複雑・ファジー小説
- Re: 夏のおわりの挽歌 ( No.3 )
- 日時: 2013/03/28 22:24
- 名前: 名純有都 (ID: td9e1UNQ)
第三章 ロストネーム
昔の名前は風間小夜子だった。母の名前と、立った一文字しか違わなかった。小夜子と小枝子。よく祖母に間違えられた覚えがある。
ただし、今の私にはこれといった家族もいないし、風間家と証明するものも全て捨てたから戸籍もとうに喪失したけれど。
風間家の人間は、父以外全員が家族を大事にしていたのだろうか、ほとんどが鬱になった。
「小夜ちゃん、かわいそうに。かわいそうに」
「辛くなったらおいで。いつでも迎えてあげる」
そう言うばかりで、すぐにみな死んだ。もう歳だったからかもしれないし、鬱のせいだったかもしれない。
ようは、私が頼るものはもうこの世に存在しないという事だけだった。あるとすればそれは、事実という名の自分。自分がいま涙を流し、怒り、戸惑っているというどうしようもない事実だけ。
戸籍を擁護するものがいなくなると、やがて私は自然と無いもののように扱われるようになった。学校は辞めた。居場所はなく、実質住んでいた家も追い出され。
しかし私は仕事を見つけた。
それは、田舎でひっそりと農家の手伝いをし、重労働が億劫な老人を手伝い、老人たちの世話をし。——下町で、身を売って稼ぐ。それで生計は立てた。
最初に「買われた」記憶は、もう無くなっていた。この世にまだ「身を売る」という概念が定着しているかは、いささか疑問だけれど。願いは芽生えなかった。「初めては、好きな人が良かった」だなんて贅沢は。
名前は無い。夏目漱石じゃないが、本当に私には名前が無かった。名乗るとしたら、昔の名前を怯えながら呟くだけ。「小夜子」と。
男に抱かれるのはすぐに慣れた。生きて行くためならなんでもしようとまでは思っていなかったけれど、生きてみようとは思っていたから。
なぜあんたみたいな娘が、男に抱かれようと思ったんだ、と聞かれたことがあったなぁ、と思いだす。きっと聞いてきた男だってわかっていたはずだ。
女が身を売るのは生きるためだ。それ以外に何がある。ただの阿婆擦れって可能性もあるが。
「……あー。重い」
心も体も考えも、この荷物もなにもかも重い。夏になると、どうも自分は変だ。
とめどなく汗が流れ落ちてくる。それをぬぐって、見えてきた川の方に歩く。
冷たい水気を含んだ空気が、心地いい。湿気とは違う清涼な空気だ。
「さよちゃーん」
河原には、見知った農家の小母さんがいた。きっと、私と同じことを考えて川で野菜を冷やしているんだろう。
「おばあちゃん、野菜冷やしてるの?」
「そうだよ、さよちゃんもかい?」
「里の方から持ってきたから、そろそろ冷やさないと痛んじゃいそうだから」
「そうだね、どうせならここに置いていって家でお茶でも飲んで行きなさい」
小母さんは有名なコメ農家の人だ。いつも、米を分けてもらって助かっている。
「わあ、ありがとうございます!」
木にロープで籠を括りつけ、流れて行ってしまわないようにする。一時間も置いておけば、冷えるだろう。
そう思って、私は彼らの家にお邪魔になることにした。