複雑・ファジー小説

初めての恋、そして初めての…… ( No.15 )
日時: 2012/10/17 17:07
名前: ゆかむらさき (ID: ocKOq3Od)

《ここから再び武藤なみこちゃんが主人公になります。》


「なみこー、早くしないと迎えのバスが来るわよー」


「うーん……もうすこしだから……」
 お母さんとお父さんの寝室にこっそり忍び込み、化粧台の椅子に座ってあたしは鏡の中のあたしに向かって“にらめっこ”をしている。震わせた手にお母さんの変身アイテムその1・ビューラーを持ちながら。……ちなみにそのアイテムというモノは実を言うと10種類以上はあるのだが、あたしにはとても全ては使いこなせない。だって、あたしはまだ僅か14歳。お化粧なんて、もちろんまだした事などない。出掛ける時にお母さんがどうやってコレを使っていたのかをよく思い出しながら“初めてのメイク”を体験中。
 どうして今までオシャレになんて興味のキョの字も無かったあたしがこんな事をしているかというと————


(よぅし……目力、アップ……)
「痛ッ! イタタタタ……」 
 気合いが入り過ぎたのか、まぶたの皮を思いっきり挟んでしまった。お母さんの変わりにビューラーに『5年早いわ!』と説教された感じだ。
「————ちょっとアンタ! 何やってんのよ!」
 鏡の向こうに、ただでさえ多いシワをさらに増やして睨んで立っているお母さんが現れた。
(げっ! 見つかった!!)
 慌てたあたしは、手に持っているビューラーを化粧台の引き出しの中にしまおうとしたら————
 ガッ!
「!」
 ————今度は手の指を思いっきり挟んでしまった。
 挟んだ指にフーフーと息を吹き掛けているあたしを、すぐ横でお母さんが両手を腰に当てて(多分)怒りで引きつった顔で見ている。
「……じゃ、行ってくる」
 痛さを堪え、彼女と視線を合わせない様に気を付けながら塾のカバンを持ち、玄関を飛び出した。


「今から塾でしょ! そんな事してるヒマがあったら予習とかしたらどうなの!」


     ☆     ★     ☆


 だって、予習……みたいなものだもん。
 たかぎに逢えるのは一週間でたったの二回だけ。彼に“少しでも可愛い状態のあたし”を見て欲しい————


 家の前で停まったバスに乗る前に、サイドウインドーに映っている自分の顔をチェックしているあたし。ビューラーで押さえたまつ毛は結局片方だけだった瞳をパチパチと瞬きをさせ『よし、いくぞ!』と気合いを入れる。
 たかぎに逢える喜びと、松浦くんに耐える意気込みでドキドキと高鳴る胸。


 塾は今日で2日目になる。
「……はやく乗れよ」
 松浦くんに言われ、あたしはバスに乗った。
 ああ、きっと今日も隣に座ってきて嫌なコト言ってくるんだろうな、と思ったけれど、何故か彼はあたしとは離れた席に座った。
(あれ? どうしたんだろう松浦くん……)
 きっと今日はあたしを苛めるネタが無いのだろう。……ま、いっか。とりあえず出だし好調。


「武藤さん、塾はどうかね?」
 バスが動き出したと同時に、いつも運転中口数の少ない蒲池先生が突然話し掛けてきた。
「え? まぁ、うん……」
 どう答えたらいいのか分からず、曖昧に返した。
「知らない人ばっかりで大変だろう? もしも困った事があったら、何でもいいから一人で悩まないで先生に相談してくださいね」
 塾の先生なのに、こんなにあたしの事心配してくれている……。
 毛は少ないけれど温かい先生。学校とは違って、ここはなんてイイ塾なんだ、と思った。
「大丈夫ですよ、松浦くんがいますし」
 あたしは丸っきりウソの笑いを浮かべながら松浦くんを見た。
 腕組みをして座っている彼は、『こっちを見るな』と言う様な目であたしの事を睨み付けてきた。


 バスが塾に着くと、相変わらず松浦くんは早歩きで中に入って行ってしまった。
 あたしと一緒に居るところを人に見られるの、そんなに嫌なんだ……。
 あたしは入り口の所で足を止めた。
 ここでしばらく待ってから行こう……。
 入り口の脇の壁にもたれ、手に持ったカバンを胸に抱き締めて、ドキドキしながらあたしは自転車置き場にいる人達を見ていた。
 “彼”の事を探しながら————

初めての恋、そして初めての…… ( No.16 )
日時: 2012/10/17 17:09
名前: ゆかむらさき (ID: ocKOq3Od)

「……入らないの?」
 自動ドアが開いて、塾の中から夜風にサラサラヘアをなびかせながら、今日もオシャレなジャケットとパンツスタイルでバッチリキメたたかぎがあたしの方に歩み寄ってきた。
 彼がいきなり現れたものだから、あたしはビックリして、
「は、はいっ! ……ります」
 ……なんて、ヘンな返事をしてしまった。
「ふふふっ、かーわいっ」
 彼は満点の笑みで、あたしの頭をぐじゃぐじゃっと撫でてきた。
 続々と塾にやって来る人たちが、通りすがりにみんなあたし達の事をジロジロと見ていく。中には同じクラスの人だっている。
「ヒューヒュー、アツいねー」
 ……などと、どこからか冷やかす声までも聞こえてきた。
 あたしは毛穴から湯気が吹き出て来そうなくらいこんなに顔が熱いのに、その反面、涼しそうな顔で冷やかし軍団にVサインにした手を振って応えているたかぎ。


