必死で殺しながら私は黙って耳をふさぎ続けた。声を発してしまうと、きっとベッドの上に居る私も声を出してしまいそうで、怖かった。
ベッドの上に居る私の周りに居る白衣の天使たちは、きっと「大丈夫?」とか言う、表面だけの言葉を私に聞かせているんだろう。それだけかどうかなんて、分からない。けれど、反応しないで泣きじゃくる私のことを、面倒だとは思っているのだろう。
そう考えると、泣いている私が惨めに思える。怖い世界に戻りたくはない。けれど、けれど戻ってしまえば現実とも区別のつかない声が、私の脳を襲う。どんなに怖がっても、やむことのない言葉の槍が私を襲う。
“言葉の暴力”などでは済まない程、強力な凶器が私を襲う。私が拒めば拒むほどに、あの声は大きくなり、脳を侵し、思考回路を停止させる。黒い空間で、ベッドの上で泣く私は、嗚咽を繰り返しながら涙をぬぐう。
目から滑り落ちる涙が、私の今の姿を助長しているようで嫌だった。黒い空間から抜け出せたとて、私を取り巻く環境は変わらないとしっていても、私の“今の姿”を表面だけで知られるのは嫌だ。
ひっくひっくと喉から変な声が出るのも気にせず、私は慎重に深呼吸をする。「大丈夫ですか?」耳元で白衣の天使が言ったのに、私は頷いた。背中をゆっくりと擦ってくれる手が、安心できたのだ。ゆっくりと瞼を開き、黒い世界と一時的なお別れをする。
別れの言葉は、視界に広がった白を代わりにしておいた。黒い空間に一つの感情もないことは、馬鹿ではないから知っている。ティッシュを差し出してくれた手は、私の包帯を取り替えてくれた天使のものだった。パステルピンクの数珠のようなブレスレット。
「せんせー、何酷いことしてるんですか? 泣きやんだみたいだけどー」
黒い空間に居るうちに起こされたのか、視界に広がっていた白は天井ではなく、見たこともない男性のワイシャツの色だった。