複雑・ファジー小説

Re: 絵師とワールシュタット ( No.13 )
日時: 2013/05/03 01:03
名前: ryuka ◆wtjNtxaTX2 (ID: bFAhhtl4)


■青年と故郷


 —— 遥々歩けば、そこは砂漠の国。
 どこまでも続く地平線に、沈む太陽が血の色に鮮やかだ。

 はじめて、“殺す”側に立った僕は、きっともう、あの頃には戻れない。




            ◇

 エルネたちの軍が出兵してから二日が経った。そんな朝のこと、エルネは急に上官のテントに出向するようにと命じられた。

 「おい、エルネ!なんだお前悪さでもしたのか」

 仲間のうちの一人が、心配そうに問い掛けてきたがどうにも返す言葉が無い。悪いことなど何ひとつしていない。第一、目立たないただの一兵にすぎない自分がなぜ急に上官に呼ばれたのか全く分からなかった。

 「いや……何もしてないんだけど、ねぇ……」
 
 
 怖気づきながらも、仲間に付き添われてエルネは上官のテントの帳をくぐった。テントの中に入ると、これまた体格の大きい赤毛の男たちがテントの四隅に置物のようにそびえ立っていた。バラージュに似た、少し浅黒い肌にくせのある赤毛である。そしてその奥に、どうやら上官らしき黒髪の初老の男がゆったりと椅子に腰かけていた。鋭い目付きの男で、エルネはすぐに老鷹を連想した。
 上官はエルネを一目見ると、重々しい低音でゆっくりと喋りかけた。

 「君が、エルネ君かね」
 「はい」
 エルネは、すぐに右手を敬礼にあてた。

 「君の経歴は聞いている。白絹の国から、遥々“死の砂漠”を超えてこの国まで来たそうだな。よく生きてここまで来れたな」

 「いえ、自分は恥ずかしながらも死にかけました。連れの男に助けられまして」
 ……本当に、あの時バラージュに偶然助けられて良かったと思う。でなければ、こうして今、僕は生きていないだろうから。

 「そうか、君は運も良かったのだな。天に愛されているということだよ。羨ましい」上官は、ちっとも羨ましくなさそうに言った。
 「……それで、まだ言葉は覚えているかね。その、白絹の国の言葉を。まだ喋れるか?」

 「はい、多分まだ大丈夫です。しかし何分、数年間こちらの言葉しか喋っていなかったものですから……少し発音がおかしくなっているかもしれません」

 「構わん。大丈夫だ—— ところで、君は今から通訳をする気はないかね? 私の長年使って来た通訳が昨晩急に倒れてしまってね。それでどうしても君の力が欲しいのだ」

 「え……」
 思ってもみなかった。まさか通訳をしろと言われるなんて。

 「嫌かね?」
 「いえ! こんな自分のような者で大変恐縮ですが、大将の通訳、この身に余る光栄にございます」

 すると上官は満足そうに頷いた。
 「よろしい。ではすぐに荷物をまとめて参謀隊に合流したまえ。今から君は参謀一課の一人だ」

 「はっ!」
 ドキドキと、鼓動が鳴った。まさか参謀に入れるだなんて。外国人であることが役に立ったことなどこの常緑の国に来てからただの一度も無かったが、まさかこんな幸運が訪れるなんて思っても見なかった。でも、少し自信が無かった。まだきちんとあの国の言葉が話せるだろうか。

 けれども、そんな不安もちっぽけなもので。エルネはすぐに踵を返して、テントから出て行こうとした。すぐに荷物をまとめて、参謀一課のテントに移るのだ。


 「そうだ、エルネ君」
 後ろから、上官の呼び止める声がした。エルネは礼儀正しく振り返って、上官の鷹のような目を見つめ返した。

 「わかっているのか、その……」
 「僕らが今から進軍する国ですか? 分かっております」

 「そうだ。知っていたのか、何故そんなに平静としているのだ。お前は兵隊としてあの国を滅ぼしに行くのだぞ。知り合いも多数いるのではないか、出兵を断ることもできただろうに。なぜ出兵した」

 「……そうですね」
 エルネは、ゆっくりとまぶたを閉じた。閉じた視界には、小さいころ過ごした、王宮から見える美しい青空と、白い教会と、それに鐘の音や鳥の声、風のささやきが思い出された。


 「いいのか。仮にも、お前の、」

 「いえ、」
 エルネは笑顔で上官の言葉を遮った。


 「……仮にも、故郷などとは思っておりません。あそこは、きっともう、僕の知っている場所ではありませんから」