「たか、ぎ……くん……」
 恥ずかしさに耐えきれなくなったあたしは、頭を撫でる高樹くんの手を掴んで止めた。
「はい、なーに?」
 彼はあたしの背の高さに合わせ腰を落として、まっすぐ見つめてきた。
 真っ赤な顔をして戸惑うあたしの顔を見て、からかってお茶目に笑っているのかと思ったけれど……そうじゃなかった。
 高樹くんの真剣な視線に、あたしのからだの動きが封じ込まれる。
(ちょっと、待って……。ウソでしょ? こッ、こんなところでキス、なんて……)
 高樹くんの顔が、ゆっくりとあたしの顔に近付いてくる。
(ちょッ、ちょっと待っ、てよ! 塾でしょ……!)


「……会いたかった」
 高樹くんは今度は優しく頭を撫でてきた。
 てっきりキスをされるかもしれない、だなんて勝手な想像をしちゃって思わず目をつむってしまったバカ丸出しなあたし。出逢ってまだ2日目で、しかも大勢の人達のいる塾の入り口の前でそんな事をされるなんてあるわけないのに。
 ホッと安心する様な……でも、実を言うとほんの1%だけ期待していたり。……だからそんな事あるわけないのに。
 しかし、つむっていた目をゆっくりと開けた途端、そのままスッとさりげなく手を繋がれたあたしは、高樹くんにエスコートされながら教室に向かった。


 『僕とダンスを踊りませんか?』


 小さな頃、お父さんに『読んで』とお願いして何度も読んでもらったあたしの大好きな童話“シンデレラ”。まるで、自分がシンデレラになって童話の中の世界に飛び込んでしまったみたい————
 古くくすんだえんじ色の床の階段がレッドカーペットの敷かれたお城の階段に見える。
 お願い、魔法使いさん……ずっとこのまま魔法を解かないで————


「なんだ、姿が見えないから、お勉強がイヤで逃げ出しちまったかと思ったぜ」


 最悪のタイミングで、2階のAクラスの教室の前の廊下で松浦くんに声を掛けられてしまった。 
(いやだ……逃げたい……)
 あたしは高樹くんと繋いだ手に力を入れ、軽く振った。
 しかし、嫌がるあたしの気持ちが通じなかったのか高樹くんは、松浦くんの動きをうかがう様に彼に視線を向けている。
「なぁ、高樹君……。おもしろい事、教えてあげようか……」
 壁にもたれて窓の外を見ながら松浦くんは、わざと大きな声で話し出した。


「こいつと寝ると、赤ちゃん並みによだれ垂らしまくるから気を付けたほうがいいぞ!」


 高樹くんが一緒にいるのに……。もしも今ここで穴を掘って隠れる事ができるのならば、隠れて姿を消してしまいたい。そんな事、できるはずなんかないけど————
「じゃあな」
 松浦くんは『ハイ、もうこれで充分満足しました』、という様な顔で笑いながらAクラスの教室に入っていった。


「きっと松浦くんも僕と“同じ”なんだな……」


 松浦くんの背中を見ながら、隣で高樹くんが呟いている。
 高樹くんもあたしの事、おかしい子だと思ったんだ……。
 もう恥ずかし過ぎて、高樹くんの顔をまともに見ることができない。
 あたしは繋いでいる彼の手を振り払って、逃げようとした。


「逃げないで」
 高樹くんは、あたしの肩に手を回して抱き寄せてきた。そして、あたしの髪を指でそっと耳に掛け、甘い声で囁いた。
「あんな事聞いたら……なみこちゃんと寝てみたくなっちゃうじゃん……」
(ねッ! 寝るッ!?)
 シンデレラに出てくる王子様ってこんな大胆過激なセリフ言ってたっけ!?


 キーンコーン……。
 魔法が解ける12時を知らせる鐘……いや、違った、始令のベルが二人のラブラブシーンのジャマをした。

王子様の暴走 ( No.17 )
日時: 2012/10/17 17:11
名前: ゆかむらさき (ID: ocKOq3Od)

     ☆     ★     ☆


 ————2年生Bクラス教室。
 講習が始まった。
「はい、みなさん注ー目ー!」
 黒板いっぱいに書かれた英文を、先生が指示棒を使って熱心に説明している。
 それなのに、先生の姿を見ながらも、あたしの頭の中ではさっき高樹くんに言われた『一緒に寝たい』が何度もリピートしている。
 またもや今日も講習に集中できないような気が————


(————あれ? どこだろう、ここ……)
 どこかの旅館……だろうか。
 何故かあたしと高樹くんは、雰囲気のいい純和風の部屋の中で二人っきりになっている。
 どうやら今は夜の様で、部屋のテラスの窓からは大きなお月さまが見えていて、外の庭からリー、リー、と虫の鳴く声、そして池があるのだろうか。カッポーン、と“ししおどし”の風情漂う音が聞こえてくる。


「よぉーっし! 本気でいくからね!」
 浴衣をフェミニンに着こなした高樹くんが、気合いを入れて思いっ切り“何か”を投げてきた。


 ぼふっ!
 あたしの顔に、“まくら”が見事にヒットした。
 まさか、本当に“本気”で投げてくるだなんて……。
 あたしは彼の投げたまくらに押し倒されて、尻もちをついてしまった。
「いったー……い。  
 もうッ! 手加減してよぉ。これでも一応、女の子なんだから……」
 片手で顔を押さえ口先をとんがらせながら、あたしはまくらを彼に投げ返した。
「ふふん、僕の勝ち、だね」
 キャッチしたまくらをその場に置いて、嬉しそうな顔をした高樹くんが這って近付いてくる。
(……勝ち? ————あっ、そうか。まくら投げして遊んでたんだ、あたし達……)


「じゃ、約束だから……」


 高樹くんは部屋の電気を消して、自分の着ている浴衣の帯をスルスルと外し出した。真っ暗にされた部屋の中、ほんの僅かな“月明かり”の照明が、帯を外し、はだけた浴衣姿になった彼をセクシーに照らしている。
(約束、って……何の……?)
 ワケが分からなくなって聞こうと思ったら、彼の手があたしの両肩に置かれ、そのままお尻の下に二枚仲良く並べて敷かれている布団にそっと寝かせられた。
 高樹くんの顔が近い。
 はだけた浴衣の襟の間から彼の鎖骨が見えている。男の子の鎖骨がこんなにセクシーだったなんて今まで思った事も無かった。
「もしかして……“忘れちゃった”なんて、言わないよね……」
 あたしの髪を指先でつまみながら呟く彼。
 彼曰く、“約束”というのは、まくら投げ勝負で負けた方の人が、勝った方の人の“いいなり”にならなくちゃいけない……らしい。
(いいなり……って、一体何を……?)
「……っふ」
 小さく笑った高樹くんが今度はあたしの耳たぶを軽くつまんで囁く。
「ルールだから……ね。————僕の言う事、聞かなきゃダメだよ……」


 ————カシャッ


「!」
 気が付くと、あたしは机の上のテキストの上に左の頬をくっ付けていた。
(しまった! 寝ちゃった!)
 テキストの開かれたページは、よだれで濡れてフニャンフニャンになっている。


「おはよ」
(ん……高樹、くん?)
 目を擦りながら顔を上げると、優しい笑顔を浮かばせた高樹くんが、隣で右手で頬づえをつきながらあたしの顔に向けて携帯電話をかざしている。
「寝顔、ゲット……」
 高樹くんは、絶対ヘンな顔のあたしの画像を待ち受けにして机の上に置いた。


 壁の時計を見ると、講習が始まってからもうすでに30分近くも経っていた。残り時間は10分……寝ていた時間の方が多い。こんなに長時間寝ていて、よく先生にバレなかったもんだ。でも、気付いてたなら起こしてくれればいいのに————
 横目で高樹くんをチラッと見た。するとまたもや彼と目が合ってしまった。
 気のせいなんかじゃない。講習の時間中、本当に高樹くんと目が合ってばっかりだ。自意識過剰なのかもしれないけれど、あたしの事を彼にずっと見られている様な気がする。
 どうしてだろう……。やっぱり、あたしがおかしい子だから? 
 それとも————


「夢、見てたの?」


 机の下で、高樹くんの足が軽くあたしの足に触れてきた。
「わ、わかんない……」
 あたしは自分の足を彼の足から離し、イスの脚に絡ませた。
「僕が夢に出てきた時は、ちゃんと覚えててね」
 そう言いながら彼は、講習が始まってからすぐ居眠りをしていて同じページのままずっと開きっ放しになっていた、あたしのテキストをめくってきた。


「んー……っ」
 高樹くんがイスの背もたれにもたれて伸びをしながら、何かを呟きだした。
「昨夜さ、なみこちゃんが夢に出てきたよ。楽しかった……」
 あたしの心臓が発作を起こし出した。
 だってだって、夢に出てくる、ってコトは————眠っている間、“あたしの事を考えてた”ってコト……だよね?
 勝手にそう解釈して、高樹くんが見た夢がどんな夢だったのかを気にしながら……って、気にしてなんていちゃいけない。(殆ど寝てたけど)今は講習の時間なんだから!
 ————とにかく、頑張って気持ちを先生の方に集中させた。……とたん、先生と目が合ってしまった。


「はい、じゃあ武藤さん、この英文、訳してくださーい」

王子様の暴走 ( No.18 )
日時: 2012/10/17 17:14
名前: ゆかむらさき (ID: ocKOq3Od)

     ☆     ★     ☆


 高樹くんが隣の席で良かった。
 当てられた問題は、彼にノートを使って伝言してもらいながら何とか答える事ができて本当に助かった。
 それにしても高樹くんってすごいって思う。顔立ちだけじゃなく、書く字まで綺麗なのだから。左手で書いてるのに……って、左利きだから当たり前か。
 こんなにカッコ良くって、優しくって、頭も良い高樹くんだもん。学校では男の子にも女の子にも人気があるに違いない。女の子は放っておかないと思う。絶対……。


 色んな意味でドキドキしながらも、今日の講習もなんとか終わった。
 特に英語は五教科の中で一番苦手な科目だったので、チンプンカンプンだった。
(そういえば、もうすぐ学校で模試があるんだったっけ……)
 ————急にイヤな事を思い出してしまった。
 カバンにテキストと文房具をしまいながら、だんだんと不安になってきた。
 せっかく塾に入ったっていうのに……。
 これじゃあ全然意味無いよ。高樹くんに会えるのは嬉しいんだけど————


『会いたかった』


 さっき彼に言われた言葉を思い出した。
(あたしもだよ……)
 なんだか塾に通う目的が、勉強をしに来てるんじゃなくて、高樹くんに会いに来ているみたいな感じになっている。————今頃になって気付いた。
 両手で自分のほっぺたをぺチンと叩き、心に決めた。
 ちゃんとしなくっちゃ。頑張ろう、あたし!(お母さんに叱られるし)
 次の講習からはマジメに受けるようにしよう……。


 ————なんて、考えている間に、Bクラスの教室の中には、あたしと高樹くんが二人っきりになっていた。
(わっ!! しまった! もうこんな時間!)
 壁の時計を見てビックリした。
 隣で高樹くんが、机の上に散らかっているあたしの文房具の片付けを手伝ってくれている。
「じっ、自分でやるから、いいっ」
 あたしは彼の手にあるゲロゲロげろっぴの消しゴムをサッと手に取って、中身をグチャグチャに押しこめたカバンの中にコロンと放り込み、教室の外に出た。


「なみこちゃん!」
 あたしの名前を呼びながら、高樹くんが追い掛けてきた。
 廊下にいる人達が、みんな一斉にこっちを見てくる。
 恥ずかしい。早く外のバスに逃げ込みたい。廊下は走っちゃいけない……って、分かっているのだけど、この状況にとても耐える事ができなくて、あたしは駆け出した。
「おいおい高樹ぃー、彼女、嫌がってんじゃん。そんなにいじめちゃ可哀そうだぜーっ」
「うむ! もっと優しくして差し上げぬと」
(ああ、もうっ、やっぱり!)
 途中で高樹くんの友達が笑いながら冷やかしてくる声が、耳に飛び込んできた。
 彼らの隣にチラッと松浦くんの姿が見えた。————でも、松浦くんは一緒になって笑ってはいない。どうしてだろう……。いつもなら困っているあたしの顔を見たらバカにして笑ってくるはずなのに、ものすごく不機嫌そうな顔でこっちを見ている。そうだ! きっと彼も恥ずかしいんだろう。こうやって、塾のみんなにバカにされているあたしと同じ学校に通っている、という事が————
(お願い高樹くん……もう追いかけてこないで!)
 そう心の中で念じ、足の加速度を1段階アップさせた。
 しかしそんな念力も空しく、Aクラスの教室の中に残っていた人達までもがざわざわと廊下に出てきた。
 みんな、あたし達に向けて指をさして笑っている。
(見せ物じゃ、ないっ!)
 真っ赤になったあたしは廊下を全力疾走した。


 今1階に行ったら、きっともっと人がいるに違いない。
 あたしは階段を降りるのをやめて、3階へ駆け昇った。


 静かで暗くて、誰もいない……。
 急に走り出したせいなのか、それとも男の子に追いかけられたせいなのか、たぶん両方原因だと思うけれど、ドキドキする胸に手を当てながら、ぐるりと辺りを見回した。
 この階は塾の教室としてはたぶん使われていない。
 廊下には今では使われていない古いテキストのような物が入っている段ボール箱や、先生が数学の公式などを書いて黒板に貼るために使いそうな長い紙筒や、テストやお便りを印刷するコピー用紙等が、無造作に置かれている。どうやらここは塾の倉庫のようなスペースとして使われている様だ。ごちゃごちゃしているこの廊下の先は一体どうなっているのか、何の部屋があるのか————暗くてよく見えない。
 息を切らし力の抜けきったあたしは、すぐそばの壁にもたれて、ペタンと座りこんだ。


 トン、トン、トン、トン……。
 階段を昇って追い掛けてきた高樹くんが、あたしを見つけてニコッと微笑んで近付いて来た。彼は隣に座り、あたしの肩に腕を回してきた。


「……つかまえ、た」


 シンデレラに出てくる王子様も、こんな風に追いかけてきて————どうなるんだったっけ。あれ? 確かガラスの靴しかつかまえられなかったよね……。
 どんくさいシンデレラは、簡単に王子様につかまってしまいました。
 時計の針が12時を刻んだ瞬間、魔法が切れて、醜い元の姿を彼の目の前で思いっ切りさらけ出したのでした。
 リーン ゴーン……。
 空しく夜空にこだまする鐘の音と共に寂しく消えてゆく王子様の後ろ姿……。


 醜い姿……だとはいえ、絵本の挿絵に描かれたシンデレラは可愛かった。
 あたしなんか……昔から松浦くんに“バカ”とか“ブス”とか言われてる、外見も中身も本当に醜い女の子だから……王子様みたいな高樹くんは、絶対好きになるわけ————


「なみこちゃん……足はやい……っ」
 息を切らしながらあたしの耳元で囁く高樹くんの声が、男の子なのにセクシーに感じてしまう。
 彼の声と共に温かい吐息があたしを刺激する。
「恥ずかしいから……みんなが見てる前で、こういうことしないで……」
 肩に巻きついている彼の腕をほどいて、顔を反らした。
 すると彼は、今度はあたしの両肩に手を置いて向かい合わせてきた。
「ねぇ……こっち見てよ……」
「…………」(恥ずかしい、って言ってるのに……)
 “こっち見て”だなんて言われても、高樹くんの顔をまともに見る事ができない。
「……ふっ」
 きっと真っ赤になっているあたしの顔を見ておもしろかったのだろう。彼は小さく笑い、あたしの頬に指を添えて顔を覗き込んできた。


「誰も見てないから……いいじゃん……」
 薄暗く、シン、と静まりかえった3階の廊下————
 息を切らしたセクシーな声の高樹くんの顔が、ゆっくりと近づいてくる。
 再び、心臓が発作を起こしだした。
(今度こそ、キスされる……)
 あたしは、息をころして目を閉じた。

狙われちゃったくちびる ( No.19 )
日時: 2012/10/17 17:17
名前: ゆかむらさき (ID: ocKOq3Od)

「——武藤さーん! 武藤なみこさーん!!」


 下の階で先生達が、何度もあたしの名前を何度も呼んで探し回っている。
「先生、来ちゃう……」
 あたしは目を開け、立ち上がった。
 あと三センチ……いや、一センチ? もう少しであたしのくちびるは、高樹くんに奪われていた。


 コツ、コツ、コツ、コツ……。
 段々とこっちに近付いてくる足音。
 階段の方に目をやると、黒い影が見えた。————誰かが3階に昇ってきた。


「君たち……こんなところで何をしているのかね」
 あたし達を見付け、一瞬、驚いた顔をした蒲池先生が、今度は不思議そうな顔をして歩み寄ってくる。
 ————当たり前だ。講習が終わって、みんな帰らなくちゃいけないはずの時間に、関係ない3階にいるのだから。いきなり教え子が消えた、と思いっ切り心配までかけて。


「あ、なーんだ、こんなトコにいたんだー。めっちゃ探したんだぞー」
「おや? ウワサの“なみこ嬢”も一緒でござるな?」


(ウワサ……?)
 先生の後ろから、まだ話したことはないけれど、前に何度かチラッと見た事だけはある二人の高樹くんの友達が歩いてきた。
 塾が終わった時間から、まっすぐ家に帰らず、高樹くんをゲームセンターに行こうと誘っていたお友達だ。2人共、提げGパンにTシャツなラフな格好をしていて、不良っぽい感じはしないけれど、片方は茶髪片耳ピアスで、もう片方は男の子にしては長い髪をサイドをガチガチにピンで留め、トップをちょんまげみたいに縛った男の子。
 多分不良ではないけれど、この手の男の子はなるべく関わりたくない。
 あたしの身体の中に設置してあるセキュリティー機能が危険を察知して、『上手く逃げろ!』と信号を送る。


 「すッ、すみませんでした! あ、あの、あたしっ、高樹くんに悩み事を聞いてもらってたんです。高樹くん……一緒のクラスだし、席も隣だし……
 その、友達だから……」
 とにかく、まずは先生に謝らなければいけないと思い、あたしにしては珍しく冴えた“言い訳”セリフが勢いでポンポンと出てきた。
(だ……大丈夫、かな? 怒られないかな? 怒られても仕方ないよね……)
 冷たい汗が背中をつたっていく。
 初めは心配のあまり顔を青ざめさせていた先生の顔が、少しずつ穏やかになっていった。彼はあたしの肩に手を置き、ニッコリと微笑んだ。


「保護者の方が心配されます。すぐにバスに乗ってください」


 蒲池先生の後について廊下を歩くあたし達。自分の隣にベッタリと高樹くんが寄り添って歩いているのは感じてはいる。彼を見ると、さっきの教室での彼の様子から、向こうも絶対こっちを見ているに違いないから、あたしは下を向いていた。
 あたしの手の甲にそっと高樹くんの指が触れる。まるで『繋ぎたい』と要求しているかの様に。
 先生に注意をされたそばから……。しかも彼の友達が見ている前で、そんな事なんてできないよ……。
 あたしはあえて高樹くんの方にある片方の手を、着ているカーディガンのポケットの中に逃げ込ませた。


「武藤さん、見付かりました!」
 蒲池先生は1階ずつ階段を降りながら、大きな声で報告をしている。先生の少ない髪の毛が海岸の岩に貼り付いているワカメの様に、たっぷりの汗をふくんで頭皮にベッタリとくっ付いている。
 蒲池先生と一緒にあたしの事を探してくれていた先生達は、安心した顔で「気をつけて帰りなさい」と見送ってくれている。
「本当にすみませんでした……」
 マジメにやるんだ、って……さっき決めたばかりだったのに……いきなり挫折。
 階段を降りている蒲池先生の猫背の背中を見ながら、あたしは自分の情けなさに呆れてため息をこぼした。


「んもう、なみこチャンったら。悩みなら、これからは高樹にだけじゃなくって俺達にも打ち明けてくれよ。
 ん? 恋の悩み? ……それともカラダの悩み?」
「上手な接吻の仕方ならば、日々数々の経験を積んだ拙者が手とり足とり腰とり、かつ濃厚に教えて差し上げまつる! 
 ……ところで先ほどから気になっていたのでござるが、一体何センチなのでござるか? おぬしの背丈は」
 あたしの両側に2人の高樹くんの友達が馴れ馴れしくくっ付いてくる。
(身長の事、触れないでよ……)
 なんだかんだ言って体にまで触れてきそうな予感。
 高樹くんのことは好きだけど、彼の友達は好きになれない。はっきり言って……苦手だ。


「僕の大事な友達に触らないで」
 “友達”というところを強調した口調で、高樹くんはあたしにベッタリとくっ付いている彼の友達を切り離し、肩に手を回してきた。
「これは愉快。一丁前に独占欲あふれてござるな」
「まだ“友達”のくせに」
 冷やかしてくる友達に『うるさい』と、言い放つ様に高樹くんは肩に回した手に力を入れ、さらにグッと寄せてきた。
「ほう。やるのう、おぬし……」
「ヤれヤれ、ヤっれー、もっとヤれー」
 それでもめげずに、あたしと高樹くんの気持ちもお構いなしに面白がってわざとグイグイと近付いてくる高樹くんの友達。————もう、はっきり言いたい。……迷惑だ。
 彼らは、本当に高樹くんの友達なのだろうか————信じられない。


「フーン……」
 ニヤニヤしながら、高樹くんの友達の一人が、あたしのお尻を触りながら聞いてきた。
「ねェ。なみこチャンって……処女なの?
 あっ、もしかして……もうすでに“あげちゃった”のカナー……
 ————いとしの高樹クンに……」

狙われちゃったくちびる ( No.20 )
日時: 2012/10/18 16:16
名前: ゆかむらさき (ID: ocKOq3Od)

「コッ、コラ! いい加減にしなさい、君たち!」
 蒲池先生が、広いおでこに血管を浮かばせて怒った。


「さあ武藤さん、早くバスに乗りなさい。 ホラホラ、君たちも早く帰りなさい」
 先生は腕時計を見て大きくため息をついた。


 気が付くと、あたしはバスの前に来ていた。塾の外の駐車場と自転車置き場は、もうみんな帰ってしまった様でガランとしている。
 あたしの隣で両手を腰にあてた先生が、片足のかかとを付けたつま先でアスファルトの地面を小刻みにトントン叩いている。きっと、ふざけた態度でなかなか帰ろうとしない彼らにイライラしているのだろう。
「バイバーイ、なみこチャーン」
「応援いたす! さらば!」
 高樹くんのヘンな……じゃなくって、とても特徴的な友達は、投げキッスをしながら大きく手を振り、自転車置き場の方へと走って行った。
「はい、ほらほら高樹くんも。まっすぐ帰るんですよ」
「…………」


「————どうしたんです? 高樹くん、早く帰りなさい」
 先生に何度も言われているのに、高樹くんは全く帰ろうとしないであたしの顔を見つめている。
「高樹ー、おいてくぞー」
 高樹くんの友達が呼んでいるのに、返事もしないで彼はまだあたしの顔を見つめている。
 先生は頭を掻きながら、
「まったく君はいつも……。もう知りませんよ」
 呆れた顔でため息をついて、バスに乗りエンジンをかけた。


(今、何時だろう……)
 きっと松浦くんがバスの中で待ちくたびれてイライラしながら待っている。それに、先生だって早く仕事を終えて家に帰ってゆっくり休みたいに違いない。
「……またね、高樹くん」
 ずっとあたしの顔を見つめたままで動かない高樹くんに戸惑いながら“さよなら”を伝え、あたしはバスに乗ろうと後ろを向いた。


「!」
 突然、後ろから高樹くんに強く抱き締められた。
「友達だなんて……いうな……」
 あたしの耳元で囁く声……。高樹くんの激しく刻む心臓の音を背中で感じた。
 バスの窓から松浦くんが、あたし達の方に向けて冷ややかな視線を流している。


「さっきキスできたら……よかったね……」
 高樹くんは腕をほどき、あたしの肩をトン、と叩いて自転車置き場へ走っていった。

なんてったって……バージン ( No.21 )
日時: 2012/10/17 17:19
名前: ゆかむらさき (ID: ocKOq3Od)

 暖房が効いているせいで暖かいのか。それとも高樹くんに抱きしめられて————


『さっきキスできたら……よかったね……』


 さっき高樹くんにそう言われた時からずっと震えている指先で自分の下唇を触れながらバスに乗り、松浦くんの隣の席に座った。
「じゃ、出発しますよ」
 バスが動き出した。


「待たせてごめんね……松浦くん」
「…………」
 あたしのせいでこんなに帰りが遅くなっちゃって……。一応、謝ったはいいものの、やっぱり怒っているのか松浦くんは、何も言わずに肘をつきながら窓の外を見ている。
(チラッとでもいいから、こっち見てくれたっていいのに……)
 松浦くんがこんな態度をとるのは、あたしに対してだけなのかもしれないけれど、やっぱり彼の心は氷の様に冷たい。……いや、違う。アレは氷なんかのレベルじゃない。ドライアイスだって言った方がいいのかもしれない。
 こんなひとに謝るんじゃなかったと後悔。
 しかも謝るために隣なんかに座ってしまった……と、後悔の2連発。今日の塾を何とかクリアできたと言うのに家に着くまで地獄の30分を味あわなければならないなんて……悲惨すぎる。


 
 何だかあたしの人生はこの先もずっと後悔ばっかりの様な気がする。あたしのこの情けない性格が祟って……。一日だけでいいから“充実してる”と感じられる様な日を送ってみたい……。
 初めて塾に行く時に、松浦くんに『おまえには友達がいない』とバカにされた事を思い出した。悔しいけれど、こんなに冷たくって意地悪な彼なのに、何故か学校では友達がいっぱいいる。そして勉強ができるからだろう、頼りにされていて、女の子にも結構モテている。
 あたしは隣に座っている松浦くんの顔をチラッと見た。
 スッと通った鼻筋。切れ長の目。どうもこのすました顔が母性本能をくすぐるのか、お母さんまでもが彼の事をハンサムだって言っている。
 きっと塾でもそうに違いない。みんな“本当の松浦くん”を知らないから騙されているんだ————
 あたしは膝の上に乗せた手を思いっ切り握り締めた。
「こっ、こんなあたしでもねっ、友達……ちゃんとできたんだよ。
 ————もう一人なんかじゃないもん……」
 震えた声で挑発し、無理矢理作った得意げな顔で彼を見た。


「……誰だ」
 少し間をおいて、松浦くんはそのまま窓の外を見ながら聞いてきた。
 無理矢理作った得意気な顔が、松浦くんのボソリと問いかける低い声に若干壊される……。
「えっと……同じクラスの高樹、純平くん……」


 ガンッ!!
 松浦くんは足で思いっ切り前の座席のシートを蹴り付けた。シートが壊れるかもしれないくらいの大きな衝撃音がバスの中に響き渡った。
「こっ、こらっ! 乱暴はやめなさいっ、松浦くん!」
 ハンドルを操作しながら蒲池先生が彼を叱った。
「——チッ!」
 松浦くんは一瞬だけあたしの顔を見て舌打ちをして、再び窓の外を見た。


(まっ、負けないもんね……)


     ☆     ★     ☆


「今日は寝ないんだな……」
「……えっ?」


 相変わらず窓の外を見ながらの姿だけど、突然、松浦くんに話し掛けられた。あんなに怒っていたからもう家に着くまで会話なんてしないと思っていたのに————
「だって……眠たくないもん……」
 あたしは小さな声で返した。
「——フン、どうせお前の事だから講習の時間に居眠りでもしてたんじゃねーの? ダラダラよだれでも垂らして」
 彼は鼻で笑って、またいつもの様にバカにしてきた。
「余裕だねェ。もうすぐテストだっていうのに……。ハー、うらやましい」
 彼は成績が全教科校内学年トップのくせに、わざと針でつつく様な嫌味を言ってきた。
(……?)
 彼にこんな事を言われるのは、いつもの事だと分かっているけれど————なんだか違う。
 何となく、ただ単にあたしをいじめているだけではない様に感じた。……まるで何か面白くない事があって八つ当たりをされているような————
(気のせいかな……? なんだか松浦くん、今夜は特に……)
 確かにさっきシートを蹴り付けて怒っていたみたいだけど、よく考えてみれば、“あたしにお友達ができた”事で、どうして松浦くんがあんなに不機嫌になるのかが分からない。元はといえば松浦くんが初めにあたしをバカにしてきたのが悪いんだ。


 とにかく相手の顔も見ないで、ヒドい事をサラサラッと言ってくるところが許せない。
「べっ……勉強? う、うん 、してるよ。ちゃんとしてるもん……」
(ホントは全然してなくって焦ってるんだけど)さっきよりも小さくなった声で返した。


 バスが赤信号で止まった。
 ————赤信号。
 あたしも、もうこれ以上余計な事を言わない事に決めた。
(相当キライなんだな……あたしの事……)
 無表情で窓の外を見ている松浦くんを見て思った。
 ただあたしは……さっき、いっぱい待たせちゃったから、一言謝りたかっただけなのに。
 ————やっぱり松浦くんの隣になんて座るんじゃなかった。
 こんなに相性の悪い、愛想のかけらもない人の傍にいても、また衝突事故を起こすだけ……。バスが止まっている今のうちに、彼から離れた席に移動しようとあたしは席を立った。
 瞬間、信号が青に変わり、再びバスが動き出し、左折をした。
「ひゃあッ!」
 そのままバランスを崩し————なんとあたしは松浦くんの上に倒れこんでしまった。
「イタタタ……」
 ————気が付くとスゴい体勢になっていた。
 両手を松浦くんの肩の上に乗せて……おそらくあたしはバスが左折をした時に、大胆にも彼の胸の中に顔からダイブをしたのだろう。彼が首に掛けている銀色のペンダントにぶら下がっている十字架の形にクロスした二本の剣(つるぎ)のヘッドが目の前で狂気を放ち冷たく光っている。
 おそるおそる顔を上げると————松浦くんの顔があった。彼は目を丸くして固まっている。
「うわっ! ご、ごめん……なさいっ!」
 彼の顔をいきなり至近距離で見たものだから、取り乱して思わず『うわっ』と叫び声が飛び出てしまった。 
 あたしは怖くなって、動いているバスの中にも構わず立ち上がり、彼の傍から逃げようとした。


「武藤さん! 運転中に席を立たないでください。危ないですよ!」
 先生に注意をされ、仕方なくその場に座った。
 隣で松浦くんが、すごくイヤそうな顔であたしを見ながら、まるで汚いゴミでも付いたかの様に上着を両手ではらっている。


「——チッ! 痛いのは俺のほうだ……」

なんてったって……バージン ( No.22 )
日時: 2012/10/17 17:20
名前: ゆかむらさき (ID: ocKOq3Od)


(あっ、そうだ。)
 実は松浦くんに謝った“ついで”に聞きたい事があったことを今、思い出した。
「ねぇ、松浦くん……」
「…………」
 松浦くんは一瞬だけこっちを見たけれど、やっぱり何も言わずに窓の外を見た。
 絶対聞こえているはず……。ここで引き下がったら、あたしの“負け”だ。
 それにバスに乗る前からずっと気になっていた“アレ”の意味を聞くまでには気持ちがおさまらない。
「松浦くんっ」
 あたしは彼の膝の上に手を置いて揺らした。
「なに!」
 面倒臭そうに彼は鋭い目をして睨みつけてきた。あたしは思い切って……聞いてみた。


「“処女”って……なに?」


「——ッ!! 
 ————はあ!?」
 一瞬、バスの中の時間が止まってしまった様な空気になった。
 隣で松浦くんが、顔を真っ青にして固まっている。
(あれ? 聞こえなかったのかな?)
 松浦くんは何も返してこない。
 あたしはもう一度聞いてみた。
「ねぇっ、 処女って、どーゆう意味なのか……」


 キ————ッ!!
 同時にバスも急ブレーキをかけて止まり、『もう かんべんしてくれ』というような顔で先生は運転席から首を出して振り向き、あたし達の方を見てきた。


「それ……あいつが……、高樹が言ったの、か……?」
 松浦くんが声と体を震わせながら問い掛けてくる。
(こっちが聞いてるのに聞き返してこないでよ……)
 “ソレ”を言ったのは高樹くんじゃなくって……高樹くんの“友達”だったんだけど。
 ————そんなことよりも彼の反応を見ると、やっぱり……いや、絶対意味を知っている様だ。
「知ってるんなら教えてくれたっていいでしょ、ねえっ、処女っ……
 ——もが!」
 松浦くんの大きな手が、あたしの口をガバッと塞いだ。まるで人質に捕らわれたかの様に、彼の腕が首に巻き付いていて身動きが取れない。おまけに息もできなくて、あたしはバタバタともがいていた。
「だまれ……。わかったか……」
 あたしは何度も首を縦に振って、松浦くんの手を離してもらった。
「もッ、もうすぐ着きますから、おとなしく座っていてくださいね……おとなしく……」
 先生はオドオドした声でハンドルを握り、バスが再び動き出した。


 松浦くんは、あたしの口を塞いでいた手を自分のズボンで拭いてから、一回せきばらいをして、
「……経験が、まだ……って、ことだよ……」
 自分の顔を手で覆いながら説明をしだした。
 説明とはいっても何だか曖昧で、あたしは意味が分からず、さらに聞き返した。
「“経験”……って————何の?」
 空気が再び凍りついた。
「え! ……ええッ!?」
 松浦くんは、あたしの足の付け根の辺りに視線を落とし、顔を真っ赤にして呼吸を乱した。いつもの超クールなポーカーフェイスの彼とはとても想像がつかない顔を見てしまった。返事を待っているあたしの顔を『そんなに見てくるな』という様な顔で何度もチラチラと見ながら、ろれつの回っていない慌ただしい口調で、
「うん……。だっ、だからな……その……せっ……性……」
 と、言い掛けたところでバスが止まった。


「ハイ、着きました! さようなら、武藤さん、松浦くん!」
 ずれたメガネをかけ直している何だか焦った様子の先生に、あたし達はムリヤリバスから降ろされた。
 ————そのままバスはあたし達の元から逃げる様に去っていった。
(先生も、知ってたのかな……)
 結局、あたしだけが意味の分からないままで終了————
「……むぅっ」
 何か無性に後味が悪い。あたしは心の霧が晴れない気分で、すぐ横にいる松浦くんを見上げた。


「お……ッ! ——おまえの事だッッ!!」
 怯えた顔で彼は言い放ち、大慌てで家に帰って行った。


 21時過ぎの閑静な住宅街に、松浦くんの家の玄関のドアを閉める音が大きく響き渡った。